第九合唱団のテノールとしては(生意気)、やはり第九の日本初の公開演奏について知っておくべきだと思い調べました。以下、毎日新聞社『一億人の昭和史11昭和への道程-大正』より。
「大正3年(1914年)第一次世界大戦が始まった。日本も連合国の一員としてこれに参戦し、当時ドイツの租借地であった中国の膠州湾の青島を攻撃。わずか77日間で日本の勝利に終わった。そのうち3900人の捕虜が内地に送られてきた。そのうち四国の三か所(松山、徳島、丸亀)にいた953人は大正6年から9年の初めまでの約3年間鳴門市大麻町桧(当時の板野郡板東町檜)の板東俘虜収容所で過ごした。」
↑捕虜って鎖に繋がれて連行、ってイメージがあるんですがまるで修学旅行生みたいです。
↑お風呂。狭そう!でも表情は明るいですね。何、この友好感?でも日本人が捕虜に優しくてうれしいっす。
↑これがパウル・エンゲル少尉の楽団。
↑ 坂東俘虜製作品展覧会(1918年3月8日から12日間)でのエンゲル楽団。
「町の若者や撫養(むや)、徳島からハイカラ男女がやってきだした。そして「エンゲル音楽教室」が生まれた。
大正8年(1919年)、楽団は徳島市和田町の新富座(※)でお別れコンサートを開いた。そのときの演奏曲目が第九交響曲で、日本で初の第九公開演奏といわれる。」(↓ 追記参照のこと)
↑楽団員と地元の子どもたち(最後の2枚の写真は「別冊歴史読本19」新人物往来社より)
いい話!第九が日本とドイツの友好の橋渡しになったんですね。さすがベト様~
※新富座は昭和11年に焼失してしまったそうです。残念!
(追記)
朔風社『日本初の第9交響曲』岩間芳樹原作/直野祥子作画によると、日本初の第九演奏は大正8年ではなく、大正7年6月1日(土)にトクシマ・オーケストラと、板東俘虜合唱団80名により演奏され、その後も帰国までの数年間で何度か演奏されたとあります。
↑ このマンガ、泣けます~
このドイツ人はパウル・エンゲルさんです。
一見自由にみえた捕虜たちも、やっぱり辛かったんですね。