1969/04/09に生まれて

1969年4月9日に生まれた人間の記録簿。例えば・・・・

ボクがボクになったのは

2007-03-28 21:23:03 | 雑談の記録
ボクは頑張っている人を見ると応援せずにはいられなくなることがる。
ボクは人に「これお願い」って頼まれると断れないことが多い。
ビョーキから回復して間もなくのことだけど,高橋歩君の本にも書いてあったように思うけど,幸せってのは,人の幸せや喜びを願って行動しているときに,その人の幸せや喜びが自分に感染したようにして,心の中に自然に湧き上がるナントも言えないヨロコビの感情なのじゃないかなって思ったのだ。
以来,ボクは,そういう幸せに感染したくって,いろんな人の応援をしているのかもしれない。
だけど,それは,ボクの内面の深いところにある暗闇の裏返しであるのかもしれない。

現在ボクが勤めている会社は,親方日の丸個人商店的零細株式会社なんだけど,この会社に顧問的に雇われていた技術士のTKTさんが4月をもって退職することになった。
そのTKTさんって人は,以前,スーパー大手調査会社の本社管理部長を勤めていて人柄・技術的にも大変優れた方で,2年ほど前に前職を退かれて郷里の熊本に戻り,上熊本で事務所を開かれたワケだけど,いろんな縁があって,昨年,非常勤という形で弊社に雇われるようになったのだ。弊社としては,「建設コンサルタント」登録のため,技術士の有資格者が必要であったことや技術的サポートを期待していたのが事実なのだ。ただ,TKTさんは,雇用契約当初より,お世話になる期間は我々の誰かが技術士資格を取得するまでの1,2年と期限を決められていたようなのだ。
しかし残念ながら,社員(実はボク)の資格取得を待たずして,今回の決断を下したと,そういうことなんだ。
そして今日,会社の実質的ボスの専務から聞いた,TKTさんのボクに関するコメントなんだけど・・・・。
コメント1
「合格する資質は十分あるのにもったいない。もっと真面目に取り組んで欲しい(怒)」
コメント2
「hiratakuwa君には,どうしても入れ込めない壁のようなものがある。親子関係にナニかあるのでは(謎)」
コメント1・2,鋭いコメントだと思った。
専務からは,楽天の野村監督が選手達に言った「グランドには金が落ちている」って話しを引き合いに出され,つまり,ガッツが足りないのだって諭されたのだ。

ボクの記録をずっと読んでる人は知っていると思うけど,ボクと実父母の間には埋められない深い溝がある。っていうか,ボクはその溝を埋める気もないし,そこに橋を架けるつもりもない。ムリだからだ。

物心ついた頃,実父は既に大学で医学部の助教授をやっていて,ボクが小学校に上がる頃には,かなり若い年齢で教授という職に就いていた。退職して今は何をやっているかといと,某新聞社の医療アドバイザー,某財団法人の理事,某大規模病院の雇われ院長,その他イロイロ。
実母は,某大規模病院で薬剤師として勤めるかたわら,自殺マニュアル本に引用されるような毒物中毒に関する書籍を出版し,薬局部長として退職した後は,薬剤卸売会社に席を置いて地元の女性薬剤師会の会長や県の審議員を務めたりしている。そして親族の殆どは,医療・教職関係,大手企業職員だったりする。

ボクはそんな実父母の間に生まれた3人姉弟の姉と妹に挟まれた第2子だ。
姉は体は小さかったが男気が強く頭のキレも良くって口も達者で,ボクはいつも姉にやりこめられていた。ビョーキでニッチモサッチの行かないときに「あなたは甘い!」って追い打ちを掛ける内容の手紙を寄越したほどの非情者だ。妹は,学業・運動とも優秀で,ボクは小学校のマラソン大会で1つ年下の妹に負けてしまったという苦い経験がある。一浪して受けたセンター試験の点数も妹の点数とは3桁違った。
そんな姉と妹に挟まれたボクは,実父母に「どうしてオマエだけは・・・」って具合に育てられた。
物心ついて,父と遊んだ記憶は3回。だけど,それも楽しい思い出ではなかった。

ボクは小学校5年のとき,警察に補導されたことがある。電子ライターを分解し発火部分をゲーム機にあててクレジットを狂わせて無銭ゲームに興じていたところを現行犯で捕らえられたのだ(逃げ遅れたってことなんだけど)。
そのことは,スグに家と学校へ連絡がいった。
日頃から何かと実父には暴力を振るわれ,学校の先生が心配するほどのキズを負うこともあったけど,補導された晩はホントに酷くて,殺されるかと思った。
学校へ行くと,先生達の態度が一変していた。

補導のあと,ボクは好きでもないサッカー部に入部させられた。

ある日,サッカー部の部費が無くなるという事件が起きた。

集金された部費が入った袋の近くに最後に立っていたのはボクだってことだった。
当事者の子供と保護者が会議室に集まって何度か話し合いがあった。
そして,ボクは実母と一緒に職員室で頭を下げることになった。
以来,ボクは用件以外で実母と話すのをヤメにした。

中学校は管理教育が花盛りだった。細かいことで,イチイチよく殴られていた。だけど,家で殴られ慣れていたから,ウソつき教師の体罰なんて屁でもなかった。
その頃,家庭では実父母の衝突が絶えなかった。
大人もイロイロあるんだろうと思って,止める気にもならなかったし,とばっちりを喰らうのは御免だった。
だけど,その頃までは,まだ実父に対して愛情があったし,愛されたいという思いがあった。いつの日か,一人前の男として実父と話せる日が来るんだと考えていた。

だから,高校受験のときは頑張った。内申が悪かったから,志望校の合格は難しいだろうと評されていたけど,ギリギリセーフだった。

合格した晩,実父は「オレはいなくてもいいだろう」と言って家を出ていった。ボクは果てしなく寂しかった。その日のことを思い出すとボクは今でも涙がこぼれる。
親族の一部からは実父母の不仲を取り持つ努力が足りないって声が聞こえてきた。そんな連中にはバカヤローって言う他なかった。

高校では友人に恵まれた。彼らには,ボクの心の闇を覆い尽くすエネルギーと光りに満ち溢れていた。毎日が楽しかった。
だけど,一人になると,ボクは心の中に育ちつつある負のエネルギーを感じ始めていた。
それは,憎しみだった。いつかオマエラ(実父母)を見返して,ゴキブリのように殺してやるって感情だった。

ボクは幼いころから何故だか石ころが大好きだった。図鑑を見て,石ころにはボクらが想像もつかないような長い歴史があることを知って驚きを感じたし,いろんな石ころを見て,想像もつかないはずなんだけど長い地球の歴史を感じるのが好きだった。
そしてボクは,大学進学を考え始めた予備校時代,資源探査の仕事に就けたらなぁってそんなことを思っていた。そして当時好きだったマンガに「傷追い人」ってのがあって,その物語には,恋人を奪われた元アメフト選手が,復讐のために金鉱を探すという部分があって,恥ずかしい話しだけど,ボクはそれを見て「これだ!」と決めたのだった。

大学の3年までは,浪人の時に少しだけ付き合ってた?10歳年上の女性の影響で,借金で買ったハチロクなんかに乗ってクルマに明け暮れいていた。だけど,4年生からは負のエネルギーを完全燃焼すべく,金鉱床の研究に真剣に取り組み始めた。

カミさんとは大学1年生のときに再会した。
実は,カミさんは小学校のときの同級生なのだ。カミさんのお父さんは自衛官で,小学校6年のとき,カミさんは北海道へ転校することになった。別れを悲しむ感情が好きだといことを意味するかどうかわかんなかったけど,当時,ボクはそんな気持ちをカミさんに電話で伝えたのを憶えている。そして,お互い異なる青春時代を経て,二十歳を過ぎてから再会したのだった。
ただ,再会するまでの10年間くらいは年に1・2度の挨拶程度の文通をしていた。なんで,文通なんてしていたかというと,ボクの知らない北の果ての地に,ボクのことを知ってる人がいるってことが,なんだかとっても嬉しかったからだ。
再会して,ボクとカミさんはスグに恋いに落ちた。カミさんは熊本で,住み込みで養護施設で福祉員として働いていたけど,ボクが大学院に進学するときにカミさんは仕事を辞めて福岡の専門学校へ通うことになった。
ボクは仕送りはもらっていたけど,学生結婚をすると無条件で学費が免除になるという利便性の高い制度を知って,学生だったけど思い切って結婚を決意した。
当然,両家や周囲からの反対はあった。意に介さなかった。だけど,結婚した年から制度が変更になって,学費免除の恩恵にあずかることができず,親の収入に頼らなくちゃいけないことが恥ずかしかった。
そして決定的なことが起こった。
カミさんが妊娠してしまったのだ。
ボクは激しく悩んだ。
カミさんの愛に包まれたいたその頃のボクは,負のエネルギーは消えかけていて,さらなる進学を考え研究者を目指していた。研究室の先生もそれを望んでいたようだった。
だけど,これ以上,親の世話になるのはイヤだったし,子供ができたことで周囲からイロイロ囁かれるのもイヤだった。褒め言葉だったかもしれないけど,「hiratakuwa君は,会社勤めは無理だよ」というある先生の言葉が,ボクの負のエネルギーに火を灯した。
世界一のガリンペイロになってやる!。
大学院2年の9月,長女ユーが生まれた。
カミさんは,昼間に学校に行かなくちゃいけないから,その間はボクが面倒を見て,夜から大学へ行って朝まで研究をやって家に帰ってくるっていう生活が半年続いた。学会の発表で海外へ出掛け名を売った。そして,就職は,民間の探査地質屋としてその年は一人だけという狭き門を突破することができた。
仕事に没頭した。鉱山にはならなかったけど,新聞を賑わす程度の金鉱床の発見はあったし,たけしの万物創世記ってTV番組にも紹介されたことがあった。大学の先生は,退官されるまでボクの研究資料を大事にとっていてくれた。
だけど,ボクは疲れたみたいだった。調査出張は年間100日を越え,横浜から丸の内への通勤約2時間もなんだかこたえてた。ビッグシティは刺激が多く,好奇心も満足させたけど,狭い空や向こうに誰が立っているのかわからないような広いフロアは,ボクには似合わなかった。リストラも凄かった。
そして気付いたら病院で鬱病って診断された。

1999年の夏,ボクはカミさんと娘二人と熊本に戻った。カミさんのハラの中には3番目の子供がいた。
しばらくは実家に身を寄せていたけど,ボクの症状は悪化の一途で,家族とは別居することになった。
9月末,男の子が生まれた。だけど,その子の誕生をボクは喜べなかった。むしろ,重荷に感じたほどだった。

自殺未遂をして病院に運ばれ,薬物中毒の酩酊状態の中で,ボクは精神科の先生にあることを訴えていたらしい。
「ボクの存在を認めて下さい」って。

ボクはなんて欲深い人間なんだろう。
まるで村上龍の小説に出てくるような親に強いコンプレックスを抱いたボンボンみたいだ。



今は,スゴク元気だ。
幸せになるコツを見つけたからかもしれない。
だけど,実父母とだけは,うまく話すことができない。
今だに,実父母を殴る夢で目が覚めることがある。
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