『三玉山霊仙寺を巡る冒険』
3.〜彦岳〜
彦岳には古い歴史を持つ彦嶽宮がある。上宮・中宮・下宮の三社を一つの神宮として創建され、語り継がれきた由緒は以下のようになっている。
第十二代景行天皇の時代のこと、日向の国の熊津彦が謀反を起こしたので、天皇は御軍を率いて九州に上陸し、高天山(震岳)に行宮を営まれた。熊津彦は土蜘蛛の津頬(つちぐものつつら)とともに兵を進めて夜中に天皇を襲った。天皇が行宮にて諸神にお祈りを捧げると彦岳から霊光が発せられ、高天山は大いに振動して、木は倒れ大岩が転がり賊徒はたちまち敗走して天皇が大勝を収めになった。そして、天皇はこの神恩に感謝して彦岳三所に神宮を造立され、一方、高天山には「八神殿」をお祀りになったと伝えられている。
彦嶽宮の下宮は彦岳の麓にあり、市道から始まる石段の両脇には樹齢数100年は越えるであろう大木がそびえ、その奥には約200年前に再建された楼門がある。そこをくぐり抜けると開けた境内の奥に寛文11年(1671年)に再建された本殿があって、安全を祈願すると、さあ登山の始まりだ。
麓の下宮から頂上の上宮へは、徒歩で登る参道としての登山道と車道の二つがある。登山道は本殿の横から伸びた頂上付近までほぼ一直線状の未舗装路だ。登り口付近の地盤は比較的に柔らかく、その昔、多くの山伏や参詣者の踏圧によって次第に掘り込みが深くなっていったのであろう。溝状に切り立った登山道の両面には、橙色の粘土とともに雑多な大きさの角礫が混ざった不均一な未固結の土砂が観察される。地質屋は、それらが山腹の崖崩れや地すべりによってもたらされたものと推定し、緩い斜面でありながらも土砂災害のリスクのある山なのだろうと思索しながら足を進めることになる。実際、彦岳では昨年の7月豪雨で規模の大きい土砂災害が発生して頂上へ至る車道は一時期通行不能となっていたようなのだ。
登山口から数分が経過し、心拍数が少し上昇したかなと感じた頃、脚はしっかりと硬い岩盤を踏み始めている。そして、その岩には無数の細かい縞模様があり、一部はその模様に沿って剥がれやすいことに気がつく。「結晶片岩(けっしょうへんがん)」だ。2億年前、地下深部の高温・高圧の条件下で砂岩や泥岩の堆積岩が変化したものだ。彦岳の山体の根っこの部分はこの「結晶片岩」が広がっているのだ。さらに歩を進めると、登山道は勢い傾斜を増し、露出している岩の雰囲気の変化に気がつくことができる。「変はんれい岩」のゾーンに入ったのだ。ゴツゴツとした硬い岩肌が登山道に連続して露わになって、場所によっては規則的な縦横の亀裂が走っている。まるで地層の積み重なりでできたような水平に近い縞模様となった細かい無数の亀裂もある。断層の一部かもしれない。いずれにしろ、これらは「変はんれい岩」に違いなく、つまり、今、私は3〜5億年前の海洋プレートの真っ只中に立っているのだ。
6合目付近の中宮付近では思った以上の険しさに驚くが、そこを過ぎるとやがて傾斜は落ち着きを見せる。周りから岩が姿を消す反面、足元の土が赤みを増す。この原因は、「変はんれい岩」の鉄分を含んだ鉱物が、分解・酸化によって微細な水酸化鉄鉱物(サビ)に変化したからだ。硬い岩盤も数万年という長い年月を経ると、地表面から数mは風化によって土砂化して、崖崩れの厄介な原因物質になる。数万年後には、この山頂付近のなだらか斜面も、そして植生も、今とは全く違うものになっているはずだ。
頂上には展望台が開けている。眼下の山鹿市街地のほか、遠望すると金峰山や有明海も見える。左手には次に登る震岳(ゆるぎだけ)が間近にある。踵を返し上宮の拝殿の前に立って手を合わせる。
「震岳に登って参ります、お守りください!」
つづく。
参考文献
彦嶽宮リーフレット
彦嶽宮webサイト 『https://hikotakegu.localinfo.jp/』
嶋田芳人 編集 『ふるさと山鹿』山鹿市老連、町おこし運動推進協議会 昭和62年12月
3.〜彦岳〜
彦岳には古い歴史を持つ彦嶽宮がある。上宮・中宮・下宮の三社を一つの神宮として創建され、語り継がれきた由緒は以下のようになっている。
第十二代景行天皇の時代のこと、日向の国の熊津彦が謀反を起こしたので、天皇は御軍を率いて九州に上陸し、高天山(震岳)に行宮を営まれた。熊津彦は土蜘蛛の津頬(つちぐものつつら)とともに兵を進めて夜中に天皇を襲った。天皇が行宮にて諸神にお祈りを捧げると彦岳から霊光が発せられ、高天山は大いに振動して、木は倒れ大岩が転がり賊徒はたちまち敗走して天皇が大勝を収めになった。そして、天皇はこの神恩に感謝して彦岳三所に神宮を造立され、一方、高天山には「八神殿」をお祀りになったと伝えられている。
彦嶽宮の下宮は彦岳の麓にあり、市道から始まる石段の両脇には樹齢数100年は越えるであろう大木がそびえ、その奥には約200年前に再建された楼門がある。そこをくぐり抜けると開けた境内の奥に寛文11年(1671年)に再建された本殿があって、安全を祈願すると、さあ登山の始まりだ。
麓の下宮から頂上の上宮へは、徒歩で登る参道としての登山道と車道の二つがある。登山道は本殿の横から伸びた頂上付近までほぼ一直線状の未舗装路だ。登り口付近の地盤は比較的に柔らかく、その昔、多くの山伏や参詣者の踏圧によって次第に掘り込みが深くなっていったのであろう。溝状に切り立った登山道の両面には、橙色の粘土とともに雑多な大きさの角礫が混ざった不均一な未固結の土砂が観察される。地質屋は、それらが山腹の崖崩れや地すべりによってもたらされたものと推定し、緩い斜面でありながらも土砂災害のリスクのある山なのだろうと思索しながら足を進めることになる。実際、彦岳では昨年の7月豪雨で規模の大きい土砂災害が発生して頂上へ至る車道は一時期通行不能となっていたようなのだ。
登山口から数分が経過し、心拍数が少し上昇したかなと感じた頃、脚はしっかりと硬い岩盤を踏み始めている。そして、その岩には無数の細かい縞模様があり、一部はその模様に沿って剥がれやすいことに気がつく。「結晶片岩(けっしょうへんがん)」だ。2億年前、地下深部の高温・高圧の条件下で砂岩や泥岩の堆積岩が変化したものだ。彦岳の山体の根っこの部分はこの「結晶片岩」が広がっているのだ。さらに歩を進めると、登山道は勢い傾斜を増し、露出している岩の雰囲気の変化に気がつくことができる。「変はんれい岩」のゾーンに入ったのだ。ゴツゴツとした硬い岩肌が登山道に連続して露わになって、場所によっては規則的な縦横の亀裂が走っている。まるで地層の積み重なりでできたような水平に近い縞模様となった細かい無数の亀裂もある。断層の一部かもしれない。いずれにしろ、これらは「変はんれい岩」に違いなく、つまり、今、私は3〜5億年前の海洋プレートの真っ只中に立っているのだ。
6合目付近の中宮付近では思った以上の険しさに驚くが、そこを過ぎるとやがて傾斜は落ち着きを見せる。周りから岩が姿を消す反面、足元の土が赤みを増す。この原因は、「変はんれい岩」の鉄分を含んだ鉱物が、分解・酸化によって微細な水酸化鉄鉱物(サビ)に変化したからだ。硬い岩盤も数万年という長い年月を経ると、地表面から数mは風化によって土砂化して、崖崩れの厄介な原因物質になる。数万年後には、この山頂付近のなだらか斜面も、そして植生も、今とは全く違うものになっているはずだ。
頂上には展望台が開けている。眼下の山鹿市街地のほか、遠望すると金峰山や有明海も見える。左手には次に登る震岳(ゆるぎだけ)が間近にある。踵を返し上宮の拝殿の前に立って手を合わせる。
「震岳に登って参ります、お守りください!」
つづく。
参考文献
彦嶽宮リーフレット
彦嶽宮webサイト 『https://hikotakegu.localinfo.jp/』
嶋田芳人 編集 『ふるさと山鹿』山鹿市老連、町おこし運動推進協議会 昭和62年12月
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