1969/04/09に生まれて

1969年4月9日に生まれた人間の記録簿。例えば・・・・

ラーメン屋

2024-07-05 21:51:00 | 雑談の記録
近所にまたラーメン屋の出店が!
にぼらや
昔からの大ファン!
やったー!




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父の日プレゼント

2023-06-17 20:25:00 | 短歌の記録
#父の日短歌 #短歌


父の日に 頂いたのは 缶ビール

メールクーポン セブンで引き換え

😆




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野球短歌

2023-06-15 18:50:00 | 短歌の記録
#野球短歌

さら丸と戯れる孫 藤崎台
選手として見む いつの日にか




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『景行天皇伝説を巡る冒険』32. 最終回 景行天皇の御陵の前で

2023-01-10 21:30:00 | 景行天皇の記録
【景行天皇の御陵の前で】
ヤマト政権が樹立して間もないころに造立されたとされる箸墓古墳を背にして、付近の水路でオレンジ色に輝く鉄バイオマットを見つけたとき、脳内に火花が散りました。

景行天皇のこと、古代史のこと、これまでほぼ1年を費やして学んできた知識が一気につながった瞬間でした。

古い記憶も蘇ってきました。私に見えた古代の歴史像は間違っているかもしれません。ですが、十分に満足できる結果を得たような気分でした。

水路でオレンジ色の鉄バイオマットを見つけてあと景行天皇の御陵にたどり着くまでの間のことはよく覚えていません。泣いたり笑ったり納得したりやっぱり悩んでみたり。

そして最後に湧いてきた感情がありました。

景行天皇の御陵の前に立ち、静かに手を合わせました。



景行天皇の御陵


「本当にありがとうございました」


正直な気持ちをお伝えしました。



終わり。


【謝辞及び予告】

これで『景行天皇伝説を巡る冒険』は終わりますが、前編の『三玉山霊仙寺を巡る冒険』の連載中からリアクションで応援して頂いた皆様には厚くお礼申し上げます。連載の励みになりました。


kanumasさん

ff10yunaさん

daitou8さん

mamazonesさん

takeidentalさん

micawberさん

shiawase-beatさん

mi-yu66_1966さん

masahiroshige777さん

manbo_tourさん

janko312さん

ocean8さん

marusan_slateさん

momo2303さん

azisaiki2015さん

sakuranoyamiさん


本当にありがとうございました。また、多くの方にも閲覧頂き本当にありがとうございました。


さて、次作は『阿蘇神話伝説を巡る冒険』と題して現在、鋭意、製作中です。自作では民俗学に加えて、最新の考古学や地質学の知見を踏まえて、熊本県の阿蘇地域に残る神話伝説を解き明かすという意欲的な内容を目指しています。驚きの結末もあるかもしれません。ご期待下さい!


連載は一ヶ月後くらいから始まると思います。


『景行天皇伝説を巡る冒険』《参考文献・引用文献》


『日本書紀()()』井上光貞 監訳 中公文庫 2020

『新版 古事記 現代語訳付き』中村啓信=訳注 平成21年

『図解 古事記・日本書紀』多田元監修 西東社 2014

真弓常忠『古代の鉄と神々』筑摩書房 2018

谷川健一『魔の系譜』講談社 1984

谷川健一『日本の神々』岩波書店 1999

舘充 「わが国における製鉄技術の歴史―主としてたたらによる砂鉄製錬について」『鉄と鋼』Vol. 91 No. 1、日本鉄鋼協会 p.2-10 2005

吉田敏明「鉄から見た我が国の古代史」『火力原子力発電』Vol.66 No.9 p.515-528 2015

永田和宏『人はどのように鉄を作ってきたか』講談社 2017

田中和明 『よくわかる最新「鉄」の基本と仕組み』秀和システム 2009

浅井壮一郎 『古代製鉄物語「葦原中津国」の謎』彩流社 2008

山内裕子「古代製鉄原料としての可能性〜パイプ状ベンガラに関する一考察〜」『古文化談叢』第70集 p.243-252 2013

佐々木稔・赤沼英男・伊藤薫・清水欣吾・星秀夫「阿蘇谷狩尾遺跡群出土の小鉄片と鉄滓様遺物の金属学的解析」『古文化談叢』第44集 p.39-51 2000

藤尾慎一郎「弥生鉄史観の見直し」『国立歴史民俗博物館研究報告』第185 p.155-182 2014

西岡芳晴・尾崎正紀・寒川旭・山本孝広・宮地良典『桜井地域の地質』地域地質研究報告 5万分の1地質図幅 京都(11)64号 地質調査所 平成13

大塚初重監修『古代史散策ガイド巨大古墳の歩き方』宝島社 2019

『小野原遺跡群 黒川広域基幹河川改修事業に伴う埋蔵文化財調査報告』熊本県文化財調査報告 第257集 熊本県教育文化課編 2010

安本美典「邪馬台国学」『遺跡からのメッセージ古代上編 熊本歴史叢書1』熊日出版 平成15

中橋孝博「戦う弥生人 倭国大乱の時代」『遺跡からのメッセージ古代上編 熊本歴史叢書1』熊日出版 平成15

河野浩一『熊本のトリセツ』昭文社 2021

川越哲史編『弥生時代鉄器総覧』広島大学文学部考古学研究室 2000

大神神社ホームページ http://oomiwa.or.jp/

磯山功・斎藤英二・渡邊和明・橋本知昌・山田直利「100万分の1日本地質図(2)から求めた各種岩石・地層の分布面積」地質調査月報、第35巻第1号、p.25-47, 1984

井澤英二『よみがえる黄金のジパング』岩波書店 1993

高橋哲一「花崗岩系列の成立と展開 石原舜三博士の偉業を振り返って」『GSJ地質ニュース』Vol.9 No.10 p.289-297 2020

Shunso Ishihara (1977): The Magnetite-series and Ilmenite-series Granitic Rocks: Mining Geology, 27, 293-305

井上智勝『吉田神道の四百年 神と葵の近世史』講談社 2013

熊本文化研究叢書6『肥後和学者 上妻博之 郷土史論集1』熊本県立大学日本語文学研究室編 平成21

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『景行天皇伝説を巡る冒険』31. ヤマト前身勢力と葦原中国勢力の談合!?と『三国志』制作の舞台裏!?

2023-01-08 17:40:00 | 景行天皇の記録
【ヤマト前身勢力と葦原中国勢力の談合!?】
葦原中国勢力の代表者
「あのさぁ〜、そのプランは魅力的に思うわけよ〜、ホント。だけどさぁ、その新しいヤマトまでの交通手段はどうすんのよ、一人でのんびり行くわけじゃあるまいし、連れてくのは兵団ですよ、兵団。一気に攻め落とさなくちゃいけないわけだしぃ〜、一気にぃ、問題はそこでしょ。それができなきゃ絵に描いたモチじゃぁんっ!?」

ヤマト前身勢力の代表者
「まぁ、まぁ、まぁ、まぁ、落ち着いて、落ち着いて。考えてもみてくださいな、葦原の旦那ぁ、私たちが手を組めばぁ狗奴国の連中はグウの音もでませんって。」

葦原中国勢力の代表者
「それが何だってんだいっ?」

ヤマト前身勢力の代表者
「えっ!?、連中は元海神族ってのをお忘れなんですか?、連中に舟を作らせるんですよぉ、舟だってバンバンとばせますょ。」

葦原中国勢力の代表者
「ほうっ、なるほど。しかし材料はどうすんのよ。お互い鉄器作りで海っぺたの木は殆ど使いきってんじゃっ!?、狗奴国だって同じっしょっ!」

ヤマト前身勢力の代表者
「へっ、葦原の旦那、まぁ聞いて下さい。狗奴国の向こうっかわの日向の国には、まぁだ、たんまりと木が残ってるってぇ話しですよ。」

葦原中国勢力の代表者
「ぬぬぬっ、イケルかもっ、そのプラン!。ところでさぁ、最近、オタクら大陸の政権に対してはどうなってんのよ。」

ヤマト前身勢力の代表者
「へっ、心配にゃおよびませんって。ちゃぁんと、たんまり、貢ぎもしてるんでそこは。こないだ遣いのもんが行って説明してきたらしいんですけど、新しい攻略プランを披露したら、景気付けに銅鏡やらなんやらどえらい土産を貰ってきたってぇ話しです。」

葦原中国勢力の代表者
「マァジかっ!、それで、今回の作戦名はっ?。まさか、シン・ヤマト作戦っ!?」

ヤマト前身勢力の代表者
「へっ、旦那、ソレ、つまんね〜っす。」

という会話がなされたのは全くの空想ですが、ヤマト前身勢力が考えた西日本統一の作戦は、葦原中国を懐柔しながらその威力で狗奴国を服従させ、新しい技術で作った武具と航海術で近畿地方(ヤマト)を一気に征服するという短期決戦を目論んだ作戦ではなかったのでしょうか。

【『三国志』制作の舞台裏!?】
一方、そのころ大陸の政権では、魏志倭人伝が記述された歴史書『三国志』の編纂が行われていました。
想像力、マックスです。

極東アジア編纂課、担当課員
「ちっ、参ったぜ、ッたくよぉ、倭国どうなってんだよぉ、聞かされた話しだけじゃぁ、そのぉなんだぁヤマトってかぁ、このクニはどこにあるって書きゃいいんだ、新しいヤマトになったって連絡はまだ来ねぇし、かといって聞かされたプラン通りにいくとも限らんしぃ、ん〜〜、課長!、この件、どうしますぅ?」

極東アジア編纂課長
「え〜っ、オレに聞く〜っ?、ホント困るよなこの件は。ところで、この原稿の締め切りはいつだっけ?。え〜、明日なの〜、ちょっとちょっと、もっと早く相談してよ〜キミ〜。あ〜しょうがねぇ、部長に相談しよっ!」

編纂部長(陳寿)
「まぁた君か、今度は何だね。、、、そりゃ確かに困りましたね〜、、両論併記というわけにもいきませんしぃ、、それじゃあこうしましょうか。どちらにも受けとれる表記ってのはどうでしょう。例えばぁ、位置関係で説明すれば従来のヤマト、距離で説明すれば今後期待される新しいヤマト、たぶん新しいヤマトが近いうちに成立すると思いますよ。あとの細かいところは宜しく頼みます。責任は私がとります。今のところ倭国が脅威となる可能性は低そうですしね、じゃ、この件はそいうことで、いいかな。」

極東アジア編纂課長
「はい、わかりました、ありがとうございました(さすが部長、カッケー)。」

歴史書の編纂部長(陳寿)様には是非責任を取ってもらたいものです。おかげで歴史書が編纂されて1720年が経過した現在も、「邪馬台国」の件に関しては決着がつかないというあり様です。

というのは全くの空想ですが、以上のように、とぼけた地質技術者の目線で古代史を紐解くと、上述してきたような歴史像が見えてくるのです。

古代史については確かな文献資料が少ないことや、かといって考古資料に頼っただけでは歴史の全体像の把握は難しいとされています。しかし、分析技術は日進月歩です。新たな文献や考古資料が発見される可能性は十分あると思います。古代史には百人百様の見方があると言われています。人間の想像力は無限大です。
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『景行天皇伝説を巡る冒険』30.ヤマト前身勢力の戦略

2023-01-06 22:04:00 | 景行天皇の記録
【ヤマト前身勢力の戦略】
ヤマト前身勢力は、農具、武具の鉄資源を自前で準備する技術を持ち合わせていませんでした。大陸からの鉄鋌の供給が途絶えれば窮地に追い込まれます。国力をつけ始めた葦原中国と南の狗奴国、海を隔ているとはいえ背後の大陸勢力がいつ攻勢に出てくるかわかりません。三方ふさがった状態を打開するためにとった行動が、先ず、葦原中国の国譲りの交渉です。葦原中国には良質な鉄資源と技術がありました。全面戦争になれば双方が大打撃を受け、北は大陸、南は狗奴国に隙を与える結果となります。

そこで、ヤマト前身勢力が葦原中国に対して持ち出したのが交換条件と新しいクニ作りのビッグプランです。当初は多少の示威行為もあったと思われます。しかし、葦原中国の神にとって、出雲大社の高層神殿の建設とヤマトという新しい土地に神として祀られるのは、何とも魅力的な話しでした。

出雲大社の高層神殿
https://www.streetmuseum.jp/historic-site/kodai/2023/01/06/273/

新しいクニは大陸からも離れていて征服されるリスクは格段に下り、盆地を取り巻く山々は天然の砦となるだけでなく、その山々は花崗岩やはんれい岩で鉄資源もあります。しかも豊富な水も期待でき、新しいクニ作りの場としては全く申し分ありませんでした。ただし、ヤマト前身勢力には譲れない一点がありました。それは、新しいクニ作りに際して、ふるさとの地名を採用するというものでした(図参照)。ひょっとすると、説明用のマスタープランには、既に「地名」があったのかもしれません。それは大陸の勢力に対して説明の簡略化を意図したものだったのかもしれません。
しかし、このプランを遂行するにあたって、ヤマト前身勢力と葦原中国の2つの勢力は決定的に不足していた技術がありました。

北部九州の地名と大和の地名の不思議な一致(北部九州)

北部九州の地名と大和の地名の不思議な一致(大和)
安本美典「邪馬台国学」『熊本歴史叢書1 遺跡からのメッセージ』熊日日新聞社 平成15年


さて、ここから、想像力をフル回転させます。読者のみなさん、ついてきて下さい。
つづく。

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『景行天皇伝説を巡る冒険』29.争いの火種はやっぱり「金」だった!?

2023-01-04 21:47:00 | 景行天皇の記録
【争いの火種はやっぱり「金」だった!?】
熊本県と福岡県の県境にまたがる筑肥山地の山中にはかつて星野鉱山と呼ばれる金鉱山がありました。一説によれば、鎌倉時代の弘安2年(1279年)に星野胤実が信託によって金鉱を発見したことが鉱山開発の始まりとされ、その歴史の古さから日本の金山発祥の地ともいわれています。
はたして、金鉱石の最初の発見は鎌倉時代だったのでしょうか。
地質技術者の目線で想像力を膨らませてみます。
 
太古の星野川の河原で、弥生人が交わす会話の録音に見事成功しました!。
 
弥生人A
「っち、最近、マジやべぇ、もう全然採れなくなってしまったゼ!」
弥生人B
「しょうがないよ、だってこの砂金採りはもう何十年、いやひょっとすると何百年も前からここでやってるんだよ、じいちゃんの時代より古いって話しだよ。」
弥生人A
「っくっそーっ!、なんでオレたちの代で採れなくなんだよっ!先代だけが甘い汁吸ってたってわけか!少しは残しとけってのっ」
弥生人B
「そう言ったところでしょうがないよ、祖先だってこの地を得るために、相当の犠牲を払ったらしいよ、血で血を洗うような、そりゃぁもう悲惨な、、、」
弥生人A
「ふるい話しはもういいって!、っあ~、ってか、ヒミコのアネゴにまぁた怒られっぞ、砂金がなきゃ鉄器は大陸からもらえねぇっしっ、祈祷しったって、もうムリ~~っ」
弥生人B
「でもさぁ、この砂金のもとって、本当はこの山の奥lにある、あの白っぽい脈みたいな石の中に入ってんじゃないのかなぁって思うんだよね、だって、あの白い石より上流じゃ砂金はとれないって昔からいわれてるしさ」
弥生人A
「バカかオマエはっ、入ってるワケねぇだろうが、あの石の中にピカリンって光る金の粒を見たことあんのかいっ!?、あったってちっちゃすぎてどうにもならんだろうがよ、しかもあの白い石はなぁ、いろんな石の中でも硬さについちゃベストファイブには入るしろんもんだぜ、ちょー硬ぇんだよ、だから掘るにも割るにもそれより硬い道具ってもんがいるんだよ、道具が。オマエ生意気言ってねぇで手ぇ動かせ。それとな、取り出すにはまた別の呪術がいるってぇ話しだぜ、その呪術があればなぁ~、あ~呪術が欲しいのぉ~、砂金が欲しいのぉ~、もっと丈夫な鉄が欲しいのぉ~」
弥生人B
「そのオヤジギャグもう聞き飽きたよ、今日は帰ろう、お父さん」
 
そして、この録音に成功した数ヵ月後、九州北部を未曾有の豪雨が襲いました。平地は洪水に巻き込まれました。そして筑肥山地では大規模な地すべりや崖崩れが発生し、B君が期待していた金鉱脈は土に埋もれてしまいました。そして、星野の金鉱床はその次の発見まで1000年の時を待たなければなりませんでした。事実、平成24年の九州北部豪雨では星野川流域では地すべりや崖崩れ、土石流災害が発生しています。古代からこのような災害が起こっていても不思議ではありません。
 
とういうのは、とぼけた地質技術者の空想に過ぎませんが、鉄器材料の交換品である九州特産の金の枯渇も背景にあったと考えるのはどうでしょうか。邪馬台国と狗奴国間の対立関係は、ひょっとすると星野鉱床の砂金を巡る壮絶な戦いの禍根が原因ではなかったのかと思えてきます。


金鉱脈と砂金の関係

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『景行天皇伝説を巡る冒険』28.たたら製鉄の背景と原子力資源探査

2023-01-02 11:59:00 | 景行天皇の記録
【たたら製鉄の背景と原子力資源探査】
火山国である日本の土や岩石、特に火山活動に関連してできた岩石には鉄分が含まれることは、これまで指摘してきた通りです。そして、その代表格であるマグマが地中でゆっくり冷えて固まった花崗岩は日本の各地に分布しています。しかし、一見同じに見える花崗岩であっても、たたら製鉄の原料の砂鉄のもとなる磁鉄鉱の含有量につていは地域性があるのです。

これを見い出したのは、広島大学で鉱床学を専攻して工業技術院地質調査所(現 産業総合研究所地質情報センター)に勤務していた当時40歳代の故石原舜三博士でした。
博士については個人的な思い出があります。大学院の学生だったころ、中国で鉱床学の国際学会が開かれました。学会が主催する中国国内の地質巡検で石原博士とご一緒する機会がありました。既に博士は花崗岩研究の国際的権威になられていて、お会いした当時は北海道大学の教授でいらっしゃいました。博士の研究は若い頃の素朴な疑問からスタートし、その疑問を追い求めていく過程でアメリカ学派を論破するなどの業績を残していて、鉱床学を専門とする学生にとっては、既に伝説的な人物となっていました。ところがお会いすると自分が思っていたイメージとは全く異なり、落語家の鶴瓶師匠を彷彿とするような風貌。気さくな人柄で、どこに行っても現地の子供に囲まれて人気者になるのでした。私もその子供たちの一人と思われていたかもしれません。「疑問はね〜、大事だよ〜」そんな言葉をかけて頂いた記憶があります。

さて、時は1960年代、我が国は高度経済成長期にありました。発展を続ける経済を支えるため原子力は新しいエネルギーと期待されていた時期です。国は政策として原子力発電用の燃料となるウランの調査を国内で実施していました。博士はそのウラン探査プロジェクトで、全国の花崗岩地帯の鉱床の放射能調査とウラン鉱物の発見を担当していました。そしてウラン鉱物を含むモリブデン/タングステン鉱床の探査とその成因研究の中で、花崗岩は2つの系列に分けられることを発見しました。一つは磁鉄鉱が多く含まれる磁鉄鉱系列、もう一方は磁鉄鉱が少なくかわりにチタン鉄鉱が含まれるチタン鉄鉱系列です。その系列は日本だけでなく、環太平洋地域やアナトリア地域の造山帯に分布する花崗岩にも当てはまりました。その後、この博士の発見は国内外の花崗岩の研究や鉱床探査の分野に大きなインパクトを与えることとなり、海外でも非常に高い評価を受けました。そして、その発見のルーツとなったのが島根県の花崗岩に伴うウラン鉱物を含んだモリブデン鉱床だったのです。そうなのです、磁鉄鉱が多く含まれる磁鉄鉱系列の花崗岩が出雲にはあるのです。図に示すように磁鉄鉱系列の花崗岩は山陰の出雲地方に集中して分布しています。
なんと、古代の最先端技術の源泉となる磁鉄鉱資源と現代のエネルギーや軍事技術に転用可能となる原子力のウラン資源が同一地域に存在していたのでした。

たたら製鉄は日本独自のユニークな方法とされています。多くを語る必要はないと思います。出雲地方においてたたら製鉄が発展した背景は、原料の砂鉄のもととなる磁鉄鉱を多く含んだ花崗岩が、出雲地方、つまり葦原中国に広がっていたからです。


日本列島における磁鉄鉱系列花崗岩類とチタン鉄鉱系花崗岩類の分布(高木哲一2020)


さて、もう一つ地質技術者の目線で指摘しておきたいことがあります。ヤマト前身政権の鉄に関する技術は、先に述べたように、鉄挺(てってい)と呼ばれる鉄素材を朝鮮半島から持ち込んでそれを鍛治・加工する技術でした。しかし、鉄挺を得るに当たって、その対価として大陸の王朝等には何を献上していたのでしょうか。
 
その一つとして「金」が考えられます。
 
ベネチアの商人マルコ・ポーロが獄中で口述した『東方見聞録』に「黄金の国ジパング」が記録されました。そして、この数行の文章が、のちの大航海時代のコロンブスをはじめとする冒険者に大きな影響をあたえたといわれています。学生時代に鉱床学を専攻して、なかでも「金鉱床」を研究対象にしたのは、コロンブスとさして変わらない動機からでした。なぜなら、当時、日本では金鉱床が相次いで発見されている時期でした。しかも世はバブル。このような浮かれた時勢に身をおく一人の若者が、その研究成果で「一攫千金」の夢を見ても不思議ではありません。
そして研究を進めるなかで、その若者は日本、特に九州に多くの金鉱床があるのを知ったのでした。
図には日本の主な金鉱床を示します。見てのとおり九州には金鉱床が多く存在します。恩師井澤英二著『よみがえる黄金のジパング』には九州の金鉱床の産金量として馬上(13t)、鯛生(36t)、串木野(56t)、大口(22t)、菱刈(50t当時、現在も住友金属鉱山(株)が操業中)、山ヶ野(28t)、南薩型金鉱床と呼ばれる春日、岩戸、赤石(あけし)は合せて(約20t)と書かれています。また図には金鉱脈と砂金鉱床の関係を示します。



日本の主な金鉱床(『よみがえる黄金のジパング』1993年 井澤)


金鉱床と砂金鉱床の関係(『よみがえる黄金のジパング』1993年 井澤)


 しかし、古代には産金があったという記録や考古資料は存在しません。唯一『日本書紀』に第14第仲哀天皇が政権に背いた九州の熊襲を征伐しようと皆で協議したとき、神の信託で、新羅こそ黄金、白銀を多く産する国であると告げられたことが書かれてあります。そして、このお告げが神功皇后の新羅遠征の伏線となっています。この記述は、4世紀末から5世紀初頭の度々政権に対抗する九州(熊襲)と朝鮮半島の緊張関係が投影されていて、そこには国と国の関係の一部として金銀などの鉱物資源の産地をめぐる争いが暗示されているようだと井澤氏は述べています。
では、ヤマト前身勢力が東征を始める前の弥生時代後期に、はたして国内には鉱物資源を巡る争いはあったのでしょうか。
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『景行天皇伝説を巡る冒険』27.鉄技術の違いが神武東征の真実!?

2022-12-31 11:08:00 | 景行天皇の記録
【鉄技術の違いが神武東征の真実!?】
『古事記』では、ヤマト入りを果たし橿原宮(かしはらのみや)で即位した神武天皇は、皇后として伊須気余里比売(いすけよりひめ)を迎えたと伝えられています。この皇后の父は大物主神(おおものぬしのかみ)、言わずとしれた葦原中国の神です。そして、その妻は勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)です。また、『日本書紀』では、皇后として媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)と書かれています。名前に含まれる「たたら」からは出雲で盛んであった製鉄、”たたら製鉄”を思い起こさずにはいられません。

鉄は、紀元前3世紀ごろに青銅とほぼ同時期に大陸から伝わってきたと考えられています。伝来ルートは少なくとも3つあったといわれます。
①朝鮮半島から九州北部に伝わったルート、
②中国沿岸から熊本地方に伝わったルート、
③朝鮮半島から山陰地方に伝わったルート、
そして、それぞれの鉄についての技術は、
①鉄鋌(てってい)と呼ばれる鉄素材を朝鮮半島から持ち込んでそれを鍛治・加工する技術。
②中国の江南地方で王朝の目を盗んで比較的低温でも製鉄可能な褐鉄鉱を原料とした技術、ただし腐食が早く良質な製品は望めない。
③砂鉄を原料としたいわゆる「たたら製鉄」の前身的な製鉄技術、高品質な鉄製品を作ることができる技術の3つのです。

この鉄技術の伝播が正しいと仮定すれば、景行天皇の伝説、『古事記』、『日本書紀』、『魏志』「倭人伝」で語られた西日本の古代勢力は、それらが保有する技術によって以下のように整理できます。

①高天原のヤマト前身勢力(鉄鋌加工技術)、
②茂賀の浦の狗奴国勢力(褐鉄鉱技術)、
③葦原中国の出雲勢力(砂鉄技術)

そして、これらの勢力が持つ技術力の違いが、ヤマト前身勢力、すなわち神武軍の東征を駆り立てたと思うのです。

さて、そのわけを説明する前に、なぜ出雲勢力が「たたら製鉄」の技術を生んだのか、その背景はなんだったのか、地質技術者の目線で考えてみたいと思います。
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『景行天皇伝説を巡る冒険』26.景行天皇の真意と国内統一

2022-12-28 21:55:00 | 景行天皇の記録
【景行天皇の真意と国内統一】
景行天皇は、この山鹿・菊池の地で多くの血が流されていたことは十分知っていたはずです。

『古事記』における高天原の神々をヤマト王権の前身とする北部九州の豪族と仮定し、安本美典氏が主張するように『魏志』「倭人伝」の邪馬台国を北部九州、福岡県の筑前町や朝倉市を中心としたクニあるいは連合国とすれば、当時、邪馬台国の南にあって邪馬台国と対立した狗奴国というクニは、熊本であったことになります。また『魏志』「倭人伝」には狗奴国には狗古智卑狗(ククチヒク)という役人がいたことになっています。そして、狗古智(ククチ)は菊池の語源とされています。
つまり、ヤマト王権にとって、かつての山鹿・菊池地域は、仇敵の本拠地だったことになるのです。その後、ヤマト王権の前身勢力である神武天皇が軍勢を率いて国の統一を図るための東征を開始する頃には、狗奴国は彼らの配下にあったかもしれません。

いずれにしろ、北部九州の勢力と山鹿・菊池勢力の間では血で血を洗う争いがあったものと推察されます。
そして、景行天皇は、その戦いに敗れし者、犠牲になった全ての人々を、神聖な人々、つまり八神として故郷に酷似した三輪山に倣って、震岳の頂きに祀られたのだと思います。

熊本には景行天皇の九州巡幸時の伝承や地名の説話が多く残っています。そして、多くの神社では神と崇められ、ゆかりの地では今なお尊崇を受けて語りつがれています。それがなぜかと問われれば、緊張した国際政治状況のなかにあって、未だ盤石とはいえない王権に不安を抱えつつ一部の敵対勢力との厳しい戦いの最中、これまで国の統一のために協力してくれた地元の土豪への感謝や無念の死を遂げた者達への哀悼の意を込めた、まさに巡幸と呼ぶにふさわしい行脚だったからなのだと答えるほかありません。
そして国の統一において、例え敵対勢力であったとしても義を尽くして死した者に対し、哀悼の念を持ち続ける思想こそが各地で尊崇を受けた最大の理由で、それこそがヤマトにおいて国の統一を果たした本当の理由だと思います。

しかしながら、国の統一という大事業を精神論だけで成し遂げるとは到底考えられません。そこには用意周到な戦略があったはずです。
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『景行天皇伝説を巡る冒険』25.敗れし魂の行方と勝者の激情

2022-12-28 18:21:00 | 景行天皇の記録
【破れし魂の行方と勝者の激情】
『魏志』「倭人伝」をはじめとする中国の史書には、弥生時代の終わりごろにあたるニ世紀後半の日本は「倭国大乱」といわれるような状況にあったことが記載されています。また、古代人の遺骨研究の分野では、北部九州の弥生人には激しい戦いを想起させるような傷跡を持つ人骨がかなりの頻度で見い出されていることが報告されています。福岡県の大規模埋葬遺跡である筑紫野市、隈・西小田遺跡からは戦傷例が集中して出土していますが、付近の遺跡規模や戦傷人骨の出土状況から、戦闘の規模は数十人から数百人程度の集団戦であったことが考察されています。

このように考古学の見地からも部族間の激しい戦闘が行われたことをうかがい知ることができます。無念の思いで命を落とした古代の人々のことを思うと胸が痛みます。戦わなければならない義が双方にはあったはずです。勝者になることもあれば、敗者になることもあります。しかし、敗者になることはすなわち死を意味します。そして、勝ち続けた者の背後には無数の死屍が累々と積み重なっていきます。国内の統一とは、そういった多くの死や数え切れない無念の上に成り立っているとも言えます。

必死の思いで己の死をかいくぐり、最終的に勝者となった者は何を思うのでしょうか。真の勝利者にならなければ感じることのできない、内から湧いて出てくる激情があるように思います。
世の中には様々な勝負ごとあります。勝者を目指す本当の意義や価値は、その激情を学べることではないでしょうか。
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『景行天皇伝説を巡る冒険』24.先住者のふるさと

2022-12-23 20:29:00 | 景行天皇の記録
【先住者のふるさと】
景行天皇は、この菊池川流域に伝わる古い歴史を当初から知っていたのではないでしょうか。

崇神天皇の時代、山鹿・菊池の地では先住の人々が彼らの文化様式で生活を営んでいたのでしょう。阿蘇大明神が「海神、吾を知れるや」と呼びかけたのは、先住民であった彼らがまさしく南方の海を渡ってきた海神族だったからではないでしょうか。そして、阿蘇大明神や景行天皇が茂賀の浦で見た「火」というのは、鍛治・加工、あるいは褐鉄鉱を原料とした製鉄の燃えさかる炎だったのかもしれません。
古墳時代の末期、菊池川流域では装飾古墳の文化が花開きます。装飾に利用される鮮やかな赤色は、褐鉄鉱を焼くことでできるベンガラです。この全国的に見ても特殊だとされる装飾文化の背景は、その原料を生み出す資源、つまり鉄を含んだ地質とともに、褐鉄鉱に親和性の高かった人々の存在が考えられます。

学生のころ八重山地方を旅しました。ある離島の大潮の日、浜辺では海開きのお祭りが行われていました。大きな鍋を使った牛肉の鍋料理が振る舞われ、島人たちに混じってその郷土料理を頂きました。夜はある民家の宴に呼ばれて泡盛を飲みました。
そのときのことです。その宴で一緒に飲んでいた年老いた方から、ある物を頂きました。それは「鈴石(すずいし)」でした。長径が5cmくらいの丸みを帯びたやや光沢感のある褐色の石ころは、その名のとおり手に持って耳元で振ってみるとコトコトと音を発したのでした。
その古老から、これは君が持っておくべき石だと言われたような気がします。当時は浅学な学生で、頂いた石が何なのかさっぱりわかりませんでしたが、後に調べたところ鉄の酸化物が主成分で、鉱物として赤鉄鉱もしくは褐鉄鉱であることを知りました。海神族は西表島の鈴石も製鉄に利用したかもしれない。そんなことを考えながら、この石を眺めると、胸が温かくなるような不思議な気持ちになります。





やはり、景行天皇は、当初から震岳の頂きに八神殿を祀る計画だったと思います。景行天皇の時代でさえ九州の土豪の一部はヤマト政権に対して恭順を示しませんでした。先々代の崇神天皇の時代はなおさらだったかもしれません。国内統一のためには示威行為だけでなく武力の行使も必要だったことは容易に察しがつきます。ヤマト政権に属さない勢力と激しい戦闘も引き続き起こっていたのでしょう。
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『景行天皇伝説を巡る冒険』23.震岳に祀られたのは先住者たち!?

2022-12-21 21:05:00 | 景行天皇の記録
【震岳に祀られたのは先住者たち!?】
第12第景行天皇は当初から震岳に八神殿を祀る計画だったと思います。
末広がりの「八」は、古来より神聖な数とされ『古事記』では「多数」を意味します。
また、「八神殿」を調べてみると、これは「天皇守護の神」と言われている神々を祀った神殿とされています。八神、すなわち、神産日神(かみむすびのかみ)、高御(たかみ)産日神、玉積(たまつめ)産日神、生(いく)産日神、足(たる)産日神、大宮売神(おおみやめのかみ)、御食津(みけつ)神、事代主(ことしろぬし)神、を祀り古代日本において国家祭祀の中枢として神祇官が祭祀を司ってきた神殿であるとされ、現在においても宮中三殿のうち「神殿」において祭祀が行われているとされています。
つまり「八神」とは、天皇を守護する神という性格から、古代においてはヤマト王権や産声を上げたばかりの「日本」に安寧や平和をもたらす神々と受けとることができます。

伝説では景行天皇の祖父に当たる第10代崇神天皇が阿蘇大明神に「茂賀の浦」の平定を命じます。阿蘇大明神がほとりに立つと湖の底から八頭の大亀が現れ、俗説ではこの化け物を退治したとあります。また、別の伝説では、景行天皇は、「茂賀ノ浦」から現れた八頭大亀を誅してその霊を「八神」として祀りました。
これらの伝説は、まるで『古事記』における天地開闢神話の山鹿バージョンとも言える内容になっています。穿った見方をすれば、この物語は後世になって『古事記』や『日本書紀』に詳しい誰かが創作したものだと言うこともできると思います。
しかし、この伝説は、この山鹿・菊池地域に古代から伝わっていた原型となる出来事を示していると考える方が自然ではないでしょうか。むしろ、そのような考え方を持つことのほうが普通の感覚に近いような気さえします。

ところで、亀は古来より神聖な生き物として崇められています。亀は「霊亀(れいき)」「神亀(じんき)」「元亀(げんき)」のように年号にも使われています。また平安時代に取りまとめられた『日本三代実録』には肥後国について以下のような記録が残されています。
貞観(貞観)16年(876年)に政治の中心施設である大極殿が火災によって焼失し、当時の清和天皇は自身の進退について悩んでいたところ、現在の菊池市旭志町にある奈我神社で白亀が捕まえられたことが太宰府を通じて朝廷に伝えられます。これを知った天皇は、白亀の出現は次の新しい天皇を祝うめでたい事が起こる前兆と考えます。そして、この一件が清和天皇の退位を促したといわれています。

亀は茂賀の浦に先住していた人々のトーテムであった可能性もあります。トーテムとは、特定の集団、「部族」、「血縁」に宗教的に結びつけられた野生の動物や植物などの象徴を指します。ちょっと違うかもしれませんが、プロ野球チームで例えれば、令和3年に優勝したのは「燕だよね。」と言うようにです。

このように、亀は化け物を指しているわけではないのです。むしろ、神聖さや尊崇の念あるいは先住者の象徴を表現していると捉えるべきと思います。
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『景行天皇伝説を巡る冒険』22.三輪山に祀られた敗れし神々

2022-12-19 18:36:00 | 景行天皇の記録
【三輪山に祀られた敗れし神々】
一方、三輪山に鎮まる神々は、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)、大己貴神(おおなむちのかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ)です。

さて、ここからは神さま達の話になります。三輪山に鎮まる大物主大神(おおものぬしのおおかみ)、大己貴神(おおなむちのかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ)の三柱の神は、一体どのような系譜を持った神なのでしょうか。

『古事記』では、大己貴神(おおなむちのかみ)は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の弟もしくは同格的存在の須佐男命(すさのおのみこと)の6代目の子孫として記されています。また、日向の高千穂に邇邇芸命(ににぎのみこと)が高天原から天孫降臨する以前に、出雲で、さまざまな苦難を乗り越えながら少彦名神(すくなひこなのかみ)の協力を得て葦原中国(あしはらのなかつくに)作った神と記されています。大物主大神(おおものぬしのおおかみ)は、少彦名神(すくなひこなのかみ)の神に次ぐ第2の協力者的な存在で、葦原中国(あしはらのなかつくに)の完成を願って三諸山(みもろやま)(現・三輪山)に祀られた神です。

しかし、せっかく苦労して大己貴神(おおなむちのかみ)たちが作った葦原中国(あしはらのなかつくに)でしたが、その繁栄ぶりを見計らったようにして高天原の神たちが国を譲るように迫ります。そして遂に、葦原中国(あしはらのなかつくに)は高天原の神たちの手に落ちます。このときの大己貴神(おおなむちのかみ)たちの無念さはいかばかりだったでしょうか。

そして時代が下りヤマト王権が確立した第10第崇神天皇の時代のときのことです。
国内に恐ろしい疫病が流行ります。このとき、崇神天皇の夢に現れた三輪山の大物主大神(おおものぬしのおおかみ)のお告げによって、大物主大神の子孫にあたるオホタネコを探し出すと、オホタネコに大物主大神を祀らせました。すると、疫病は収まり、国に平和が戻りました。

大物主大神は、大己貴神とともに葦原中国を作った神です。言ってしまえば、ヤマト王権の前身にあたる高天原の神たちによる敗れし神で、繁栄を見せるヤマトの国に対して強い怨念を抱いていても不思議ではありません。

第10第崇神天皇の行動は、ともすれば日本史における祟信仰(たたりしんこう)のハシリのように捉えることもできます。
熊本出身の民俗学の権威で地名研究の第一人者であった故谷川健一氏は名著『魔の系譜』の中で、日本の王権を支えてきた影の部分を日本人の情念の歴史と捉え、死者、特に政治的敗者の怨念が、死後において生者を支配してきた様相を鋭く指摘したのでした。
しかし、敗者の死後において怨念を感じるのは実は生者です。裏を返せば無念の死を遂げた者に対する強い哀悼の情念が私たちの深いところに存在すると考えることはできないでしょうか。これこそが、私たち日本人に通底する本当の情念のように思うのです。この情念は、大災害で身近な人を亡くした方々が罪悪感を抱く気持ちの根源のようにも思えます。
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『景行天皇伝説を巡る冒険』21.三輪山山麓で鉄バイオマットを発見!

2022-12-16 21:32:00 | 景行天皇の記録
【三輪山の麓で鉄バイオマットを発見!】
三輪山を下山し大神神社を後にしました。その日は寒波の襲来で北風を強く感じました。登拝中には僅かに雨も混じった時間もありましたが、大鳥居の下まで戻ると西の空は明るくなり天候の回復が期待できました。4泊分の荷物の入ったリュックが肩にズシリと重かったのですが、脚にはまだ余力が残っていました。
一旦国道に出ると車の少ない古い街並みが残る旧街道を進みました。参詣者で賑わっていた神社界隈とはうって変わって静かな道でした。
その旧街道沿いでは、卑弥呼の墓ではないかとされる古墳時代の初期に築造された箸墓古墳(はしはかこふん)が見られます。現在は常緑樹に覆われた箸墓古墳を通り過ぎると視界が開けます。周囲は緩く傾斜した扇状地を利用して作られた田園が広がりました。


箸墓古墳

纏向、三輪山山麓に広がる田園



そして、ふと足下に目を向けると、アスファルト道路の横の水路の底が茶褐色であることに気がつきました。
心臓が高鳴りました。
よく見ると、流れに身をまかせて水草のように揺れていたのは、地質用語でいうところの鉄バイオマットでした。地中から出ている塩ビパイプの口もとはさらに明瞭なオレンジ色となっていて、西日に照らされて美しく輝いてさえ見えます。


水路の水中に生成している鉄バイオマット


近年、民俗学や製鉄技術の分野では、古代の製鉄の始まりは弥生時代に遡るのではと強く主張されています。原料は、ここまで何度も紹介してきた鉄バクテリアによって生成した水酸化鉄が石化した褐鉄鉱です。褐鉄鉱は不純物を含むため融解温度が低く、それを鍛造すれば鉄器が製作できます。しかし、褐鉄鉱は品位が低く酸化腐食しやすいという特徴もあるため、考古学の遺物として残ることはまれなのです。遺跡が残っていないからと言って、製鉄が行われていなかったという証明にはならないというのが彼らの主張です。

地質技術者の目線やこれまでの自身の調査からは、古代の製鉄の始まりは褐鉄鉱を原料とした製鉄と考えるほうが自然のように思えてきます。

三輪山の西南麓には「金屋」という地名があり、付近の金屋遺跡からは前期縄文土器や弥生時代の遺物とともに、同層位から鉄滓や吹子の火口、焼土が出土しています。今回は訪問しませんでしたが、穴師坐兵主神社(あなしいますひょうずじんじゃ)には鉄工の跡が見られるといいます。
大和地方の人々が古代より三輪山に対して尊崇の念を抱いたのは、その秀麗な山容だけでなく水稲耕作に必要な水、その水から鉄器の原料である褐鉄鉱や、その供給元となった鉄分を多く含んだはんれい岩という特殊な山だったからではないでしょうか。
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