【景行天皇の真意と国内統一】
景行天皇は、この山鹿・菊池の地で多くの血が流されていたことは十分知っていたはずです。
『古事記』における高天原の神々をヤマト王権の前身とする北部九州の豪族と仮定し、安本美典氏が主張するように『魏志』「倭人伝」の邪馬台国を北部九州、福岡県の筑前町や朝倉市を中心としたクニあるいは連合国とすれば、当時、邪馬台国の南にあって邪馬台国と対立した狗奴国というクニは、熊本であったことになります。また『魏志』「倭人伝」には狗奴国には狗古智卑狗(ククチヒク)という役人がいたことになっています。そして、狗古智(ククチ)は菊池の語源とされています。
つまり、ヤマト王権にとって、かつての山鹿・菊池地域は、仇敵の本拠地だったことになるのです。その後、ヤマト王権の前身勢力である神武天皇が軍勢を率いて国の統一を図るための東征を開始する頃には、狗奴国は彼らの配下にあったかもしれません。
いずれにしろ、北部九州の勢力と山鹿・菊池勢力の間では血で血を洗う争いがあったものと推察されます。
そして、景行天皇は、その戦いに敗れし者、犠牲になった全ての人々を、神聖な人々、つまり八神として故郷に酷似した三輪山に倣って、震岳の頂きに祀られたのだと思います。
熊本には景行天皇の九州巡幸時の伝承や地名の説話が多く残っています。そして、多くの神社では神と崇められ、ゆかりの地では今なお尊崇を受けて語りつがれています。それがなぜかと問われれば、緊張した国際政治状況のなかにあって、未だ盤石とはいえない王権に不安を抱えつつ一部の敵対勢力との厳しい戦いの最中、これまで国の統一のために協力してくれた地元の土豪への感謝や無念の死を遂げた者達への哀悼の意を込めた、まさに巡幸と呼ぶにふさわしい行脚だったからなのだと答えるほかありません。
そして国の統一において、例え敵対勢力であったとしても義を尽くして死した者に対し、哀悼の念を持ち続ける思想こそが各地で尊崇を受けた最大の理由で、それこそがヤマトにおいて国の統一を果たした本当の理由だと思います。
しかしながら、国の統一という大事業を精神論だけで成し遂げるとは到底考えられません。そこには用意周到な戦略があったはずです。
景行天皇は、この山鹿・菊池の地で多くの血が流されていたことは十分知っていたはずです。
『古事記』における高天原の神々をヤマト王権の前身とする北部九州の豪族と仮定し、安本美典氏が主張するように『魏志』「倭人伝」の邪馬台国を北部九州、福岡県の筑前町や朝倉市を中心としたクニあるいは連合国とすれば、当時、邪馬台国の南にあって邪馬台国と対立した狗奴国というクニは、熊本であったことになります。また『魏志』「倭人伝」には狗奴国には狗古智卑狗(ククチヒク)という役人がいたことになっています。そして、狗古智(ククチ)は菊池の語源とされています。
つまり、ヤマト王権にとって、かつての山鹿・菊池地域は、仇敵の本拠地だったことになるのです。その後、ヤマト王権の前身勢力である神武天皇が軍勢を率いて国の統一を図るための東征を開始する頃には、狗奴国は彼らの配下にあったかもしれません。
いずれにしろ、北部九州の勢力と山鹿・菊池勢力の間では血で血を洗う争いがあったものと推察されます。
そして、景行天皇は、その戦いに敗れし者、犠牲になった全ての人々を、神聖な人々、つまり八神として故郷に酷似した三輪山に倣って、震岳の頂きに祀られたのだと思います。
熊本には景行天皇の九州巡幸時の伝承や地名の説話が多く残っています。そして、多くの神社では神と崇められ、ゆかりの地では今なお尊崇を受けて語りつがれています。それがなぜかと問われれば、緊張した国際政治状況のなかにあって、未だ盤石とはいえない王権に不安を抱えつつ一部の敵対勢力との厳しい戦いの最中、これまで国の統一のために協力してくれた地元の土豪への感謝や無念の死を遂げた者達への哀悼の意を込めた、まさに巡幸と呼ぶにふさわしい行脚だったからなのだと答えるほかありません。
そして国の統一において、例え敵対勢力であったとしても義を尽くして死した者に対し、哀悼の念を持ち続ける思想こそが各地で尊崇を受けた最大の理由で、それこそがヤマトにおいて国の統一を果たした本当の理由だと思います。
しかしながら、国の統一という大事業を精神論だけで成し遂げるとは到底考えられません。そこには用意周到な戦略があったはずです。
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