1969/04/09に生まれて

1969年4月9日に生まれた人間の記録簿。例えば・・・・

誇り高き選挙バカ×24

2012-12-30 22:47:19 | 雑談の記録
ボクがブログを始めるきっかけとなったのは、前にも書いたとおり2005年の衆議院議員選挙でした。選挙期間中に選挙戦の様子を記録しておこうと、同級生で運営していたHPに投稿したのが始まりでした。その文章を読んだ幾人かの友人に「オマエ、文才あるんじゃ」なんて言われたことに調子づいたように思いますが、選挙後に疲れ果てて、正しくは飽きてしまってその投稿シリーズは尻切れトンボになったのでした。そして、しばらくたったある日、選挙記録ではないけれど、自分記録を作るのも悪くないなと思い、2006年の11月からこのバカブログは始まったのでした。最近はめっきり更新が減りましたが、一時期は、ほぼ毎日のように更新していました。

ブロガーの多くが、自身のブログを読んでもらう、あるいは、目に留めてもらうために、ブログサイトに登録しているように思うのですが、そういうのにはなんとなく気恥ずかしさがあり、今でも多くの人に読んでもらうための特段の努力はしていません。基本的にブログはその記事を読みたいと思う人だけが読むのものであって、ボクのブログの場合、何かに役に立つことが書いてあるわけでもなく、また、広告などによる金儲けなども全く意図していないからです。
それでも訪問者数のカウンターが次第に増えて行くのは楽しく嬉しく思っていました。多い時は一日に300人以上の訪問があったように思います。そして、更新が滞りがちの昨今も100人弱の訪問を受けています。嬉しい限りです。

ただ、極稀にですが「読者です」と告白されることがあります。そのときの恥ずかしいこと恥ずかしいこと。普段のボクを知っている人は、特に酔っ払ったときのことを知っている人は、ボクが恥ずかしがるなんて信じられないかもしれませんが、よく知らない人に「読者です」なんて言われると、そのあと「ありがとうございます」以外の答えに窮してしまうのです。

また、どうでもいいことを書いてしまったわけですが、ブログを始めて丸6年の間に長短良し悪しはあるものの1400件の記事を書いています。それほど文章力が向上しているようには思えないと古い読者の方には怒られそうですが、それなりに一定の評価を周囲から頂いているのは確かです。

K団長の期待も「ソコ」にあったことは分っていました。

選挙活動には一人でも多くの協力が必要でした。特に同級生の協力無くして活動は不可能でした。ですが、同級生とは言え、普段、連絡を取り合っているような仲間は数人でした。特に、ボクの場合はK団長を中心にした関係が殆どであったため、それ以上の広がりを期待されても到底無理な相談でした。
しかし、先ずはFBを使わない手はありませんでした。同級生間には一般向けに非公開のウォールがありました。そこには、同級生の25%に相当する約100人が登録されていました。

先ずは、多くの同級生と繋がる必要がありました。自分のウォールにメッセージを投稿すると、「いいね」をよく押している同級生に向けて片っ端から「友達リクエスト」したのでした。古い言い回しですが、清水の舞台から飛び降りるような心境でした。このとき、勢いでかなり疎遠な友人にもリクエストしたように思います。

以下、そのときの投稿を掲載します。

11月26日
ボクは元来、FBで「友達リクエスト」するのは苦手なんです。
照れくさくって・・・。
だって、見ず知らずじゃなかもしれないけど、ボクのこと「こんにゃろ!」って思っている人もいると思うワケで・・・・。
そして、こんな時期に「友達リクエスト」するなんて「選挙目的だろ」って思われること間違いナシだし・・・・。

だけど、これを機会に、FBの友達になれたらいいなぁ~って思うのです。
ただ、単純に、ホントに・・・。

だから、許して下さい。

そんなワケで今からリクエストします。
拒否、全然OKです。
よろしくお願いいたします。

この破廉恥とも言えるリクエストにより、友達は数十人から一気に三桁になりました。ボクみたいなデジタルによる人間関係に抵抗を感じる者にとっては驚きの数となりました。「友達」になった後、選挙のことだけを投稿するのは気が引けたので、それまであまり投稿したことのなかった自分の仕事のこと等もこの頃はよく投稿していました。正直なところ、少しでも自分に親しみを持ってもらいたいというそういう思いからでした。

続く、、、
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誇り高き選挙バカ×23

2012-12-30 20:49:45 | 雑談の記録
『命のバトン』
〈中略〉
実は、おじさん、ちょーど君たちと同じ年頃のころ、ときどき眠れない夜がありました。
自分が「死んだ」ことを想像すると眠れなくなってしまったのね。自分がこの世から消えてなくなってしまうことを考えると、もう、怖くて怖くて・・・。
だってさ、誰だってさ、生まれてきたものは、死ぬわけでしょ、絶対に死ぬでしょ、死んじゃうでしょ、死ぬことはさけられないことだよね。
でもさ、こんなこと考えると、逆に死にたくないって強く思うよね、なのにゼッタイ死んでしまう。そしてね、ゼッタイ死ぬのに、なんでワザワザ生まれてきたんだろうって考えちゃうよね。そう思わない?。
ゼッタイ死ぬなら、そんなの最初から生まれてこなきゃいいのにって。
〈中略〉
おじさんは今年で40歳になります。現在の日本人の平均寿命はだいたい80歳だから、普通に生きているとすれば、おじさんは、今、人生の折り返し地点にいると言えるよね。それで「ゴール」を「死ぬ」ってことにすれば、毎日、毎日、そのゴールに近づいているわけだから、死ぬことがどんどんどんどん自分に近づいてるって意味になるよね。こんなふうに考えると、なんだか怖くなるよね。だけど、不思議なことに今はそれほど怖いとは思わなくなったよ。

みんなぁ、目を閉じてくれるかなぁ、そして机に伏せてくれるかなぁ

今からみんなを時空の旅に招待しようと思います。

みんなは宇宙の歴史は知っているかなぁ?。
宇宙の誕生は137億年前頃だったと言われています。ビックバンと呼ばれる大爆発によって宇宙は誕生し、次々と数えきれないほどの星雲が生まれたと考えられています。
最初はチリやガスなんだけど、それが次第に集まりだしていろんな大きさの星が生まれて、今から120億年前頃に2000億個以上の星やガスが集まって銀河系ができました。
地球は太陽を中心に回っている10数個の惑星のうちの一つだけど、地球は今から46億年前に銀河系の隅っこで生まれました。
地球は生まれた最初からだいたい今ぐらいの大きさだったらしいけど、生まれたすぐの頃は、隕石がたくさん衝突していて、ぶつかったときのエネルギーでめちゃくちゃ熱かったらしいです。そして地球の上空には衝突したときに発散したガスや水蒸気が分厚い雲を作って地球を覆っていましたが、あるとき、突然、雨となっていっきに降りだしました。その雨は、雨なんて生易しいものじゃなくて、嵐にちかかったと考えられていますが、その嵐は全地球上で一度ももやむことなく1000年続いたそうです。
そして、今から43億年前に原始の海がようやく出来上がりますが、そのころはまだ生物はいませんでした。それから最初の生命体が現れるまで3億年かかり、40億年前頃になってようやく細菌程度の生物が生まれました。細菌の大きさは1ミクロン、1mmの1/1000くらいの小さな小さな生き物です。その細菌の時代は長く続きました。約30億年間が細菌や微生物の時代だったと考えられています。ですが、10億年前くらいに地球は全て氷に閉ざされる時代があって、そのときに多くの微生物は死んでしまったと考えられています。
だけど、このときに生き残った生物は、氷が解けたあとに爆発的な進化をとげて、その頃になってやっと虫みたいな生物やコケみたいな植物が生まれました。そして3億年前ぐらいになると、昆虫、魚、両生類や爬虫類などの生物たちで地球は生命にあふれました。
だけど、また問題が発生します。2億5千万年前に、シベリアで日本の面積の5倍以上のドロドロに溶けた熱い溶岩が地中からいっきに噴き出してくるという大異変が起こって、そのとき、全地球上の95%の生物が絶滅しました。だけど、生物ってのはホントにしぶとくてたくましくって、その生き残りが恐竜として、その後、地球上で大繁栄したのです。しかし、恐竜も6千5百万年前には絶滅しちゃうよね。それは隕石の衝突による環境の大きな変化が原因だったんだよね。
恐竜が絶滅してからが哺乳類の時代になるんだけど、人類の祖先が現れるのは500万年前頃。そして100万年前からはだいたい10万年を周期に氷河期と温かい時期が繰り返して、最後の氷河期が終わったのが1万年前。ちなみに、熊本では9万年前に阿蘇山が大噴火を起こして、九州の生物の多くはそのときの大爆発の熱と灰で殆どが死滅しています。

さて、ここまで駆け足で地球の歴史を旅してきたけど、どうだろう、地球の歴史ってのは実は無数の生命が生まれては死んで、生まれては死んでの繰り返しだったことに気づいてもらえたかな。
みんな目を開けていいよ。

じゃぁ、みんなに質問。地球の46億年の歴史を1年にたとえると、人間の寿命ってどのくらいでしょう。

あのね、おじさん計算してみました、答えは0.5秒、たったの0.5秒。めちゃくちゃ短いよね。地球の歴史から考えるとね、人間の寿命なんてホントに短いんだよ。生きてるか死んでるかわからないくらい短くて、どうだっていいようなものなんだよね。取るに足りないない下らないものって考えることだってできるよね。

だけどね、君たちに気づいてもらいたいことがあるの。
それは何かっていうと、僕達が、今、ここにいるのは、40億年前から始まった命のリレーのおかげなんだってこと。
今、僕達は、生きてるみんなは、その命のリレーのトップを走っているんだ。みんなはトップランナーで、40億年前からの命のバトンが、みんなに託されているってことなんだね。

おじさんが、最初に話した子供の頃の疑問を憶えてる?。
「ぜったい死んじゃうのに、なんでワザワザ生まれてきたんだろう」って。

おじさん、最近ね、命のバトンを渡すことが生まれた理由じゃないのかなぁって思うようになったよ。

自分の命は自分だけの命のように思うけど、40億年の命のリレーが今の自分の姿であることを思うと、こりゃぁやっぱり大事にしていかないといかんなぁって思うわけ。確かに、地球の歴史からすると、人間の命なんて一瞬でチッポケでどうだっていいようなものなんだけど、パッと輝いているに違いないよね。おじさんは、目を閉じて命のことを考えると、今は無数の輝きを感じることができます。その輝きは、たぶん、君たちなんだろうね。

今日、君たちは、この道徳の授業を通して命の大切さを学んだことと思うけど、おじさんは今日、君たちに命のバトンを渡せたような気がします。
次は、君たちが次の世代に命のバトンを渡してください。

お話し聞いてくれてありがとう。

その後、命の授業を受けた子供たち全員から手紙が届きました。
その幾つかを紹介したいと思います。

西さんへ
西さん、先日は、おいそがしい中、仕事もとちゅうでやめてきて下さって、ありがとうございます。ぼくは、西さんの話の中で「命は42億年前くらいから、命のリレーがつづいている」と「人間の命は、地球の歴史を1年間でたとえると0.5秒」ということが心に残っています。西さんが「時空の旅」といって想像するのが簡単でした。ぼくも、ねながら、死んだらどうしようと思う事もたまにあります。でも、この話をきいて恐くなくなりました。
宇宙から始まり、生き物の死んだり生まれたりと命のリレーが続いていて、今度は、バトンを次にぼくたちがわたす番です。だから精一っぱい生きていきたいと思います。ぼくたちは、平均じゅみょうは80才で、あと約68年もあります。なので、自殺のような事はせず、生きていきたいと思います。西さん、本当にありがとうございました。また、よろしくお願いします。
桜木東小学校6年2組 Y・S

西さんへ
先日は、おいそがしい中、私達のためにきてくださってありがとうございました。西さんの話はとてもためになりました。
いつもは、話をしんけんにきかない私が、いつのまにか、西さんの話をしんけんに聞いていました。
私達に分かりやすく、楽しく話してくれて、話したいこと西さんの気持ちがよく伝わってきました。
私達はどうせ死ぬうんめい、もう、もどらない命、でも、その一生を大切に精いっぱい生きるということを、西さんの話で分かりました。
私も、先祖からもらった命、私の命を大切にして精いっぱい生きたいと思います。ありがとうございました。
6年2組 S・M

西さんへ
先日はお忙しい中、わざわざぼくたちのために、おいで下さり誠に有難うございました。目をとじて、時空の旅に行ったとき、西さんのお話と、宇宙の映像が合ってとてもわかりやすかったです。何十億年を1年にたとえて、人間のじゅみょうは0.5秒ということがわかりました。そして、何十億年を1年にたとえてではなく、1日でたとえてみると、0.0013698・・・・・・・とずっと続いていました。
ぼくも、時々死について考えたことがあります。「なんで生まれてきたのだろう」や「生まれてこなかったらどうしよう」などと考えてみましたが、西さんの話をきいて、「命のバトン」をつなぐために生まれてきたんだなと思いました。このたびは本当においそがしい中、本当に有難うございました。
6年2組 N・ H

涙なしでは読めませんでした。
子供たちに思いを伝えることができて本当に嬉しかったです。
ありがとう。
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誇り高き選挙バカ×22

2012-12-30 20:45:41 | 雑談の記録
『夢ふうせん』

あなたは大きく羽ばたくことでしょう
旅立つその日まで、わたしはあなたのそばにいるから

夢ふうせん あなたの想いを乗せ 飛んで行け虹色の空へ
夢ふうせん わたしの想いを乗せ 飛んで行け虹色の空へ

おぼえている?
小さな手を握り 一緒に歩いたあの春の日
あなたは 石ころひとつによこび 紋白蝶におどろき 菜の花を食べようとした
おぼえている?
小さな手を握り 一緒に歩いたあの夏の日
あなたは アスファルトの熱を忘れ 蝉のヌケガラを集め カブトムシをせがんだ

夢ふうせん あなたの想いを乗せ 飛んで行け虹色の空へ
夢ふうせん わたしの想いを乗せ 飛んで行け虹色の空へ

おぼえている?
小さな手を握り 一緒に歩いたあの秋の日
あなたは 棒っきれを振り回し 草むらに隠れる 秋虫たちと戯れていた
おぼえている?
小さな手を握り 一緒に歩いたあの冬の日
あなたは 初めて見る雪に すべってころんで 泣いてしまった

夢ふうせん あなたの想いを乗せ 飛んで行け虹色の空へ
夢ふうせん わたしの想いを乗せ 飛んで行け虹色の空へ

おぼえている?
わたしの手を握り 一緒に歩いたあの遠き日
あなたは いつも笑顔で いつもやさしく いつもそばにいてくれた

あなたに見せてあげたい 大きめのランドセル
まわりに支えられここまで歩んできたの
世間の風は冷たいことが多いけど
陽の当たる場所はちゃんとあるの

あなたは大きく羽ばたくことでしょう
旅立つその日まで、わたしはあなたのそばにいるから

夢ふうせん あなたの想いを乗せ 飛んで行け虹色の空へ
夢ふうせん わたしの想いを乗せ 飛んで行け虹色の空へ
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誇り高き選挙バカ×21

2012-12-30 20:42:46 | 雑談の記録
『卒業25周年同窓会』
〈中略〉
さて、同窓会とは同じ学校を卒業した者同士の集まりのことをいうのですが、中学校卒業の場合は、その言葉通り、同じ窓の風景を見ていた者たちの集まりという解釈のほうが私にはシックリくるように思うのです。私達は、本当に同じ風景の中で生活をしていました。同じ地域に住み、同じ言葉を使い、同じ空気を吸い、同じ学校に通っていました。

ただ、当時、多感だった十代の私達が、心の窓で見ていた風景は、それぞれ違っていたはずです。澄み切った青空を羽ばたく鳥のような気分の日もあれば、悪臭を放ちながらドブに沈む死んだ子猫のような日々だってあったに違いありません。
そして、いつの間にか四半世紀という月日が流れ、私達は40歳という年齢になりました。卒業後、私達はそれぞれが違った風景の中で生きてきました。ここに出席頂いた皆さんの多くは、各分野の第一線でご活躍のことと思いますが、ここに至るまでのご苦労も相当大変であったこととお察しいたします。折りしも、この不況、出席したくても出席できない状況にある同級生もいらっしゃったはずです。
今、心の窓に映るのは、苦しみ、悲しみ、喜びなど、様々な場面での心情模様ですが、25年という時間を経て思うのは、私の窓に映るものと皆さんの窓に映るものは同じものではないかということです。中学時代、私達は違った心情で生活を送っていました。そして卒業後は、違った学校、違った社会、違った価値観の中で生活をしてきました。ですが、皆さんも既にお判りのとおり、私達が再会した瞬間に心が通じ合うような気持ちになるのは、私達が「同じ風景」と言う名の「絆」によって結ばれているからだと思うのです。

日本の平均寿命から考えますと、40歳という年齢は、人生の折り返し地点と言えるかもしれません。本日は、その折り返し地点にささやかな休憩所を設けさせて頂きました。行き足らないところもあると思いますが、実行委員の苦労に免じてご容赦頂きたく思います。
最後になりますが、本日の同窓会を機会に私達の「絆」の発展を願うとともに、皆様と先生方のご多幸とご健勝を祈念いたしまして挨拶とさせていただきます。どうぞ、心行くまでお楽しみ下さい。どうもありがとうございました。
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誇り高き選挙バカ×20

2012-12-30 20:39:59 | 雑談の記録
『立志式』
〈中略〉
さて、おじさんほど極端じゃないまでも、今の君たちもそれほど変わらない状況に置かれているんじゃないのでしょうか。つまり、君たちは、現在、複雑の中に生きていると思う。
学校のこと、友達のこと、勉強のこと、部活のこと、家族のこと、お金のこと、自分のこと、将来のこと。
そんないろんなことが、一度に見えてきてしまう時期で、だから、イラついたり、落ち込んだり、反発したり、意地悪してみたり、悲しんだり。騒いだり・・・。

例えて言うなら、いま、君たちは、複雑交差点に立っているのかもしれない。
複雑交差点には、いろんな方向から、いろんな車が、いろんなスピードでやってくる。もし、その複雑交差点に交通整理がなかったら、その交差点では事故がたくさん起こるよね。だから、そこでは交通整理が必要なんだけど、今の君たちはまだ初心者だからその交通整理がうまくいっていないだけ。

ひょっとすると大人になるっていうのは、その交通整理が少しだけ上手になるって、そういうことなのかもしれない。

そう考えると、今日、この日から君たちに立派な大人になれなんてともても言えない。

だけどね、君たちの交差点が、少しでもスムースに行き来できるようにとおじさんは願ってるし、先生や親の役目は、君たちの交差点に進入してくるいろんな車をほんの少しだけコントロールすることだと思っています。

いま、君たちの交差点ではたくさんの事故が起こっているかもしれないけど、交通整理が上手になってくると、だんだん事故も減っていって、それと同時に、その交差点から一本の大きな道が見えてくるようになると思います。あとは勇気を持ってその道を進めばいいと思います。

その道は平坦じゃないし、横からの飛び出しもあれば、後ろから追突されることもあるし、上から落石だってあるかもしれない。たまには、スピードを上げて前の車を追い抜かなくちゃいけないこともあると思います。また、あるときは酷い事故現場を横目にしながら通り抜けなくちゃぁいけない。

もうすぐ君たちは、事故ばっかりの交差点から、自分の道へ向かって出発することになると思いますが、その道を進むにあたって、ルールを守ることが大事であることも忘れてはいけません。最初は誰はでも初心者です。人生の入口、大人への一歩なんて、そんなものです。

ただし、君たちに「人生の免許証」を交付するのは、まだちょっと早いかなって思います。

なので、この立志式を迎えるにあたりまして、おじさんは「人生の仮免許証」を君たちに交付したいと思います。

校長センセー、いいでしょうか。

FKSセンセー、YMZセンセー、生徒の代表を呼んでもらっていいですか。ま、だれでも構わないのですが、生徒会長さんとかでも、仮免許証を準備してきたんで、これをここで渡したいので・・・・、

仮免許所(人生)!
S中学校2年生 平成6年生まれ NKH君!
S中学校2年生保護者会則第100条の規定により、貴殿のこれまでの人生を称え、ここに、人生の仮免許を得たことを証する。
平成21年2月5日木曜日。
2年生保護者会指定機関 人生認定委員会 代表 西 英典
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誇り高き選挙バカ×19

2012-12-30 20:37:41 | 雑談の記録

『心の望遠鏡』
                               
夢や希望は 無いよりあったほうが たぶん いい
わかってるさ
だけど 夢や希望を見つけるには どうすればいいんだろう

知ってるよ 君たちが 特別な望遠鏡を 持っていることを
知ってるよ 君たちが 今まで大事にしまっていたことを

さぁ 取り出そう その望遠鏡を 今がそのときだ
覗いてみよう 何が見えるだろう
たぶんまだ なんにも見えないだろう
望遠鏡が 壊れてるってことじゃぁない
レンズが曇ってるってだけなんだ

さぁ 磨こう そのレンズを 今から磨こう
覗いてみよう 何かが少し見えるだろう
ぼんやりと 何かが見えるだろう
レンズを磨く 真剣にやるってことなんだ
本気でするってことなんだ マジだぜ

さぁ 磨こう そのレンズを みんなで磨こう
覗いてみよう 何かがはっきり見えるだろう
夢や希望が見えるだろう
みんなで磨く それが友情ってやつなんだ
支え合うってことなんだ


夢や希望は 無いよりあったほうが たぶん いい
わかってるさ
だけど 夢や希望を実現するには どうすればいいんだろう

知ってるよ 君たちが 特別な望遠鏡で 見つけていることを
知ってるよ 君たちが それを手離してはいけないことを

さぁ 見定めよう その望遠鏡で さぁ進もう その夢に向かって

道のりは平坦じゃぁない

悔しさの涙で 歪んで見えることもあるだろう
そのときは 涙が枯れるまで泣けばいい
怯え震えて 見失いそうになることもあるだろう
そのときは 誰かがきっと支えてくれる
苦しすぎて 目をそらしたくなることもあるだろう
そのときは 空を見上げて遠くの友を思い出そう

険しい山や酷い嵐にだって遭うだろう
干からびた大地や汚れた川も渡るだろう
疲れ果てて 漆黒の暗闇に独りになることだってあるだろう
そのときは 光りが差すまで待てばいい 暗闇も悪くない

だけど 絶対 手離しちゃぁいけない
特別な望遠鏡
大事な望遠鏡
夢への望遠鏡
心の望遠鏡

愛してる ありがとう

平成19年3月22日
熊本市立桜木東小学校 PTA会長 西 英典
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誇り高き選挙バカ×18

2012-12-30 19:26:05 | 雑談の記録
代議士との関わりの中でボク自身が大きな影響を受けたことは、前述のようなことからもお解りの通りだと思います。ただ、その影響は、政治や正義といったことに留まりませんでした。
ボクが小学校のPTA活動に参加するようになったのもその影響の一つで、また、息子の小学校時代の野球チームの運営に深く関わったことも、今となっては、その表れではないのかと思うのです。中学時代の同級生からは同窓会の会長を任せられ、昨年、活動の益金で運動会で使用する応援団旗を贈呈することができました。どの活動も周囲の方々の協力が無ければできなかったことですが、このような活動を通じて人々の思いや悩みそして社会が抱える問題を実際に肌で感じることができました。
しかし、正直言って、このような活動はメンドくさいです。本当に面倒臭いです。こういう活動には激しい感情の衝突も珍しくはありません。体力や気力を消耗しつくして肺炎を患ったこともあります。
ですが、その苦しみの先には、いつも皆さんの笑顔がありました。そして、何より、自分自身がそのことを喜び、また、皆さんともに成長をできたことに心から感謝せざるを得ない気持ちになるのでした。

このような感情を幸福感と言うのであれば、それはそれで良いと思っています。そして、このような幸福感を得るに至った背景が木原代議士、いや、キハラが政治家を志すといった「勇気」であるならば、その「勇気」に応えるのが友人としての役目ではないのかと思うのです。

話は変わりますが、今回の選挙に限らず、ボクはいろんな場面で「喋る」機会を与えられたことがあります。そんなとき、必死で考えます。
そのときに伝えたい気持ちをどのような言葉で表そうかと必死になります。また、人前で「喋る」ということは、聞いて下さる人にとっての大切な時間を頂戴することでもあるから必死にならざるを得ないのです。このブログに既に掲載されているものをいくつか紹介したいと思います。今もその時の気持ちのままです。それは、詩のようになっていることがどうも多いようです。


続く、、、
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誇り高き選挙バカ×17

2012-12-30 17:46:29 | 雑談の記録
さて、我々同級生は2005年の夏から選挙に関わっているのですが、小泉旋風を受けてキハラは比例復活を果たして代議士となりました。当時は右も左も分からない中での選挙活動でしたが、当選を果たしたときの達成感は今以上ではなかったかと思います。若かったんだろうと思います。同級生が代議士になったことを誇りに思いました。

キハラが木原代議士になりました。

代議士と関わったことを少し記録しておこうと思います。

その前に少し自分の仕事の紹介をしておきます。
ボクの仕事は公共工事に関する地盤や地質調査がその主体です。簡単に説明すると、橋梁やトンネル、その他建物などの構造物を作る前に地盤の状況を調査するという具合です。具体的には調査ボーリング(地中に孔を掘る)を行って、地中から採取される土や岩石について調べ、その地盤の強度や構造について解析するといったものです。

ある砂防ダムの計画が決まった現場でのことでした。
調査をするとその現場の岩石にはアスベストが含まれることが判明しました。砂防ダムを作る力学的な観点からは、その岩石はなんら問題は無いものでしたが、そこで工事にあたる作業者の健康には問題がある可能性が考えられました。ボクはそのことを担当部署に報告するとともに、ある飲み会の席で代議士にも相談しました。
現在、アスベストの危険性は一般に知られていますが、それが特殊な岩石に多量に含まれていることはあまり知られていません。今だから話せるのですが、以前、ボクは資源会社に勤めていて、会社トップからの密命を受けていろんな採石山におけるアスベスト含有の可能性を調査した経験がありました。だから、ある程度の知識を持ってその仕事に取り組んだのですが、残念ながら一般の土工事現場におけるアスベストの規制や管理方法といったものはなく、行政側も取り扱いに大変苦慮していました。
そして、代議士はこの問題をいち早く取り上げ国交省に対応策を掛け合い、そのことは全国の自治体に伝わりました。
その砂防ダムは現在完成し、その機能を遺憾無く発揮しているのですが、このとき初めて代議士の力を知ったのでした。

もう一つ記録しておこうと思います。
それは、Jリーガー我那覇ドーピング冤罪事件です。
2007年のシーズン初めごろ、体調不良によりチームドクターから受けた点滴治療が問題視(ニンニク注射と誤報)され、Jリーグがドーピング違反で6試合の出場停止処分とチームに1000万円の罰金を課しました。しかし、実際は、点滴にビタミンを追加しただけの専門医師として適切な医療処置でした。その後、このことは世界アンチドーピング機構の規約違反にはならないことが示されました。また、処分の取り消しを求めてスポーツ仲裁裁判所(CAS)に提訴し、2008年5月27日、CASは我那覇の訴えを全面的に認め、Jリーグに対し、CAS史上最高額となる2万ドルのペナルティを科す裁定が下されたというのが、この事件の大筋なのですが、点滴治療を行ったのが熊本出身の我々同世代のドクターだったのです。
この問題がスポーツ誌で報じられたころ、ボクはそのドクターのお父さんから相談を受けました。これは不当な処分であるとお父さんは力説されておられました。また、ボク自身も新聞や雑誌等を調べ、これはJリーグのドーピングコントロール委員会の誤報に基いた処分であることを理解するとともに、この委員長が世界アンチドーピンング機構の委員に推薦されている「重鎮」であることを知るにいたり、組織の腐敗臭を感じたのでした。
そして、ボクはこの事を代議士に話し、ドクターのお父さんと直接会って話しを聞いてもらったように記憶しています。
その後の代議士の行動は早かったと思います。文部省に掛け合い、その後、国会でも取り上げられ問題解決の一翼を担ってもらいました。

CASの裁定が下った翌日の2008年5月28日に、このバカブログで我那覇選手のことを取り上げたところ、コメントが寄せられました。


これから (木原)
2008-06-01 00:19:30
「正当な医療行為」を施したドクターの名誉回復がまだですね。

ありがとう (hiratakuwa)
2008-06-01 08:25:05
ウン、確かに。
それはボクもよくわかっている。
身勝手で個人的な意見だけど・・・、
ドクターの名誉回復は静かにゆっくりがいいなぁ。
なんかそんな気がする。
でもトニカク、この件について、木原(衆議員)にはお礼を言わなくちゃいけない。
「めちゃくちゃありがとう!」

なお、我那覇選手の冤罪については、木村元彦さんが著した「争うは本意ならねど-ドーピンング冤罪を晴らした我那覇和樹と彼を支えた人々の美らゴール- :2011年12月集英社インターナショナル」に詳しく書かれてあり、これによりドクターの名誉回復が図られたのではと思っています。熊本県民の同世代の一人として木村さんにも心から感謝したいと思っています。ありがとうございました。

続く、、、
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