🍀般若心経の解説🍀16
🌸🌸「無眼耳鼻舌身意(むげんにびぜつしんい)」🌸🌸
「眼・耳・鼻・舌・身・意も無く」
ここでもやはり「空☁️の中には」という限定、
あるいは、ただし書きをつけて、ご理解ください。😄☀️
しかし、
「眼や耳や鼻…がない」という表現🌸に、
読者の皆さまは、やはり引っかかるものがおありでしょう。🎵
私たちは、普通🍀このように考えるものです。
顔には、目(眼)が2つ、鼻が真ん中についていて、口の中には舌があるではないか。☀️
頭と両手、両足、胴体で、「五体」という名の、"からだ"(身)を持っているではないか。⚡️
のみならず、
さまざまな感情💓や認識🌀を有する、"こころ"(意)を持っているではないか、と。😄
とくに、赤ちゃん💓が生まれたときなどには、
まず「五体満足だろうか」と心配😵し、
次に
「目鼻だちははっきりしているかな😄」
と赤ちゃん🌸の顔をじっと見つめ👀、
そして成長して美男🍀・美女🌸になってほしい、と願うものです。🎵
ですから、
「眼や耳や鼻や舌や"からだ"や"こころ"がない」
などという立論は、通常🌸の論理では、とうてい考えられないことです。😄
しかし、この「般若心経🎵」はそのような立場で、いってるのではなさそうです。
やはり、伝統的🌸な仏教教団🏤(とくに説一切有部などの学派)が、
「眼とは何か」、
「耳とは何か」といって、
私たちの人間存在🍀を、こと細かに分析し、📝
それを、複雑かつ画一的📊に教義化🌸したことに対する反省と見るべきでしょう。😄🎵
たしかに「眼耳鼻舌身」の分析📈は、
今日の医学🏥(身体学と言うべきか?)に、
また、「意」の分析は同じく心理学📚に重なるところがあります。😄
ゆえに、
伝統仏教教団🌸の人間存在🍀に対する分析⚡️(観察あるいは研究ということになれば)は、
まったく学問的に意味をもたないとはいえないでしょう。😄🎵
しかしながら、
「般若心経📖」の真にめざすところは、
「人間とは何であるか」😄
にとどまることなく、
それを超えて、
「人間とはいかにあるべきか」😍
をたずね、
それを、ふみ行うところにあります。😄✊
つまら、煩瑣(はんさ)な教義の研究🏫ではなく、
真摯な真理☀️の実践✊にあるといえましょう。
(「あなただけの般若心経」より)
🌸🌸「無眼耳鼻舌身意(むげんにびぜつしんい)」🌸🌸
「眼・耳・鼻・舌・身・意も無く」
ここでもやはり「空☁️の中には」という限定、
あるいは、ただし書きをつけて、ご理解ください。😄☀️
しかし、
「眼や耳や鼻…がない」という表現🌸に、
読者の皆さまは、やはり引っかかるものがおありでしょう。🎵
私たちは、普通🍀このように考えるものです。
顔には、目(眼)が2つ、鼻が真ん中についていて、口の中には舌があるではないか。☀️
頭と両手、両足、胴体で、「五体」という名の、"からだ"(身)を持っているではないか。⚡️
のみならず、
さまざまな感情💓や認識🌀を有する、"こころ"(意)を持っているではないか、と。😄
とくに、赤ちゃん💓が生まれたときなどには、
まず「五体満足だろうか」と心配😵し、
次に
「目鼻だちははっきりしているかな😄」
と赤ちゃん🌸の顔をじっと見つめ👀、
そして成長して美男🍀・美女🌸になってほしい、と願うものです。🎵
ですから、
「眼や耳や鼻や舌や"からだ"や"こころ"がない」
などという立論は、通常🌸の論理では、とうてい考えられないことです。😄
しかし、この「般若心経🎵」はそのような立場で、いってるのではなさそうです。
やはり、伝統的🌸な仏教教団🏤(とくに説一切有部などの学派)が、
「眼とは何か」、
「耳とは何か」といって、
私たちの人間存在🍀を、こと細かに分析し、📝
それを、複雑かつ画一的📊に教義化🌸したことに対する反省と見るべきでしょう。😄🎵
たしかに「眼耳鼻舌身」の分析📈は、
今日の医学🏥(身体学と言うべきか?)に、
また、「意」の分析は同じく心理学📚に重なるところがあります。😄
ゆえに、
伝統仏教教団🌸の人間存在🍀に対する分析⚡️(観察あるいは研究ということになれば)は、
まったく学問的に意味をもたないとはいえないでしょう。😄🎵
しかしながら、
「般若心経📖」の真にめざすところは、
「人間とは何であるか」😄
にとどまることなく、
それを超えて、
「人間とはいかにあるべきか」😍
をたずね、
それを、ふみ行うところにあります。😄✊
つまら、煩瑣(はんさ)な教義の研究🏫ではなく、
真摯な真理☀️の実践✊にあるといえましょう。
(「あなただけの般若心経」より)