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般若心経の解説17、"無色声香味触法"

2016-04-26 15:32:55 | 般若心経
🍀般若心経の解説🍀17


🌸🌸「無色声香味触法(むしきしょうこうみそくほう)」🌸🌸


「色・声・香・味・触・法も無く」

これもやはり、「空の中には」

つまり
「空の究極の境地からするならば」という、ただし書きがつくことは、

前の
「眼・耳・鼻・舌・身・意も無く」

の理解のしかたと全く同様です。

ここで少し、説明をほどこしましょう。

👀眼・耳👂・鼻👃・舌👅・身🚶・意💗とは、

わたしたちの認識の主観的能力を
六種類🍀に分けていったもので、

仏教の専門用語🌸では、
まとめて、

「六根🌲(ろっこん)」とも、

「六内処🌷(ろくないしょ)」とも呼びます。

この六の、それぞれに対応するのが、

色🌈(いろかたちあるもの)、
声🎵(こえやおと)、
香🌸(かおりやにおい)、
味🍙(あじ)、
触✋(ふれられる対象)、
法☁️(こころの対象)
です。

これらは、
私たちが認識🍀するときの客観的対象🌸ですから、

「六境🗻(ろっきょう)」

とか

「六外処🌅(ろくげしょ)」

と、まとめて称されます。😄

「根」とは、

あたかも草🌱や木🌲の根が成長させる能力✊を持っていて

幹や枝を生じさせるように、

私たちの感覚🌸をおこさせる器官👀👃のことです。

「境(きょう)」とは、

感覚作用をおこす対象🌟のことです。

また、

「処🌟(しょ)」は、

感覚🌸あるいは認識🍀がおこるための場所を意味します。🎵

つまり、

私たちの感覚(認識)を、

内なる感覚器官🍀と、

外なる対象🌟に分けて、

それぞれ
「六根🌲」(六内処)、
「六境🗻」(六外処)と呼ぶのです。

両者を合わせて、「十二処🎵(じゅうにしょ)」といいます。

ややかたい説明🍀になったかもしれませんが、

いちおう、このことだけは押さえて👍おいてください。😄


さて、

私たちは、ややもすれば、見るもの・聞くものに、つい心💓がひかれます。👀🌟

香水🌹のにおい👃や美味しいもの😍に心乱れる🌀こともあります。

そして、

本心を失う😵ことすらあります。

「無☁️」の一字には、

それらへの反省が込められているとも見ることができるでしょう。😄🎵


ただし、そのことをふまえて、

道元禅師☀️が、

峰の色 溪(たに)の響も みなながら
我が釈迦牟尼(しゃかむに=お釈迦様)の 聲(こえ)と姿と

と、詠われていることも味わってみてください。😄🎵


(「あなただけの般若心経」より)

日本人の挑戦

2016-04-26 10:10:48 | お話
🍀🍀日本人の挑戦!🍀🍀


TOYOTA創業者の豊田佐吉は、自ら自動織機を発明するばかりでなく、

日本人の発明能力の開発にも大いに努めました。

今から約90年前の大正12年~13年頃、蓄電池発明奨励の目的で、

帝国発明協会に対して100万円を寄付しました。

これは蓄電池の改良発明を目的とし、

賞金をかけて広く応募者を求めるものですが、

その懸賞応募者は、日本人に限ること!が条件とされました。

当時、蓄電池は研究上、すでに行詰まっていて、

その発明改良を奨励しても、結局は徒労に終わるであろう、

という反対がありましたが、

佐吉は、こうした反対を押し切って寄付を断行しました。

彼の考えは、日本人の白人に対する挑戦ということであったのです。


・・・・・・

この頃、アメリカにおいて、日本人の排斥の声がやかましいが、

甚だけしからん、憤慨に堪えぬ。

ただし、

これも結局は、日本人の知能が白人よりも劣っていると見ているからだ。

現に白人は公然と、

日本人が現代文明に対して、何を貢献しているか?

支那人には、羅針盤の発明でもあるが、

日本人に何の発明がある、

日本人は、ただ模倣の国民である、

と評しているではないか。


これを詮じ詰めると、

日本人は白人より智能の劣等な国民であるということである、

白人は日本人をかく見ているのである。


もとより、日本人排斥には数々の原因があろう。

また、事情も伴うであろう。

さりながら、人類共存共愛の見地よりしても、

このことばかりは、

甚だしき不条理であり、不正義である。

どう考えても、結局は劣等人種としてバカにしているのである。

それで、

日本人は、非常に大なる覚悟を持って、
これに対抗せねばならない。

別に喧嘩しようと言うのではない。

武力に訴え、争わねばならぬと言うのでもない。

自己の智能の優秀であることを証明立てて、

自らこの人間としての大恥辱をそそがねばならぬと言うのじゃ。


この日本人排斥と言うのは、
一国民が、他の一国民を排斥すると言う以上に、

実に、人類の神厳を侮辱するの甚だしいものである。

ゆえに、

ただ国際対抗の上において、
もっぱら敵愾心を起こすことよりは、

一歩も二歩も進んで、

人間霊能の立場より考えて、

この霊知霊能の人間に対する恥辱をすすぎ、清むべく、

各自の優秀なる智能を発揮せよと言うのじゃ。

これによって、一大発明を完成し、これを白人の前に並べ、

以って、白人をしてこの日本人が優秀なる智能の結晶を直視せしめるというのじゃ。

これでも、まだ智能が白人より劣っていると言うのかと、詰め寄るのじゃ。

動かすべからざる証拠物を引き下げて、
白人と智能の優劣を比較するのじゃ。

タカジアスターゼもあれば、野口英世博士もある。

されど、これらは皆、

白人の指導により、
援助により、

而して、彼らの設備の力を借りて、その目的を達したのじゃ。

今度は、全く白人と関係なしに、

日本人の絶対の力のみを持って、一大発明をとげ、これを白人に直視せしめようと言うのじゃ。

お互い日本人が、このところまで発奮して、

なお侮辱され、排斥され、劣等人種扱いをされているならば、

これ以上は、お上の政治力にすがりて、
国民としての恥辱をそそいでもらわねばならぬ。

豊田は少し量見が狭い、眼界が小さいと、評する人があるかもしれんが、

自分はこの考えを腹に置いて、この100万円の寄付をする。

日本人に限りて、この懸賞応募に応じ得ることにしたのも、

全くこの考えから出てきた条件じゃ。

それで、この100万円の寄付は、

とりもなおさず、

日本人の白人に対する智能の挑戦じゃ、というのじゃ。


(「豊田佐吉」より)

般若心経の解説16、"無眼耳鼻舌身意"

2016-04-25 15:05:22 | 般若心経
🍀般若心経の解説🍀16


🌸🌸「無眼耳鼻舌身意(むげんにびぜつしんい)」🌸🌸


「眼・耳・鼻・舌・身・意も無く」

ここでもやはり「空☁️の中には」という限定、

あるいは、ただし書きをつけて、ご理解ください。😄☀️

しかし、

「眼や耳や鼻…がない」という表現🌸に、
読者の皆さまは、やはり引っかかるものがおありでしょう。🎵


私たちは、普通🍀このように考えるものです。

顔には、目(眼)が2つ、鼻が真ん中についていて、口の中には舌があるではないか。☀️

頭と両手、両足、胴体で、「五体」という名の、"からだ"(身)を持っているではないか。⚡️

のみならず、

さまざまな感情💓や認識🌀を有する、"こころ"(意)を持っているではないか、と。😄

とくに、赤ちゃん💓が生まれたときなどには、
まず「五体満足だろうか」と心配😵し、

次に
「目鼻だちは、はっきりしているかな😄」

と赤ちゃん🌸の顔をじっと見つめ👀、

そして成長して美男🍀・美女🌸になってほしい✊、と願うものです。🎵

ですから、

「眼や耳や鼻や舌や "からだ" や "こころ" がない」

などという立論は、通常🌸の論理では、とうてい考えられないことです。😄

しかし、

この「般若心経🎵」は、そのような立場で、いってるのではなさそうです。

やはり、伝統的🌸な仏教教団🏤
(とくに説一切有部などの学派)が、

「眼とは何か」、
「耳とは何か」といって、

私たちの人間存在🍀を、こと細かに分析し、📝

それを、複雑かつ画一的📊に
教義化🌸したことに対する反省と見るべきでしょう。😄🎵

たしかに「眼耳鼻舌身」の分析📈は、

今日の医学🏥(身体学と言うべきか?)に、

また、

「意」の分析は、同じく心理学📚に重なるところがあります。😄

ゆえに、

伝統仏教教団🌸の人間存在🍀に対する分析⚡️
(観察あるいは研究ということになれば)

は、

まったく学問的に意味をもたないとは、いえないでしょう。😄🎵

しかしながら、

「般若心経📖」の真にめざすところは、

「人間とは、何であるか☁️」😄

にとどまることなく、

それを超えて、☁️☁️

「人間とは、いかにあるべきか✊」😍

をたずね、

それを、ふみ行う🏃ところにあります。😄✊

つまら、煩瑣(はんさ)な教義の研究🏫ではなく、

真摯🌸な真理☀️の実践✊にあるといえましょう。😄☀️


(「あなただけの般若心経」より)

軍備の鉄則

2016-04-25 11:22:43 | 基本的な考え方
🍀軍備の鉄則🍀


太宗は、太子に書き与えた『帝範』の中で、次のように述べている。

「軍備と言うものは、国家にとっては凶器である。

いかに広大な領土を有する大国といえども、

戦にあけくれていれば、人民は疲弊する。

一方、国内が平和に収まっていても、
戦いを忘れてしまえば、侵略の危険にさらされる。


人民の疲弊は国家の滅亡を招き、

侵略の危機は外敵のあなどりを受ける。

軍備は全廃すべきではないが、

さればといって、やたらにこれを行使してはならない。

それゆえ、農閑期に軍事訓練を施して戦意の高揚をはかり、

3年に1回、大演習を催して軍紀を正すのである。

昔、越王・勾践(こうせん)は、敵にいどむ蛙のさかんな敵愾心に学んで、

ついに宿敵・呉を滅ぼし、覇業を達成した。

これと反対に、

徐(じょ)の偃(えん)王は、軍備を捨ててかえりみなかったがゆえに、ついに国を滅ぼした。

この2人の違いは何か。

勾践は軍事訓練につとめ、
偃王は軍備を忘れてしまった。

それが結局は、両国の命運を分けたのである。

孔子も

『教えざるの人をもって戦う、これこれを棄(す)つと謂(い)う』

(軍事訓練を施さない人民を戦争にかり出すのは、むざむざ死地に追いやるようなものだ)

と語っている。

備えあれば憂いなしとは、これをいうのである。

これが軍事の鉄則である」

と。


(「貞観政要」より)


それで、

戦国最強の武将は言いました。

「人は城、人は石垣、人は堀、
情けは味方、仇(かたき)は敵なり」

武田信玄です。

結局、人を大切にできる人が、最強だってことなんですね。

般若心経の解説16、"無眼耳鼻舌身意"

2016-04-24 16:57:04 | 般若心経
🍀般若心経の解説🍀16


🌸🌸「無眼耳鼻舌身意(むげんにびぜつしんい)」🌸🌸


「眼・耳・鼻・舌・身・意も無く」

ここでもやはり「空☁️の中には」という限定、

あるいは、ただし書きをつけて、ご理解ください。😄☀️

しかし、

「眼や耳や鼻…がない」という表現🌸に、
読者の皆さまは、やはり引っかかるものがおありでしょう。🎵


私たちは、普通🍀このように考えるものです。

顔には、目(眼)が2つ、鼻が真ん中についていて、口の中には舌があるではないか。☀️

頭と両手、両足、胴体で、「五体」という名の、"からだ"(身)を持っているではないか。⚡️

のみならず、

さまざまな感情💓や認識🌀を有する、"こころ"(意)を持っているではないか、と。😄

とくに、赤ちゃん💓が生まれたときなどには、
まず「五体満足だろうか」と心配😵し、

次に
「目鼻だちははっきりしているかな😄」

と赤ちゃん🌸の顔をじっと見つめ👀、

そして成長して美男🍀・美女🌸になってほしい、と願うものです。🎵

ですから、

「眼や耳や鼻や舌や"からだ"や"こころ"がない」

などという立論は、通常🌸の論理では、とうてい考えられないことです。😄

しかし、この「般若心経🎵」はそのような立場で、いってるのではなさそうです。

やはり、伝統的🌸な仏教教団🏤(とくに説一切有部などの学派)が、

「眼とは何か」、
「耳とは何か」といって、

私たちの人間存在🍀を、こと細かに分析し、📝

それを、複雑かつ画一的📊に教義化🌸したことに対する反省と見るべきでしょう。😄🎵

たしかに「眼耳鼻舌身」の分析📈は、

今日の医学🏥(身体学と言うべきか?)に、

また、「意」の分析は同じく心理学📚に重なるところがあります。😄

ゆえに、

伝統仏教教団🌸の人間存在🍀に対する分析⚡️(観察あるいは研究ということになれば)は、

まったく学問的に意味をもたないとはいえないでしょう。😄🎵

しかしながら、

「般若心経📖」の真にめざすところは、

「人間とは何であるか」😄

にとどまることなく、

それを超えて、

「人間とはいかにあるべきか」😍

をたずね、

それを、ふみ行うところにあります。😄✊

つまら、煩瑣(はんさ)な教義の研究🏫ではなく、

真摯な真理☀️の実践✊にあるといえましょう。


(「あなただけの般若心経」より)