選挙期間中、事務所には多くの同級生、先輩、後輩が来てくれた。また、職務上、出入りが難しいとされる同窓生の姿も多く見られた。本当に頭が下がる思いだった。東京から応援に駆けつけてくれた松永君を始め、中本君、松さんには勇気付けれた。足を運んでもらっただけの同窓生にも感謝しなければならない。
人にはいろんな事情が有るのは十分承知している。そして、選挙事務所という所は、一般の人から見えれば一種独特の雰囲気を持っており、敷居が高く感じられるということも理解している。さらに、そこに出向いてボランティアをするとなると、それは一層の壁として捉えられることも分かっているつもりだ。
大袈裟かもしれないが、事務所に来た人々はその敷居を跨ぎ、壁を乗り越えた勇者というふうに思っている。心から感謝と敬意を表したい。
だからと言って、事務所に来れなかった人を責めるつもりは毛頭ない。三原候補は民自党所属だ。民自党と相入れない考え方の人々がいることも十分承知している。OB訪問でも、ごく稀ではあるが叱りや怒りの言葉を頂戴することがある。露骨に嫌な顔をされることもある。選挙活動を知られた後、蔑視されたことを肌で感じたこともある。また、不用意に政治の話をして友人関係を悪化させたこともある。このような時は、ただ悲しくなるだけだ。
そういう意味において、選挙あるいは政治活動は必ずしもいい面ばかりではない。感情面の物差しで計ると、実際はマイナスなのかもしない。多くの人はそれを理解しているから、選挙活動に二の足を踏むのではないのだろうか。それは僕とて同じだ。
しかし、幸か不幸か、いや、敢えて幸だと判断するのだが、我々の前に日本の政治を託するに相応しい人物が現れたのだ。
それが、「三原みのる」だ。
三原を応援しはじめた2005年以降についてはいろんな機会で本人と接する機会があり、人目の無い同級生だけの集まりのときには「ミハラ」と呼捨てにしている。
このドキュメントを記録するに当たって、人間「ミハラ」を避けて通る訳にはいかない。あるとき友人から、お前は同級生という理由だけで三原を応援するのかと率直に聞かれたことがある。このような質問に対し「同級生という理由だけで十分ではないか」という返答も良いだろう。
しかし、応援を始めた当時、僕はそれ以上の理由を上手く説明することができず、その友人に軽率なヤツだと見られてしまった。
以下、僕のミハラについて記録しておこうと思う。
僕にとって、ミハラの登場は青天の霹靂だった。2005年の初夏ではなかったかと思う。夕方のローカルニュースで、ミハラが民自党の第一選挙区の候補者に公募で選ばれたということを初めて知り、大変な驚きを憶えたのだった。僕にとってのミハラの思い出と言えば、隣の部室にいた背が高く女にモテそうなイケスカンヤツだったので、その驚きはなおさらのことだった。その後、同級生の間でもミハラのことは大変な話題となった。
それから間もなく、同級生の飲み会の席にミハラが重倉県議と共に現れた。重倉県議は黄城高の先輩なのだが、それまで政治に無縁であった我々の前に突然現れ高圧的に支援を頼んできたことに、内心、腹が立ったのを覚えている。もう少し若かったら、県議のネクタイを引っ張り頭をテーブルに叩きつけてやったかもしれない。若い頃、高圧的でお喋りの年配者は大嫌いだった。しかし、目にとまったネクタイの柄が黄色地にピカチュウだったので、うっかりそのネクタイを褒めてしまい、逆にそのネクタイをプレゼントされるというお粗末さだった。
県議に引き回されての短い時間だったということもあるが、卒業後の初めての再会は最悪だった。
次にミハラと会ったのもやはり同級生との飲み会の席だった。その席でミハラは少し浮いていたように思う。当然と言えば当然だ。飲み会に集まった同級生は地元に根を下ろして生活をしている連中だ。一方、ミハラといえば、W大学を卒業後、国民航空に就職しパイロット候補にも選ばれた経歴の持ち主で、あたかも落下傘でこの街に降りた立ったようなものだった。当然、ミハラには不安があった。また、ミハラについての情報が少ない我々も、どのように接したらいいのか戸惑いがあった。
続く、、、
人にはいろんな事情が有るのは十分承知している。そして、選挙事務所という所は、一般の人から見えれば一種独特の雰囲気を持っており、敷居が高く感じられるということも理解している。さらに、そこに出向いてボランティアをするとなると、それは一層の壁として捉えられることも分かっているつもりだ。
大袈裟かもしれないが、事務所に来た人々はその敷居を跨ぎ、壁を乗り越えた勇者というふうに思っている。心から感謝と敬意を表したい。
だからと言って、事務所に来れなかった人を責めるつもりは毛頭ない。三原候補は民自党所属だ。民自党と相入れない考え方の人々がいることも十分承知している。OB訪問でも、ごく稀ではあるが叱りや怒りの言葉を頂戴することがある。露骨に嫌な顔をされることもある。選挙活動を知られた後、蔑視されたことを肌で感じたこともある。また、不用意に政治の話をして友人関係を悪化させたこともある。このような時は、ただ悲しくなるだけだ。
そういう意味において、選挙あるいは政治活動は必ずしもいい面ばかりではない。感情面の物差しで計ると、実際はマイナスなのかもしない。多くの人はそれを理解しているから、選挙活動に二の足を踏むのではないのだろうか。それは僕とて同じだ。
しかし、幸か不幸か、いや、敢えて幸だと判断するのだが、我々の前に日本の政治を託するに相応しい人物が現れたのだ。
それが、「三原みのる」だ。
三原を応援しはじめた2005年以降についてはいろんな機会で本人と接する機会があり、人目の無い同級生だけの集まりのときには「ミハラ」と呼捨てにしている。
このドキュメントを記録するに当たって、人間「ミハラ」を避けて通る訳にはいかない。あるとき友人から、お前は同級生という理由だけで三原を応援するのかと率直に聞かれたことがある。このような質問に対し「同級生という理由だけで十分ではないか」という返答も良いだろう。
しかし、応援を始めた当時、僕はそれ以上の理由を上手く説明することができず、その友人に軽率なヤツだと見られてしまった。
以下、僕のミハラについて記録しておこうと思う。
僕にとって、ミハラの登場は青天の霹靂だった。2005年の初夏ではなかったかと思う。夕方のローカルニュースで、ミハラが民自党の第一選挙区の候補者に公募で選ばれたということを初めて知り、大変な驚きを憶えたのだった。僕にとってのミハラの思い出と言えば、隣の部室にいた背が高く女にモテそうなイケスカンヤツだったので、その驚きはなおさらのことだった。その後、同級生の間でもミハラのことは大変な話題となった。
それから間もなく、同級生の飲み会の席にミハラが重倉県議と共に現れた。重倉県議は黄城高の先輩なのだが、それまで政治に無縁であった我々の前に突然現れ高圧的に支援を頼んできたことに、内心、腹が立ったのを覚えている。もう少し若かったら、県議のネクタイを引っ張り頭をテーブルに叩きつけてやったかもしれない。若い頃、高圧的でお喋りの年配者は大嫌いだった。しかし、目にとまったネクタイの柄が黄色地にピカチュウだったので、うっかりそのネクタイを褒めてしまい、逆にそのネクタイをプレゼントされるというお粗末さだった。
県議に引き回されての短い時間だったということもあるが、卒業後の初めての再会は最悪だった。
次にミハラと会ったのもやはり同級生との飲み会の席だった。その席でミハラは少し浮いていたように思う。当然と言えば当然だ。飲み会に集まった同級生は地元に根を下ろして生活をしている連中だ。一方、ミハラといえば、W大学を卒業後、国民航空に就職しパイロット候補にも選ばれた経歴の持ち主で、あたかも落下傘でこの街に降りた立ったようなものだった。当然、ミハラには不安があった。また、ミハラについての情報が少ない我々も、どのように接したらいいのか戸惑いがあった。
続く、、、
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