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般若心経の解説16、"無眼耳鼻舌身意"

2016-04-25 15:05:22 | 般若心経
🍀般若心経の解説🍀16


🌸🌸「無眼耳鼻舌身意(むげんにびぜつしんい)」🌸🌸


「眼・耳・鼻・舌・身・意も無く」

ここでもやはり「空☁️の中には」という限定、

あるいは、ただし書きをつけて、ご理解ください。😄☀️

しかし、

「眼や耳や鼻…がない」という表現🌸に、
読者の皆さまは、やはり引っかかるものがおありでしょう。🎵


私たちは、普通🍀このように考えるものです。

顔には、目(眼)が2つ、鼻が真ん中についていて、口の中には舌があるではないか。☀️

頭と両手、両足、胴体で、「五体」という名の、"からだ"(身)を持っているではないか。⚡️

のみならず、

さまざまな感情💓や認識🌀を有する、"こころ"(意)を持っているではないか、と。😄

とくに、赤ちゃん💓が生まれたときなどには、
まず「五体満足だろうか」と心配😵し、

次に
「目鼻だちは、はっきりしているかな😄」

と赤ちゃん🌸の顔をじっと見つめ👀、

そして成長して美男🍀・美女🌸になってほしい✊、と願うものです。🎵

ですから、

「眼や耳や鼻や舌や "からだ" や "こころ" がない」

などという立論は、通常🌸の論理では、とうてい考えられないことです。😄

しかし、

この「般若心経🎵」は、そのような立場で、いってるのではなさそうです。

やはり、伝統的🌸な仏教教団🏤
(とくに説一切有部などの学派)が、

「眼とは何か」、
「耳とは何か」といって、

私たちの人間存在🍀を、こと細かに分析し、📝

それを、複雑かつ画一的📊に
教義化🌸したことに対する反省と見るべきでしょう。😄🎵

たしかに「眼耳鼻舌身」の分析📈は、

今日の医学🏥(身体学と言うべきか?)に、

また、

「意」の分析は、同じく心理学📚に重なるところがあります。😄

ゆえに、

伝統仏教教団🌸の人間存在🍀に対する分析⚡️
(観察あるいは研究ということになれば)

は、

まったく学問的に意味をもたないとは、いえないでしょう。😄🎵

しかしながら、

「般若心経📖」の真にめざすところは、

「人間とは、何であるか☁️」😄

にとどまることなく、

それを超えて、☁️☁️

「人間とは、いかにあるべきか✊」😍

をたずね、

それを、ふみ行う🏃ところにあります。😄✊

つまら、煩瑣(はんさ)な教義の研究🏫ではなく、

真摯🌸な真理☀️の実践✊にあるといえましょう。😄☀️


(「あなただけの般若心経」より)

軍備の鉄則

2016-04-25 11:22:43 | 基本的な考え方
🍀軍備の鉄則🍀


太宗は、太子に書き与えた『帝範』の中で、次のように述べている。

「軍備と言うものは、国家にとっては凶器である。

いかに広大な領土を有する大国といえども、

戦にあけくれていれば、人民は疲弊する。

一方、国内が平和に収まっていても、
戦いを忘れてしまえば、侵略の危険にさらされる。


人民の疲弊は国家の滅亡を招き、

侵略の危機は外敵のあなどりを受ける。

軍備は全廃すべきではないが、

さればといって、やたらにこれを行使してはならない。

それゆえ、農閑期に軍事訓練を施して戦意の高揚をはかり、

3年に1回、大演習を催して軍紀を正すのである。

昔、越王・勾践(こうせん)は、敵にいどむ蛙のさかんな敵愾心に学んで、

ついに宿敵・呉を滅ぼし、覇業を達成した。

これと反対に、

徐(じょ)の偃(えん)王は、軍備を捨ててかえりみなかったがゆえに、ついに国を滅ぼした。

この2人の違いは何か。

勾践は軍事訓練につとめ、
偃王は軍備を忘れてしまった。

それが結局は、両国の命運を分けたのである。

孔子も

『教えざるの人をもって戦う、これこれを棄(す)つと謂(い)う』

(軍事訓練を施さない人民を戦争にかり出すのは、むざむざ死地に追いやるようなものだ)

と語っている。

備えあれば憂いなしとは、これをいうのである。

これが軍事の鉄則である」

と。


(「貞観政要」より)


それで、

戦国最強の武将は言いました。

「人は城、人は石垣、人は堀、
情けは味方、仇(かたき)は敵なり」

武田信玄です。

結局、人を大切にできる人が、最強だってことなんですね。