🌸🌸「心を込めた清掃」🌸🌸
私は1970年、中国瀋陽(しんよう)に生まれました。
お父さんは、1歳の時に旧満州に取り残された日本人の残留孤児です。
お父さんが残留孤児でなければ、一家で日本に来られなかったし、
私の人生は全く違う違うものになっていたと思うんですけど、
なんというか…、当時のことを思い出すと、今でもやり切れないんですよ。
あれは小学生の時でした。
いつものように友達と楽しく学校生活を送っていたある日、
私のお父さんは日本人だと明らかになると、
その途端、クラスの1部の子から
「日本鬼子」て言われて、
いきなり、いじめが始まったんです。
残留孤児の2世だからって何なの?
生まれてきたいけないの?
って。
そういうことばかり考えると、どんどんマイナスな感情にとらわれてしまうんですね。
もともと内向的で、おとなしい性格だったので、
いじめられると、いつも泣きながら逃げて帰ってきていました。
ところがある時、
私の姿を見かねた叔父さんは、
「なんで逃げて帰ってきたんだ!
やられたら、やり返して来い」
と言って、
その場でいじめた子の家まで連れていってくれて、
やり返してくれたんですね。
それ以来、
何を言われても気にならなくなって、
その場で言い返せるようになりました。
「ブス」とか言ってくる子には、
「何で、あなたに言われないといけないの?
私の顔は世界でただ1人の顔よ」って。
その時から、
「私は選ばれて、ここに生まれてきたんだ」
と思うよになったんです。
だから、おじさんの言葉が非常に大きな転機になりました。
それがなかったら、あのいじめには耐えられなかったですし、
今頃どっかで死んでいたと思います。
◇・◇・◇・◇
日本に来たのは17歳の時です。
当時の中国はテレビがまだ白黒で、家には洗濯機も冷蔵庫もありませんでしたから、空港に降り立ったときの衝撃は今も忘れられません。
私たち家族は、国から住まい以外の支援を一切受けず、
みんなで力負わせて生活していこうと決め、
私は都立高校に通いながら清掃会社でアルバイトを始めました。
なぜ清掃の仕事だったかと言うと、当時は日本語が全くわからなかったので、
言葉が通じなくてもできるという理由で選んだのです。
私は日本語学校には通っていなくて、アルバイト先とかで徐々に覚えていったんです。
実はアルバイト先でもひどい扱いを受けました。
何か物がなくなると、
「あなたは中国人でしょ。
日本人は6人のものを取らない」
って私の目の前で言うの。
私が「違います」って否定しても、なぜか給料を引かれている。
ゴミ回収作業の時、机の前にあるゴミ箱に千円札が入っていて、
机に座っている方にちゃんと渡したというのに、その私が、なぜ人の物を盗るの?
「悪いことをしていない」と言うだけでは通用しないんだったら、
普通の努力をしても意味がない。
仕事を人一倍頑張って、あの人たちを見返してやろうと思ったんです。
それからはもうマイナスの感情にとらわれる余裕もないくらい、
とにかく目いっぱい仕事に没頭していきました。
◇・◇・◇・◇
高校卒業後、音響機器メーカーに就職しましたが、
そこで正社員として働きながらも清掃のアルバイトを続けていったんですよ。
365日、ずっと清掃の仕事をしていました。
朝は5時半から2時間くらいゴミ回収や清掃機がけのアルバイトをし、
日中は会社でヘッドフォンの組み立てや点検をする。
夕方6時ごろに勤務が終わると、
夜11時過ぎまでスポーツジムで鍛えて、
ジムのお風呂に入ってから帰るんです。
当時はお金がなくてお風呂付きのアパートには住めませんでしたからね。
で、土日となれば朝から晩まで清掃のアルバイトをする。
睡眠時間は毎日4、5時間。
それでも全然疲れを感じませんでした。
音響機器メーカーでヘッドフォンの組み立てや点検の仕事をしていたおかげで、
今では清掃の機械を自分で修理するくらいになりました。
だから、その時の経験がそのクラスになっているし、今でも感謝しています。
ただ、私はいろんなことがしたかったので、
次に何をしようかと思っていたところ、
清掃の専門学校の前にあった生徒募集の張り紙を見て、
自分がしたいのはこの仕事だと思ったんです。
3年半勤めた会社を退職し、専門学校に通いました。
そんな学校に講師として教えに来ていたのが、
後に私の上司となる鈴木常務でした。
航空の掃除は特殊な仕事だし、
たくさん勉強できると聞き、
私はアルバイトでもいいから働きたいと懇願したんですけど、
「いまは募集していません。
なおかつ、うちは男性しか要らない」
って断られたんです。
その言葉を聞いた途端、火がついちゃったんですね(笑)。
男性だけで、女性はいらないってどういうこと?って。
それで意地でもこの会社に入りたいと思ったんです。
常務に食い下がって
「男性と同じペースで、同じ量の仕事ができれば
何にも文句ないでしょう?」
って言ったら、
ある日「これを読んでおいて」って求人票を渡してくれました(笑)。
それで採用になったんです。
24歳の時でした。
その頃は
「とにかく仕事を人一倍頑張れば、皆が認めてくれる」
と必死でしたから、自分中心だったんです。
心を込めて清掃するとか、そういう考えは一切ありませんでした。
そのことに気づかせてくれたのは鈴木常務なんですね。
入社から3年経った時、
私は、全国ビルクリーニング技能競技会に会社の代表として出場することになりました。
全国大会の前に予選大会があって、
私としては100%出し尽くしたんですけど、2位だったんです。
その結果に納得がいかなくて、
常務に
「何がいけないの?」
ってぶつけると、
ひと言
「気持ちを込めていない」って。
私が、
「どうやって気持ちを込めるの?」と聞くと、
「急ぐあまり道具を使ったらポンポン投げるように置いているでしょう。
それが気持ちがないってことだよ。
道具を作った人が見たらどう思う?」。
もう返す言葉がありませんでした。
そこから全国大会までの2ヶ月間、
私は道具や物も人だと思って、
使ったら「ありがとう」って言いながら置くようにしていきました。
ただ、常務は「自分で考えろ」という感じで、細かいことを教えてくれない。
「 気持ちを込めるにはどうしたらいいか」って毎日考えていました。
ある日、お客様の動きをずっと見ていると、
答えが分かったんですよ。
空港利用する人は年齢層も職業も当然バラバラですよね。
会社員、主婦、障がい者、子供、ご年配の方…。
それぞれのタイプによって動きが違うんですよ。
ということは、
例えば、同じテーブルを使うにしても汚れる場所、汚れ方はそれぞれ違ってくる。
そうやって考えていくと、
子供を使うとこう汚れるのか、ご年配の方の場合はこうだと、
いうことが分かってきて、
使う人のことを見据えて掃除のやり方を工夫できるようになったんですよ。
その結果、2ヶ月後の全国大会では
日本一を獲得することができました。
27歳での優勝は、最年少記録だったと聞いています。
それからですね、
自己満足の清掃ではなく、
お客様のためにする清掃に転換したのは。
「気持ちを込める」という自分に欠けていたものに気づいてから、
清掃技術の向上だけに留まらず、
もっともっと自分を高めていこうという意識に拍車がかかりました。
1つずつ目標立てて、努力して、達成して、また新たな目標を立てる。
その喜びがやみつきになって、
いつしか清掃の仕事が自分の居場所だと感じるようになりました。
そして5年後には、
羽田空港で働く全職種のスタッフの中から、
年に1度お客様の声によって選ばれる
「CS推進年間優秀賞」「CS推進キャンペーン優秀賞」をダブル受賞したんです。
実は、本年度12年ぶりに両方の賞をもらうことことができました。
◇・◇・◇・◇
私たち空港の清掃員は、お客様からいろんなことを頼まれるんです。
だから、清掃とは関係ないことであっても、
お客様から言われたことは断らないで全部やっていく。
そういうことは意識しています。
断ること自体が自分には許せないというか、
断ったらプロじゃないと思うんですね。
もちろん私にはできないようなことも中にはあるわけですから、
それを断らないでやるためにはどうすればいいかって考えて、
やっぱり日々プラスアルファの努力を積み重ねる。
あと、清掃に関しては、赤ちゃんが床でハイハイしても大丈夫なくらい綺麗にしようって、心掛けているんです。
心を込めなければ綺麗にはできませんし、
そこは妥協せずにやっています。
どんな仕事でも心を込めてベストを尽くす。
そうすることで、お客様は喜んでくれると思うの。
難しい言葉はわかりませんけれども、
私としては、ただ目の前の仕事をとにかく笑顔でこつこつ一生懸命にやること。
そして、日々目標立てて、それに向かって努力して、達成して、また次の目標立てる。
そういうことを大切にして生きてきただけです。
実は4年前、鈴木常務はがんで亡くなってしまいました。
常務がいなければ、私はこの会社に入っていないですし、
ここまで成長することもできませんでした。
その常務にご恩返しするために、
私はこれからもずっと、この会社で清掃の仕事を続けるとともに、
自分が培ってきたものを次の世代に引き継いでいきたいと思います。
(「致知 5月」新津春子さんより)
新津さんは世界一清潔な空港に選ばれた羽田空港の清掃員として、
テレビ出演や著書を出版されるななどご活躍されている方です。
素晴らしい人生ですね。(^_^)
私は1970年、中国瀋陽(しんよう)に生まれました。
お父さんは、1歳の時に旧満州に取り残された日本人の残留孤児です。
お父さんが残留孤児でなければ、一家で日本に来られなかったし、
私の人生は全く違う違うものになっていたと思うんですけど、
なんというか…、当時のことを思い出すと、今でもやり切れないんですよ。
あれは小学生の時でした。
いつものように友達と楽しく学校生活を送っていたある日、
私のお父さんは日本人だと明らかになると、
その途端、クラスの1部の子から
「日本鬼子」て言われて、
いきなり、いじめが始まったんです。
残留孤児の2世だからって何なの?
生まれてきたいけないの?
って。
そういうことばかり考えると、どんどんマイナスな感情にとらわれてしまうんですね。
もともと内向的で、おとなしい性格だったので、
いじめられると、いつも泣きながら逃げて帰ってきていました。
ところがある時、
私の姿を見かねた叔父さんは、
「なんで逃げて帰ってきたんだ!
やられたら、やり返して来い」
と言って、
その場でいじめた子の家まで連れていってくれて、
やり返してくれたんですね。
それ以来、
何を言われても気にならなくなって、
その場で言い返せるようになりました。
「ブス」とか言ってくる子には、
「何で、あなたに言われないといけないの?
私の顔は世界でただ1人の顔よ」って。
その時から、
「私は選ばれて、ここに生まれてきたんだ」
と思うよになったんです。
だから、おじさんの言葉が非常に大きな転機になりました。
それがなかったら、あのいじめには耐えられなかったですし、
今頃どっかで死んでいたと思います。
◇・◇・◇・◇
日本に来たのは17歳の時です。
当時の中国はテレビがまだ白黒で、家には洗濯機も冷蔵庫もありませんでしたから、空港に降り立ったときの衝撃は今も忘れられません。
私たち家族は、国から住まい以外の支援を一切受けず、
みんなで力負わせて生活していこうと決め、
私は都立高校に通いながら清掃会社でアルバイトを始めました。
なぜ清掃の仕事だったかと言うと、当時は日本語が全くわからなかったので、
言葉が通じなくてもできるという理由で選んだのです。
私は日本語学校には通っていなくて、アルバイト先とかで徐々に覚えていったんです。
実はアルバイト先でもひどい扱いを受けました。
何か物がなくなると、
「あなたは中国人でしょ。
日本人は6人のものを取らない」
って私の目の前で言うの。
私が「違います」って否定しても、なぜか給料を引かれている。
ゴミ回収作業の時、机の前にあるゴミ箱に千円札が入っていて、
机に座っている方にちゃんと渡したというのに、その私が、なぜ人の物を盗るの?
「悪いことをしていない」と言うだけでは通用しないんだったら、
普通の努力をしても意味がない。
仕事を人一倍頑張って、あの人たちを見返してやろうと思ったんです。
それからはもうマイナスの感情にとらわれる余裕もないくらい、
とにかく目いっぱい仕事に没頭していきました。
◇・◇・◇・◇
高校卒業後、音響機器メーカーに就職しましたが、
そこで正社員として働きながらも清掃のアルバイトを続けていったんですよ。
365日、ずっと清掃の仕事をしていました。
朝は5時半から2時間くらいゴミ回収や清掃機がけのアルバイトをし、
日中は会社でヘッドフォンの組み立てや点検をする。
夕方6時ごろに勤務が終わると、
夜11時過ぎまでスポーツジムで鍛えて、
ジムのお風呂に入ってから帰るんです。
当時はお金がなくてお風呂付きのアパートには住めませんでしたからね。
で、土日となれば朝から晩まで清掃のアルバイトをする。
睡眠時間は毎日4、5時間。
それでも全然疲れを感じませんでした。
音響機器メーカーでヘッドフォンの組み立てや点検の仕事をしていたおかげで、
今では清掃の機械を自分で修理するくらいになりました。
だから、その時の経験がそのクラスになっているし、今でも感謝しています。
ただ、私はいろんなことがしたかったので、
次に何をしようかと思っていたところ、
清掃の専門学校の前にあった生徒募集の張り紙を見て、
自分がしたいのはこの仕事だと思ったんです。
3年半勤めた会社を退職し、専門学校に通いました。
そんな学校に講師として教えに来ていたのが、
後に私の上司となる鈴木常務でした。
航空の掃除は特殊な仕事だし、
たくさん勉強できると聞き、
私はアルバイトでもいいから働きたいと懇願したんですけど、
「いまは募集していません。
なおかつ、うちは男性しか要らない」
って断られたんです。
その言葉を聞いた途端、火がついちゃったんですね(笑)。
男性だけで、女性はいらないってどういうこと?って。
それで意地でもこの会社に入りたいと思ったんです。
常務に食い下がって
「男性と同じペースで、同じ量の仕事ができれば
何にも文句ないでしょう?」
って言ったら、
ある日「これを読んでおいて」って求人票を渡してくれました(笑)。
それで採用になったんです。
24歳の時でした。
その頃は
「とにかく仕事を人一倍頑張れば、皆が認めてくれる」
と必死でしたから、自分中心だったんです。
心を込めて清掃するとか、そういう考えは一切ありませんでした。
そのことに気づかせてくれたのは鈴木常務なんですね。
入社から3年経った時、
私は、全国ビルクリーニング技能競技会に会社の代表として出場することになりました。
全国大会の前に予選大会があって、
私としては100%出し尽くしたんですけど、2位だったんです。
その結果に納得がいかなくて、
常務に
「何がいけないの?」
ってぶつけると、
ひと言
「気持ちを込めていない」って。
私が、
「どうやって気持ちを込めるの?」と聞くと、
「急ぐあまり道具を使ったらポンポン投げるように置いているでしょう。
それが気持ちがないってことだよ。
道具を作った人が見たらどう思う?」。
もう返す言葉がありませんでした。
そこから全国大会までの2ヶ月間、
私は道具や物も人だと思って、
使ったら「ありがとう」って言いながら置くようにしていきました。
ただ、常務は「自分で考えろ」という感じで、細かいことを教えてくれない。
「 気持ちを込めるにはどうしたらいいか」って毎日考えていました。
ある日、お客様の動きをずっと見ていると、
答えが分かったんですよ。
空港利用する人は年齢層も職業も当然バラバラですよね。
会社員、主婦、障がい者、子供、ご年配の方…。
それぞれのタイプによって動きが違うんですよ。
ということは、
例えば、同じテーブルを使うにしても汚れる場所、汚れ方はそれぞれ違ってくる。
そうやって考えていくと、
子供を使うとこう汚れるのか、ご年配の方の場合はこうだと、
いうことが分かってきて、
使う人のことを見据えて掃除のやり方を工夫できるようになったんですよ。
その結果、2ヶ月後の全国大会では
日本一を獲得することができました。
27歳での優勝は、最年少記録だったと聞いています。
それからですね、
自己満足の清掃ではなく、
お客様のためにする清掃に転換したのは。
「気持ちを込める」という自分に欠けていたものに気づいてから、
清掃技術の向上だけに留まらず、
もっともっと自分を高めていこうという意識に拍車がかかりました。
1つずつ目標立てて、努力して、達成して、また新たな目標を立てる。
その喜びがやみつきになって、
いつしか清掃の仕事が自分の居場所だと感じるようになりました。
そして5年後には、
羽田空港で働く全職種のスタッフの中から、
年に1度お客様の声によって選ばれる
「CS推進年間優秀賞」「CS推進キャンペーン優秀賞」をダブル受賞したんです。
実は、本年度12年ぶりに両方の賞をもらうことことができました。
◇・◇・◇・◇
私たち空港の清掃員は、お客様からいろんなことを頼まれるんです。
だから、清掃とは関係ないことであっても、
お客様から言われたことは断らないで全部やっていく。
そういうことは意識しています。
断ること自体が自分には許せないというか、
断ったらプロじゃないと思うんですね。
もちろん私にはできないようなことも中にはあるわけですから、
それを断らないでやるためにはどうすればいいかって考えて、
やっぱり日々プラスアルファの努力を積み重ねる。
あと、清掃に関しては、赤ちゃんが床でハイハイしても大丈夫なくらい綺麗にしようって、心掛けているんです。
心を込めなければ綺麗にはできませんし、
そこは妥協せずにやっています。
どんな仕事でも心を込めてベストを尽くす。
そうすることで、お客様は喜んでくれると思うの。
難しい言葉はわかりませんけれども、
私としては、ただ目の前の仕事をとにかく笑顔でこつこつ一生懸命にやること。
そして、日々目標立てて、それに向かって努力して、達成して、また次の目標立てる。
そういうことを大切にして生きてきただけです。
実は4年前、鈴木常務はがんで亡くなってしまいました。
常務がいなければ、私はこの会社に入っていないですし、
ここまで成長することもできませんでした。
その常務にご恩返しするために、
私はこれからもずっと、この会社で清掃の仕事を続けるとともに、
自分が培ってきたものを次の世代に引き継いでいきたいと思います。
(「致知 5月」新津春子さんより)
新津さんは世界一清潔な空港に選ばれた羽田空港の清掃員として、
テレビ出演や著書を出版されるななどご活躍されている方です。
素晴らしい人生ですね。(^_^)