hideyukiさんの、令和もみんなガンバってますね!笑み字も!Webにも愛と光を!

日々の楽しい話、成長の糧などを綴ります。
楽しさ、感動、知恵が学べる。
(^_^)私はとっても普通の人です。

今日は、お休み(^_^)。

2016-04-04 17:18:02 | 日記
お友達の洋子さん、「長屋バー」で働いてるんですが、
近くにおもしろいオカマのお店が出来たらしい。
昼は、お茶もできる、っていうので行ってきました。

彦三緑地で待ち合わせ。

待ってると、鶯が!
今まで、聴いた声の中で、一番美しい鳴声でした。
天と繋がってるみたいな、すごい鳴声!

ついてる!

行ったお店は「紋(もん)」
金沢市彦三1丁目9-12

昼は、「天守カフェ」としてお茶もできます。


浅野川を見渡せる。
桜も盛り!
ケーキセット、1000円

まとめ役の
前田一寿枝さんが、いろいろお話ししてくれました。

洋子さんの仕事の時間が近づいたので、これで、お暇。
靴作家の女性が喫茶のお手伝いしてましたよ。

その後、もう少し、武蔵の「OH LIFE」で珈琲をのんで、過ごしました。

戦国のジャニーズ・木村重成

2016-04-04 13:32:03 | お話
🍀🍀戦国のジャニーズ・木村重成🍀🍀


慶長19年(1614年)大阪冬の陣。
豊臣方の武将・木村重成(きむら しげなり)は、東部方面戦線の遊撃隊として配置されました。

遊撃隊というのは、戦いの形勢を見て、不利な状況に陥った味方を救うべく、出撃する部隊のことです。

11月26日の早暁、大阪城の東北に位置する今福の堤(つづみ)に、徳川軍が攻め寄せて来ました。

豊臣軍の守備隊は、防御のための柵を四重に設置していましたが、
三段目まで破られ、破滅的な打撃を受けようとしています。

もう大阪城内で、その様子をうかがっていた重成は、自らの部隊を率いて出陣しました。

戦上手として名高い後藤又兵衛も、すぐさま自身の部隊を率いて駆けつけ、重成に合流。

重成・又兵衛の連合軍は、今福で徳川方の佐竹隊を撃破し、窮地に陥った味方を救いました。

同時にこれは、重成が見事に初陣を飾った瞬間でもありました。

ところが、

大阪城に引き上げた重成は、家来の大井何右衛門(おおい かえもん)の姿が見当たらない事に気づきます。

大井は、多くの大名から仕官の声がかかった武勇の士で、
この日も、重成の武者奉行
(戦いの指揮をとる役職)

として、初陣の主人を支えて奮闘していました。

「私が預かっている士を捨て殺しにしてしまっては、

今後どうやって諸士に下知ができようか。

なんとしても捜してこよう」

重成はただ1人、戦場にとって返しました。

そして死体が散乱する中、大井の姿を捜し求めたのです。

どれほど戦場を駆け続けたでしょうか、

ついに重成は、怪我をして動けなくなっている大井を発見しました。

すぐさま彼を抱きかかえ、城に戻ろうとしましたが、

その瞬間、重成は敵に囲まれてしまいます。

「私のことは棄てておいて、早くお戻り下さい」

と訴える大井に対して、

「ここでそなたを見捨てて逃げたなら、
初めから捜さなかったのと同じではないか」

そう告げると、
槍を取って取り囲む敵に突っ込んでいきました。

重成は、自分が盾となり時間を稼ぐことで、怪我をした大井を逃がしてやるつもりだったのでしょう。

重成には、胆力と優しさという、男にとって最も大切なものが備わっていたのです。

その後、
味方の30余騎が駆けつけたことで、重成主従は無事に城へと退却できたのですが、

この時も、重成は、
部下を思いやり、自身が殿軍を務めたということです。

この今福・鴫野方面での戦いが、大阪冬の陣における最大の野戦となりました。

この戦いにおける重成の奮闘に対して、豊臣方の総大将である豊臣秀頼は、

「日本無双の勇士」と称賛の言葉を口にするとともに、

感状(戦功を称える賞状)と脇差しを下賜しました。

けれども重成は、せっかく秀頼から下賜された感状と脇差しを、その場で返上してしまいます。

武士として、これほどの栄誉はないはずなのに、
なぜ重成はこれらを返上したのでしょうか?

このたびの戦の武功は、自分1人の働きではなく、みなの力によるものである。

さらに、感状は他家へ奉公する時に経歴の飾りとはなるが、

自分は二君に仕える気はないから無用である、

というのが、その理由です。

重成の思いを知った部下も、主人である秀頼も、感無量だったでしょうね。

私は重成の for you スピリットが大好きなのです。


木村重成は、真田幸村、後藤又兵衛、長曽我部盛親、毛利勝永らと並ぶ大阪城七将星の1人です。

重成の母親が豊臣秀頼の乳母だったので、

重成と秀頼は兄弟のようにして育ち、

重成は幼少の頃から秀頼の小姓を務めました。

2人は年齢も同年代で、秀頼にとってはほとんど唯一の幼馴染みと呼べる存在が、重成だったのです。

秀頼の小姓から、やがて豊臣家の重臣となった彼を、ともに大阪の陣で戦った毛利安左衛門という者は、のちにこのように述懐しています。

「丈高く、色あくまで白く、まゆ黒々と際立ち、

細い目の眦(まなじり)が凛と上がった美丈夫で、

たぐい稀なる気品を備えていた」


重成は美しい外見と優しい洗練された物腰で、
大阪城の女官たちの人気を一身に集めました。

彼の姿を見かけただけで、女官たちが騒いだと言われます。

また、真偽のほどは定かではありませんが、

彼の美しさを伝える、面白いエピソードが残されています。

大阪の陣の引き金となった方広寺(ほうこうじ)の鐘銘(しょうめい)をめぐり、

豊臣方の使者として女官たちが駿府の徳川家康のもとへ向かいました。

おそらく徳川家の警戒心を解くために、男性ではなく女官を選んだのだと思いますが、

同時に、それでは心もとないと感じたのでしょう。

なんと重成に女装をさせ、この使節団の中にまぎれこませたのです。

ところが、なんとしたことか、徳川の武将たちは、

重成のあまりの美しさにポーッと見とれ、
誰1人として、その美女が男であることを見破れなかった…

というのです。

重成という人は、いかつい体格ではなく、むしろ線先は細めで、

現代の男性アイドルのような美しさを持っていたのではないでしょうか。

もし戦国武将でジャニーズを結成するとしたら、
彼は間違いなく、トップアイドルになっていたでしょうね。

これは、まだ大阪の陣が起こる前のこと。


主君・秀頼の信頼が群を抜いて厚く、
女性にもモテモテ…そんな重成を
やっかむ者が現れても、不思議ではありません。

どれだけ主君の信頼が厚くても、また女性に大人気でも、

それは実績に裏打ちされてのものではないのです。

なんといっても、重成は、大阪冬の陣で初陣を飾ったわけですから、

まだこの時点では、実践経験ゼロ、
武将としての才能も未知数でした。

豊臣家臣団の中には、女装してもバレないほどの彼の美しさと、
さらには実戦経験の無さを揶揄する者が、少なくなかったといいます。

けれども、それほどの侮蔑を受けても、重成は平然と受け流すばかり。

その態度は、まるで春風が吹くように爽やかだったといいます。

ところが、
重成が反論しないのをいいことに、しだいに秀頼の近従や茶坊主まで、彼を侮るようになってしまいました。

そんなある日、調子に乗った茶坊主が、重成の目の前で痛烈に彼を辱めたのです。

武士にとって、馬鹿にされ辱めを受けるということは、死ぬことよりもつらいものです。

普通なら、自分が馬鹿にした相手を殺し、
その責任を取って、自分も死を選ぶでしょう。

その場にいた者たちは、

「これほどの辱めを受ければ、いくら重成でも黙ってはいられないだろう」

と、凍りつきました。

このような状況の中、重成がとった言動は、

すべてのものの予測を超え、あまりにも見事でした。

みなが息を呑みながら見守る中、

重成は、静かに茶坊主の方に向き直ると、

「本来ならば、お前を打ち捨てにするべきなのだろうが、

そうすると私も死ななくてはならない。

しかし、

お前ごときのために、いま私が死ぬわけにはいかない。

秀頼様のためにこそ死ぬ、

そのために、私の命はあるのだ」

そう言って、笑顔さえ見せたそうです。

この一件で、重成の覚悟を知った城内の者は、

誰1人として重成を軽視しなくなりました。

こうして、名実ともに豊臣方の柱石の1人となった重成は、

大阪冬の陣で、武将として大器の片鱗を見せるも、

夏の陣では、その言葉の通り、壮絶な討死を遂げるのです。

「秀頼様のためにこそ死ぬ、私の命はそのためにある」

そう思い定め、見事に本懐を遂げた重成。

人の一生は、そんなに長くは無い。

だとしたら、かけがえのない命を、誰のために、何のために使うのか?

どうでもいいことは、いちいち気にせず、スルーすることも大切だよ…

私は、重成がそう語りかけてくれているような気がします。

人と比べて、劣等感思ったり、

自分の境遇を嘆いたり、

人からどう思われているかを気にしたり…

本来はどうでもいいことに振り回され、
一喜一憂している私たちは、重成に顔向けできませんね。

自分は、何のために生まれてきたのか、誰の笑顔が見たいのか…

素直に自分と向き合えば、本当に大切な人、大切なものが見えてきます。

自分にとって本当に大切な存在を大切にするために、

どうでもいいことはスルーするというのも、大事なエッセンスなのかもしれません。

彼が豊臣の家臣の家に生まれた時、すでに豊臣家は、歴史の中で、その役割を終えていました。

やがて秀吉が亡くなると、豊臣家は凋落の一途をたどります。

そんな境遇に自分が生まれたという事実を、彼は受け容れ、

そこで出来る精一杯のことを、心を込めて行いました。

必ずや徳川が豊臣を滅ぼしにかかると確信した重成は、

古今東西の戦いについて研究し、将としての心構えや戦い方を学んでいったのです。

おそらく彼は、どんなにあがいても歴史の流れを変えられないということは、わかっていたでしょう。

それでも、最後の瞬間まで主君・秀頼のために命を懸けて戦い、

武で天下統一を果たした豊臣の最期にふさわしい戦いを歴史に刻むことが、

自分の使命であると思い定めたのではないでしょうか。

重成の最後…

それは、あまりに悲しく、あまりに美しいものでした。

大阪夏の陣が始まり、決戦の日が近いことを悟った重成は、極端に食が細くなりました。

4ヶ月前に結婚したばかりの新妻の青柳(あおやぎ)が心配して、その理由を問うと、

「敵に討ち取られた場合に、裂かれた腹から、食べたものが出ると見苦しいためである」

と、重成は澄んだ瞳で答えたといいます。

重成の覚悟を知った青柳は、夫の髪を入念に洗い、兜には香を焚き込めました。

そんな妻に対して、重成は謡を歌って別れの盃を交わすと、戦場へと旅立っていったのです。

重成22歳、青柳19歳の時だったといわれています。

慶長20年(1695年)5月6日、重成軍は、八尾(やお)・若江(わかえ)方面に出陣し、

藤堂高虎の軍勢を撃破しますが、彼はこの勝利で満足せず、

「まだ家康、秀忠の首を取ってはおらぬ。これしきの勝利は、ものの数ではない」

と突撃を敢行。

井伊直孝の軍勢を迎え撃ち、

激戦の末、

ついに壮絶な討ち死にを遂げました。


重成、戦死の翌日、

大御所・家康の前で、大阪方の諸将の首実検(くびじっけん)が行われました。

すると重成の頭髪から、えもいわれぬ芳(かぐわ)しい香りが、…。

家康はじめ徳川方の諸将は、この若者の悲壮な覚悟を知り、

涙を流さぬ者はいなかったといわれています。


「死」は、すべての人に平等に訪れます。

ただ、その死を意識して生きている人と、

意識せずに、明日も明後日も生きていることが当たり前と思っている人の間には、

一日一日の過ごし方に大きな開きがあると思います。

どういう死に方をしたいかを考えることは、

同時に、どう生きるかを考えることでもあるのです。

私たちの命は、この世にただ1つの、何物にも代えがたい、かけがえのないものです。

そのかけがえのない命に代えてでも守りたいものを、
私たちは持っているのでしょうか。

命に代えてでも守りたいものを自覚した時、

人は本当に命を大事にできると思います。

なぜなら、その大切な存在のために命を使うのですから、無駄死にはできなくなるのです。

そして同時に、

人は、自分以外の人々にも、そういう大切な存在があるということに気づきます。

命に代えてでも守りたい大切な存在のために、

その人の命を使わせてあげたい…、

そう願ったとき、

人は自分以外の人間の命をも慈しみ、大切にできるのではないでしょうか。

人間は、ともすると

「自分さえよければ」とか

「今さえよければ」と考えがちですが、

これらの気持ちを手放し、

周りの人たちのこと、

さらには、次の世代の人々のことも考えて生きる…

私たちが世界に発信すべき
「天国のモデルケース」とは、

こんな一人一人の生きざまが、作り出すものではないかと思います。


おしまい。

(「感動する!日本史」白駒池 妃登美さんより)


カッコいいねー!