リブロポート『MUSIC TODAY』誌17号(1992年)にイタリアの作曲家、ルチアーノ・ベリオ(Luciano Berio, 1925-2003)のインタビュー記事がありました。ベリオは何度目かの来日です(インタビューアは有名な哲学者の篠原資明氏)。
篠原 これから歌舞伎をごらんになるそうですが、歌舞伎は初めてですか。
ベリオ いいえ(笑)、とても興味があるんです。言葉がわかりませんから、いろいろ聴きおとしてしまうことはあるかも知れませんが。
篠原 西洋にオペラが誕生したころ、日本にも歌舞伎が生まれたというのは、とても興味深いことだと思っています。そして広い意味での劇ということでは、日本の能も西洋の劇とはずいぶんちがった空間をつかっているんですが......。
ベリオ 歌舞伎の空間はきわめて限定された儀式的なものですね。しかも心理的な誘惑というものをそなえています。その対象というのが舞台の上の黒衣(くろこ)なんです。
黒衣というのは客席から見えているのに、観客は見えていない存在だと考えるのです。たとえば重要な人物が到着すると、黒衣は印籠を出し、花道を通りきると、黒衣はこの人物の背後に隠れてしまう。けれども黒衣というのは神秘化をまぬがれた存在ではないわけで、この見せかたというのは信じられないテクニックだと思います。じつにすみやかで魅力的だし、今日のある種の劇場というものからは考えられないようなものなんですね。歌舞伎座の客席でも、観客がふつう劇場ではしてはいけないことをしているのに驚きます。これも重要なことなんです。舞台の光景を神秘化しないことにしても、幕切れでトク、トク......という音が響くことにしても、歌舞伎の空間でのコーディネーションというのは、魔法のようですね。この幕切れの音というのは、観客をドラマティックな状態のなかに宙吊りにしておいて、つぎの幕に向けて優雅に心づもりをさせる。とても美しいし、詩的だと思います。
篠原 たとえば観客と舞台の境界をあいまいにする仕掛けは、能でも歌舞伎でも共通しているんですね。能の場合は橋掛という一種の通路のようなものが舞台下手を横切っていきますし、歌舞伎では花道があって、まさに観客のただなかを役者が通って出てきます。そのような装置は、観客に対して開かれた空間をもたざるをえないので、西洋的な劇場空間とはかなりちがってくると思うのですが......。
ベリオ 私は能のことはじつはよく知らないのですが、歌舞伎で花道を通る役者に観客が手を伸ばしたりするのとは対照的に、一般的に言って、ヨーロッパの劇場というのは、十八世紀の初頭から今日まで、非民主的で、貴族的な態度をとりつづけてきたんです。観客は舞台から隔てられ、観客同士でも階層があって、国王のための席、金持ちの威厳を保てるような席がある一方で、貧しい人々は階上へ昇らされる。ところが歌舞伎では、観客にとって開かれた、均質的な空間があるわけなんです。このことは大きな違いだと思いますね。
。。。ベリオさん、かなりの歌舞伎通だったんですね。うれしくなります。