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兼六園の花見

2016-04-02 20:54:15 | 日記
開花宣言して、あったかかったから、直ぐ花見に行きました。
兼六園の夜桜。

すごい人

大松庵で20分並んで団子を買い、

〆は、サンクスで、最後の一個の「ガリガリ君リッチ、桜もち」をゲット

コンビニ4軒目でやっと発見!
ついてる!(≧∇≦)

般若心経の解説1、"観自在菩薩" "行深般若波羅蜜多時" "照見五蘊皆空"

2016-04-02 16:59:53 | 般若心経
🍀般若心経の解説🍀1


🌸🌸「観自在菩薩(かんじざいぼさつ)」🌸🌸

「観自在菩薩」は、観音さんと同じことです。

「観世音(かんぜおん)菩薩」ともいいます。

「観自在(かんじざい)」には、
世の中の多くの人々から観られつつ、

多くの人々を観て救う、はたらきが"自由自在"であるという意味が込められています。

この語は、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)の新しい訳語です。

これに対して、
「観世音(かんぜおん)」は、

それ以前の古い訳語です。

この「観世音」という語は、

この世の人々の、苦しみ悩む音声(おんじょう)を観察して、
彼らの苦悩を救いとる、という意味があるとされています。

「観音(かんのん)」は、
「観世音(かんぜおん)」を短くいったものです。

中国や韓国・日本では、
どちらかといいますと、
「観自在」より「観世音」あるいは「観音」の方が一般的に流布しています。

それは、なぜかといいますと、

後者の方が、
意味からも、語感からも、
私たちにより親しい懐かしい響きを持っているからでしょう。

その観音さんが、この「般若心経」の冒頭に、まず登場します。


🌸🌸「行深般若波羅蜜多時(ぎょうしんはんにゃはらみったじ)」🌸🌸

行は「修業する」「修業している」という意味、
深は「深い」という意味です。

「般若」といいますのは、
インドの古い言葉のサンスクリット語「プラジュニァー」
(パーリ語の「パンニャー」がより近いと思われますが)

の音を写した語です。

本来は「智慧」という意味です。

「波羅蜜多」も、サンスクリット語の「パーラミター」の音を写した語です。

「彼岸に至ること」とか
「完全に到達すること」を意味します。

したがいまして「般若波羅蜜多時」とは、
「智慧の完成」ほどの意味をもちます。

だだし、智慧といましても、小ざかしい智慧ではなく、

ものごとを正しく識別する能力、あるいはすべてを見通しと見識のことです。


🌸🌸「照見五蘊皆空(しょうけんごうんかいくう)」🌸🌸

ここでは、「五蘊(ごうん)」と「空(くう)」がキーワードです。

「照見」とは徹見(見通す)することです。

「空」は、普通は「そら」と読みますが、
仏教では、「くう」と読み、特有な意味を持たせています。

「五蘊」とは、「5つの集まり」ということです。

この世における物事、すべてを指します。

具体化には、

1)物質的構成要素(われわれの肉体をも含む)をあらわす「色(しき)」

2)われわれの感受作用の「受(じゅ)」

3)われわれが心に想うこと、すなわち表象作用の「想(そう)」

4)われわれの意志作用、つまりうちから作り出す力としての「行(ぎょう)」

5)さまざまなものやことを識別する作用の「識(しき)」

の5つのことです。

一方、

「空(くう)」といいますのは、あらゆる物事は、固定的な実体性を持っていないということです。

すべては変化し、流動的であるといいかえてもよいでしょう。

われわれは、土地や財産(お金や宝石)がなくならないように、

恋人が心変わりしないでほしい、

夫や子供と死に別れることがないように、

いつまでも、この若さと美しさを保ちたいなど、

と思っていても、ままなりません。

逆に、失恋してもそれ以上の素晴らしい恋人が現れることもあります。

失業しても、さらによい給料のよい職が見つかることもあります。

成績の芳しくなかった子供が、急に良い点を取るようになることもあります。

このように、

この世の現実は流動的であり、

いたずらに一喜一憂することなく、努力しなさいということが、

「五蘊皆空」のいわんとするところです。


(「あなただけの般若心経」より)

ヘレン・ケラーが心の支えとして尊敬した日本人・塙保己一

2016-04-02 11:47:13 | お話
🍀🍀ヘレン・ケラーが心の支えとして尊敬した人🍀🍀①


生後19ヶ月で、盲(もう)聾(ろう)唖(あ)となるも、

三重苦を乗り越え、障がい者の福祉事業に生涯を捧げたヘレン・ケラー。

彼女に奇跡をもたらしたのは、

両親の愛と家庭教師アン・サリバン女史の

献身的な教育であるといわれています。

けれども実は、彼女の心の支えとなった、
もう1人の人物が存在するのです。

その人物の名は、塙(はなわ)保己一(ほきいち)。

江戸時代の盲目の国学者で、「群書類従」の編纂者として知られています。

昭和12年(1937年) 4月、ヘレン・ケラーが初めて来日した時、東京渋谷にある温古(おんこ)学会を訪れました。

温古学会会館は、塙保己一の偉業を顕彰するとともに、

その膨大な遺産である版木

(木版印刷を行うために文字や図様を彫刻した板)

の保存を目的として建設されたもので、

そこには、保己一の坐像や愛用の机が保管されています。

それらに手を触れながら、ヘレン・ケラーは、次のように語ったそうです。

「私は子供の頃、母から塙先生をお手本にしなさいと励まされ、育ちました。

今日、先生の顔に触れることができたことは、

日本訪問における最も有意義なことと思います。

先生の手垢の染みた机と、頭を傾けていらっしゃる敬虔なお姿とには、

心からの尊敬を覚えました。

先生のお名前は、流れる水のように永遠に伝わることでしょう」

盲目を嘆かず、常に人のために全身全霊で尽くした保己一の話を、

ヘレン・ケラーの母親は、いつも愛しい我が子にしていたといいます。

そしていつの頃からか、ヘレン・ケラーの心の中で、

塙保己一という1人の日本人が、

人生の目標となり、同時に心の支えとなっていったのです。

ヘレン・ケラーの人生に大きな影響与えた塙保己一。


彼は延享3年(1746年)に武蔵国保木野村(現在の埼玉県本庄市児玉町保木野)に生まれました。

幼い頃から体が弱かった保己一は、数え年7歳のときに病により失明。

当時は徳川幕府の保護のもと、
盲人だけの按摩や鍼、三味線、金貸しなとの職業組合(座)があり、

厳格の徒弟制度が敷かれていました。

保己一は、15歳の時に江戸に出て、座の最高位である「検校(けんぎょう)」という位についている雨富須賀一に弟子入りします。

保己一は生涯に何度も改名していますが、

30歳の時、「塙保己一」と名乗るようになり、
その後は76歳で亡くなるまで、この名を通しました。

名前の「保己一(ほきいち)」は、中国の書物「文選(もんぜん)」に

「己を保つ百年を安んず」

とあるのを出典とし、

「百歳までも生きていこう」

という意味が込められています。

姓の「塙(はなわ)」は、

師匠の雨宮須賀一の本名をもちいました。

保己一の師匠に対する尊敬の念が伝わってきますね。

しかし、弟子入りした当初、

生来不器用な保己一は、按摩や鍼の修行にも身が入らず、
三味線や琴もなかなか上達しませんでした。

加えて、貸金の取り立てに行っても、

つい借りた人の立場に立って考えてしまうので、どうしても取り立てができません。

「このまま師匠に迷惑をかけるだけなら、死んだほうがまし」

と、ついに保己一は、自殺を図ろうとしました。

幸いその直前で助けられ、自殺は未遂に終わりました。

雨富のもとに戻される保己一。

通常なら破門を言い渡されるところです。

ところが、雨富は保己一を叱責した後、穏やかな声でこう尋ねました。

「お前は何か、他のことに気がいっているのではないか。

私はそのことを咎めようとしているのではない。申してみよ」

実は、保己一は、学問したいという願望を抱いて、江戸に出てきたのです。

幼い頃から記憶力が抜群で、学問が好きだった保己一は、

将来は江戸に出て学問を修めたいと考えていましたが、

たまたま、実家を訪れた絹商人から、

「太平記」を暗記して読み聞かせることをで名を成した盲人の話を聞き、

その思いを、さらに募らせていったのです。

保己一は、泣きじゃくりながら、師匠に学問への思いを打ち明けました。

すると、雨富の口から、ありがたい返事が返ってきました。

「博打と盗みはいけないが、好きな道を目指すのは結構なこと。

これから3年間は面倒を見よう。

しかし、3年たっても見込みが立たなければ国許へ帰す」

実のところ、雨富は、保己一の学才に気づいていたのです。

実技は、からきし駄目なのに、医学書は一度聞いただけで、

一字一句間違えずに覚えてしまうほど、

保己一は優れた記憶力を持っていました。


それからというもの、保己一は、

本を貸してくれるという人の噂を聞いては訪ね歩き、

借りてきた本を読んでくれる人を探すという日々を送りました。

やがて、こんな噂が広がっていきました。

「雨富検校のところに、珍し書物好きの弟子がいるそうだ」

「なりふり構わず書物を持ち込み、誰かれとなく捕まえては
読んでくれ!と頼み込むんだそうな」

「その真剣さといったら、並じゃないってことだよ」

保己一の噂を聞いて、
下手な按摩ながら、ひいきにしてくれる人も出てきました。

保己一は、心を込めて彼らの身体を揉みます。

按摩が終わると、今度は、彼らが書物を読み聞かせてくれるのです。

読み聞かせのお礼に、按摩代を受け取らないのが、保己一の流儀でした。

神経を研ぎ澄まして、読み聞かせを真剣に聞く保己一。

その姿に、誰もが感動しました。

さらに一度聞いた書物は全部覚えてしまい、

次に訪ねた時に意味が分からなかった箇所を質問したりするので、

読み聞かせた方が驚いてしまうありさまでした。

そんな保己一の知識欲を満たしてくれる人物が現れました。

隣家に住む、松平乗尹(のりただ)という旗本です。

彼は公務で多忙な日々を送っていましたが、

保己一の噂を聞いて、ひどく感心し、
自ら本を読んでやろうと申し出たのです。

「一日おきに寅の刻(朝4時)から卯の刻(6時)までなら読んでやろう。

どうかな、ちょっと早すぎるかな」

保己一が乗尹の申し出を心から喜んだのは、いうまでもありません。


まだ外が薄暗い寅の刻、乗尹の力のある声が響きます。

それを、微動だにせず聞き入る保己一。

やがて日が昇り始めると、あたりに物音がしはじめるので、

保己一は終りの時間が近づいたことを知ります。

時間が来ると、保己一は、せめてものお礼にと、
心を込め乗尹の肩を揉むのです。

早起きなんて、保己一にとっては、少しもつらくありませんでした。

幼い頃から夢見ていた学問の道を、一歩一歩進んでいるという実感が、保己一をさらに奮い立たせていたのです。

そんな保己一の向学心に感じた乗尹は、この提案をしてくれました。

「わしの家で、毎月、萩原宗固(はぎわら そうこ)という先生が『源氏物語』や和歌の講義をしてくれる。

お前も一緒に講義を聞いてみてはどうだろうか」

保己一は、飛び上がって喜びました。

宗固の講義を、座敷の隅に座ってじっと聞き入る保己一。

その姿に心を動かされた宗固は、講義が終わると保己一を呼び、

その日に講議したことを尋ねます。

すると保己一は、的確に応えた上で、
難解だった点をいくつか挙げて宗固の意見を求めるのです。

宗固は問いに答えつつ、内心舌をまいていました。

毎回その様子を目のあたりにしている乗尹は、

「保己一を宗固の門人に加えてやりたい」

という思いが、自然にわいてきました。

彼は、さっそく雨富検校の所に出向き、
保己一の比類のない才能について話し、

その才能伸ばすためには、
きちんと系統的な学問をさせる必要があると説きました。

もちろん、雨富にも異存はありません。

こうして保己一は、晴れて国学者・萩原宗固の門人として、
学者への道を歩み出すことになりました。

さらに保己一は、宗固の紹介で
川島貴林、山岡淩明といった当時一流の学者たちに師事し、

文学・医学・律令・神道など、幅広く学んでいったのです。


そして約束の3年が経ちました。


雨富は、保己一の努力を認め、
今まで以上に保己一を支えるべく、

影になり日なたになり、物心両面でできうる限りの支援をしました。

盲人の保己一が学問を深めていくためには、
死ぬまで読み手を抱えておかなければなりません。

そのためには、金銭を得ることが必要です。

雨富は、保己一の官位を上げるために伴う多額の出費を厭いませんでした。

さらに、体の弱い保己一を心配する雨富は、旅をすれば丈夫になるだろうと考え、

保己一 21歳の春に、実父とともに
伊勢神宮から京都・大阪を旅することを勧め、その旅費も負担しました。

今まで書物だけで聞きしていた地を、自分の足で歩き理解を深めた経験が、

保己一の感性を目覚めさせてくれたのでしょうか。

およそ2ヶ月に及ぶ旅行から戻った保己一は、雨富の期待通りに丈夫な身体となり、

以後、学問への集中力が高まっていったのです。

それから3年後、

保己一は、江戸期を通じて第一等の国学者で、優れた教育者手もあった賀茂真淵(かもの まぶち)に入門し、
「六国史(りっこくし)」などを学びました。

入門してわずか半年ほどで真淵は亡くなりましたが、

ごく短い期間でも、大国学者の真淵に直接学ぶことができ、

さらに師のもとで素晴らしい研究仲間に出会えた事は、

保己一にとって、かけがえのない経験となりました。


(つづく)