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忠臣と良臣

2016-04-12 22:27:07 | お話
🍀🍀「忠臣と良臣」🍀🍀


貞観6年のこと、尚書省次官の魏徴(ぎちょう)が職権を利用して、

親族の便宜をはかっていると奏上した者がいた。

大宗は、さっそく御史台長官の温彦博(おんげんばく)に、実情調査を命じた。

その結果、事実無根の中傷であることが判明したが、

温彦博は

「私の調査したところでは、

魏徴に私心のないことは明らかではあります。

しかしながら、人に中傷されることじたい問題でありまして、

その点に関しては、魏徴にも幾分の責任があろうかと思います」

大宗は、もっともだと思い、温彦博を通じて、魏徴に次のような戒告を与えた。

「そなたは、今まで私のためによき諫言を呈すること数百回にも及んでいる。

このたびの些細な事件は、そなたも忠誠を、いささかも傷つけるものではない。

しかしながら今後は、人の疑念を招かぬよう、言動にいっそう注意を払ってほしい」

それから数日後のことである。

参内した魏徴に、大宗はこう問いかけた。

「近ごろ、朝廷の外で、なんぞけしからんことでも起こらなかったか」

「先日、温彦博を通じて『人の疑惑を招かぬよう気をつけよ』とのお言葉を賜りましたが、

これこそ、まことにけしからんの仰せであります。

わたくしは今まで、君臣は一心同体の関係にあるとは聞いておりますが、

うわべをとりつくろって、人の疑惑を招かぬようにせよ、などという話は聞いたことがありません。

かりにも、君臣こぞってさような心掛けで政治にあたっているとすれば、

わが国の将来も、すでに先が見えたといわざるをえません」

大宗は、がくぜんとして居ずまいを正した。

「実はわたしも、あの件については、後悔していたのだ。

大いに反省したいと思う。

どうか、そなたも今までどおり、人の思惑など、いっさい気にせず、
思ったことをそのまま申し述べてほしい」

魏徴は深々と頭を垂れながら、

「わたくしはこの体を国家のために捧げてまいりました。

今後も、ひたすら正道を守り、陛下の負託にこたえる所存であります。

ただ陛下におかれましては、
なにとぞこの私めを、

忠臣としてではなく、
良臣として、終わりを全うさせていただきとうございます」

「忠臣と良臣とでは、いかなる違いがあるのか?」

「さればでございます。

良臣とは、みずからが世の人々の称賛の声につつまれるばかりでなく、

君主に対しても名君の誉れを得しめ、ともに、子々孫々にいたるまで、

繁栄してきわまりがありません。

一方の忠臣は、みずからは誅殺の憂き目にあうばかりか、

君主も極悪非道に陥り、国も家も滅び、ただ、『かつて1人の忠臣がいた』という評判だけが残ります。

それを考えますと、良臣と忠臣とでは、天と地ほどの違いがあるのです」

大宗は、

「よくわかった。そなた、今の言葉をしかと守ってほしい。

わたしも心して国政に誤りなきを期したいと思う」

魏徴に褒美として絹200匹を賜った。


(「貞観政要」呉競より)

般若心経の解説7、"受想行識"

2016-04-12 18:41:06 | 般若心経
🍀般若心経の解説🍀7


🌸🌸「受想行識(じゃそうぎょうしき)」🌸🌸


仏教では、物質と精神とを5つに分類して「五蘊(ごうん)」と総称します。

この「五蘊」については、先に触れました。

ふたたび、おさらいをしますと、

私たちの存在を含めて、

あらゆる存在を、
(1)色、(2)受、(3)想、(4)行、(5)識、の5つの集まり(五蘊)と、とらえます。

(1)色が物質に、
(2)から(5)が精神に相当します。

私たち私たちにとっては、
(1)が肉体に、
(2)から(5)が心にあたります。

ここでは、私たちの心に相当する「受想行識」について学ぶことにしましょう。

まず、「受」とは、感受作用のことです。

苦しいだとか、楽しいだとか、痛い、かゆいなどの感受作用一般を示します。

これには、
肉体で感覚的に受ける、快不快の感じと、

精神(心)で知覚的に感じる、苦楽などの感情があります。

ただし、人間によって、また時や場合によって、その程度が異なりますので、
多分に主観的であるといえましょう。

次に、「想」とは、心に浮かぶ像で、表象作用のことです。

概念や表象を作る作用、
また作られた概念や表象そのものも指します。

例えば、「赤い花」を見たときにおこる、「赤い」とか「花」という概念、

または、その概念を作るはたらきを「想」といいます。

また、心の中に思い浮かべられる、愛おしいとか、憎いという「想(おもい)」でもあります。

「行」とは、いろいろな意味を持っている言葉ですが、

ここでは、精神的なはたらきが一定の方向にはたらいてゆく面を指し、

意志、あるいは意志的形成力のこととされます。

最後に、「識」とは、認識作用のことです。

ふつう、眼耳鼻舌身意の6種の認識作用が、

それぞれの対象を認識するはたらきの総称をいいますが、

ここでは、知識と見てもよいでしょう。

説明がややかたくなってしまいましたが、

要するに「受想行識」とは、

私たちの精神作用、

つまり、心の働きを4種に分けた言葉であると解してよいでしょう。


(「あなただけの般若心経」より)