チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

ジョン・ケージ京都賞受賞のため来日(1989)

2014-06-19 00:15:49 | 来日した作曲家

ジョン・ケージ(John Cage, 1912-1992)が第5回京都賞の受賞のために来日し、授章式と記念講演会が1989年11月10日から12日にかけて国立京都国際会館で開催されたということです。



下記は音楽芸術1990年1月号の記事(船山隆氏による)からです。



↑周りの日本の男性が洋装なのに、ケージだけが紋付羽織ってのが実にヨイ。(ビートたけし風?)



受賞記念の夕食会においても、すべて洋食だったのに、菜食主義者のケージだけは和食で、ケージの席のまわりは松茸の香りがただよっていたそうです。ケージも日本を好いていてくれたんですね。

ケージの記念講演会で一番大事な部分として船山氏が挙げているのはこれ↓です。

「私たちはいま時代の移り変わりに生きています。多くの人々は、音楽がどのように使われるのか、また私たちに何が出来るのかということについて、考えを変えようとしているのです。音楽は人間のようにはしゃべりませんし、辞書に出てくる定義や、学校で習う理論などが教えてくれるわけでもありませんが、それが振動であることを通して、私たちにとても簡明に語りかけてきます。この揺れ動く状態に注意を払うということは、固定した理想的なパフォーマンス等というものにとらわれないで、そのときどきに注意深く、いま起こっていることがどうなっているのかということに耳を傾けることなのです。その状態は、二度と同じである必要はありません。音楽は聴衆を、本来的な瞬間に運んでくれるのです。」

。。。なんとなくわかったようなわからないような?いま、この瞬間に集中しろということでしょうか。

日本で演奏するケージ(1983, 『美術手帖』1994年12月号)


雑誌『テアトロ』と帝国劇場芸術祭(1946)

2014-06-18 20:54:25 | 音楽の本

総合演劇雑誌『テアトロ』の再刊第1号の表紙です。デザインがハイカラ。



裏表紙には帝国劇場の「芸術祭」の宣伝がありました。

高名な人ばっかりです。


ソプラノ 山口淑子(1920- 2014、李香蘭(りこうらん)として有名※↓写真)

ピアノ 安川加壽子(1922-1996、パリ育ち)

ヴァイオリン 諏訪根自子(1920-2012、美貌の天才少女)

ピアノ 井口基成(1908-1983、ピアノ教育者としても有名)



1946年10月って終戦からまだ1年しか経っていないです。すごいスピードの復興ぶりがうかがわれます。音楽は当時の人々に大きな勇気を与えたことでしょうね。

 

↓帝国劇場(明治44年築)

 

※李香蘭(『報道写真にみる昭和の40年』読売新聞社)


バーンスタイン来日中止で急遽日本に来たマルタ・アルゲリッチ(1978)

2014-06-15 22:37:22 | 来日した演奏家

1978年のニューヨーク・フィルの来日にバーンスタインが同行できなくなり、代役でラインスドルフが日本にやって来たことはちょっと前にこのブログにも載せたんですが、そのときマルタ・アルゲリッチもバーンスタインの穴埋めをするために来ていたんですね。(※↓日程)

1978年7月5日、アルゲリッチは普門館でプロコフィエフの協奏曲第3番を弾いたそうですが、その日、そのコンサートのあとで三善清達氏(音楽評論家で元東京音大学長、昨年亡くなった作曲家三善晃氏の兄)、音楽評論家の野村光一氏(1895-1988)、そしてピアニストの伊藤京子氏はアルゲリッチとホテルオークラで食事をしています。(出典:音楽の友1978年10月号。「アルヘリッチ」と表記されています)

↑左からアルゲリッチ、野村氏、三善氏、おそらくアルゲリッチのお母さん(同席されたと思われる伊藤氏のお母さんではないふうに思いっきり見えます)


↑右はピアニストの伊藤京子氏。この会の開催はアルゲリッチと懇意の伊藤さんが発端ということです

記事の中から面白そうな話をピックアップします。

1.演奏後ほとんどしゃべらなかったアルへリッチも食事が始まる頃になるとすごく調子が出てきた。「お酒はあまりいらない」とは言ったが、つがれた白ワインを少し飲み、肉をペーストにしたような料理を「美味しい、美味しい」と食べ、お母さんの皿から「それ欲しい」と少し分捕ったりして、まるで屈託のない普通のお嬢さんだ。



2.アルへリッチが「最近ショパンは一番より二番が好きになってきた」というので野村さんが「それなら今度来る時はその二番を弾いてくださいよ」というと「オーケー」と答えて大きくうなづく。



3.アルヘリッチが「さっき弾いたプロコフィエフは、ロマンティックなのかクラシックなのか、私は今はクラシックとしてとらえているけれど......」と切り出すと、待っていましたとばかり野村さん。「貴方は正しい。そしてそのプロコフィエフの三番こそ、彼が日本に来た時一部のヒントを得たんだ。私は彼に会って話をききましたよ」といい出すと、あどけない顔で「本当?何処で?」と聞く。こうなるとアルヘリッチといえども十九世紀生れの野村さんにかなわない。甘える調子になる。「本当とも」と野村さん、すこぶる御満悦だ。とうとう野村さんは確か前回来日したときに「音楽の友」の表紙になっていた彼女の写真を取り出してサインを貰うことになる。「よくとれて美しい」と野村さんは御機嫌だが、彼女のほうは首をすくめてイタズラっぽい顔になる。確かこの写真、彼女の御機嫌の好くない時で、撮るのに大分苦労したとかきいたことがあるような気がするが、かえって鋭さが出ている。


(↑ 音楽の友1976年8月号。撮影・竹原伸治。アルゲリッチがサインしているのはこの表紙自体でない。もしかしたら関係者だけが貰える写真とか?)


4.(終電で野村氏が帰ったので【なんともったいない!】三善氏が伊藤氏とそのお母さんと一緒にアルゲリッチを)帝国ホテルまで送っていった。車の中でもアルヘリッチは上機嫌で、美しく魅力的な目で夜の東京を眺めていた。(中略)(三善氏は)「お休み」と手を握った【くぬゆる~】。柔らかい、力を抜いた自然の手だった。この手が、ピアノ演奏の世界を変えた手、音楽の魅を迸らせ、リストやプロコフィエフに新しい生命を与えたその手だ......。


→野村光一さんも三善清達さんも当時37歳のツンデレ・アルゲリッチに魅了されまくってるご様子!このあとに続く文章を読むと特に三善さんはメロメロです。アルゲリッチと食事して握手できるなんてうらやましい~

(ところでこのとき、南米から来て日本で落ち合ったというアルゲリッチのお母さんは一緒に帝国ホテルに帰ってきたのか?レストランにおき忘れてないか心配。どうでもいいですけど。)

 

※1978年アルゲリッチ日本公演日程(ラインスドルフ指揮NYP、プロコフィエフ協奏曲第3番)

6月26日(月)19:00 大阪フェスティバルホール

6月28日(水)19:00 名古屋市民会館

7月 3日(月)19:00 東京 普門館

7月 5日(水)19:00 東京 普門館


親日家、ルチアーノ・ベリオ~歌舞伎とオペラの違い

2014-06-14 23:47:50 | 来日した作曲家

リブロポート『MUSIC TODAY』誌17号(1992年)にイタリアの作曲家、ルチアーノ・ベリオ(Luciano Berio, 1925-2003)のインタビュー記事がありました。ベリオは何度目かの来日です(インタビューアは有名な哲学者の篠原資明氏)。

篠原 これから歌舞伎をごらんになるそうですが、歌舞伎は初めてですか。

ベリオ いいえ(笑)、とても興味があるんです。言葉がわかりませんから、いろいろ聴きおとしてしまうことはあるかも知れませんが。

篠原 西洋にオペラが誕生したころ、日本にも歌舞伎が生まれたというのは、とても興味深いことだと思っています。そして広い意味での劇ということでは、日本の能も西洋の劇とはずいぶんちがった空間をつかっているんですが......。

ベリオ 歌舞伎の空間はきわめて限定された儀式的なものですね。しかも心理的な誘惑というものをそなえています。その対象というのが舞台の上の黒衣(くろこ)なんです。
 黒衣というのは客席から見えているのに、観客は見えていない存在だと考えるのです。たとえば重要な人物が到着すると、黒衣は印籠を出し、花道を通りきると、黒衣はこの人物の背後に隠れてしまう。けれども黒衣というのは神秘化をまぬがれた存在ではないわけで、この見せかたというのは信じられないテクニックだと思います。じつにすみやかで魅力的だし、今日のある種の劇場というものからは考えられないようなものなんですね。歌舞伎座の客席でも、観客がふつう劇場ではしてはいけないことをしているのに驚きます。これも重要なことなんです。舞台の光景を神秘化しないことにしても、幕切れでトク、トク......という音が響くことにしても、歌舞伎の空間でのコーディネーションというのは、魔法のようですね。この幕切れの音というのは、観客をドラマティックな状態のなかに宙吊りにしておいて、つぎの幕に向けて優雅に心づもりをさせる。とても美しいし、詩的だと思います。

篠原 たとえば観客と舞台の境界をあいまいにする仕掛けは、能でも歌舞伎でも共通しているんですね。能の場合は橋掛という一種の通路のようなものが舞台下手を横切っていきますし、歌舞伎では花道があって、まさに観客のただなかを役者が通って出てきます。そのような装置は、観客に対して開かれた空間をもたざるをえないので、西洋的な劇場空間とはかなりちがってくると思うのですが......。

ベリオ 私は能のことはじつはよく知らないのですが、歌舞伎で花道を通る役者に観客が手を伸ばしたりするのとは対照的に、一般的に言って、ヨーロッパの劇場というのは、十八世紀の初頭から今日まで、非民主的で、貴族的な態度をとりつづけてきたんです。観客は舞台から隔てられ、観客同士でも階層があって、国王のための席、金持ちの威厳を保てるような席がある一方で、貧しい人々は階上へ昇らされる。ところが歌舞伎では、観客にとって開かれた、均質的な空間があるわけなんです。このことは大きな違いだと思いますね。


。。。ベリオさん、かなりの歌舞伎通だったんですね。うれしくなります。


ヘレン・トローベル(Helen Traubel)とレイモン・ガロワ=モンブラン(Raymond Gallois-Montbrun)来日 1952年

2014-06-13 23:25:30 | 来日した演奏家

1952年には日本との友好関係に寄与した2人のアーティストが来日しています。

 

1.アメリカの有名なワーグナー歌手ヘレン・トローベル(1899-1972)。ピアノはコンラード・V・ボス(Coenraad Valentijn Bos, 1875–1955)。

↑衣刀政章氏撮影。帝国劇場。

 

↑吉川秀二氏撮影。リサイタル第二夜 日比谷公会堂にて。

彼女はバラ作りの名人でもあったそうです。(←これ誤りのため訂正:米国のバラ作りの名手として世界的に有名だった「スウィフト博士」がトローベルの歌を聴いて感激し、丹精したバラに彼女の名前をつけて1952年度世界バラ大会に出品したところ優勝したということでした。『レコード芸術』創刊第2号より。すみませんでした~) いまや「ヘレン・トローベル」はバラの名前として有名です。日米友好の証のバラ!

 

2.レイモン・ガロワ=モンブラン(1918-1994)、フランスのヴァイオリニスト&作曲家。

大竹省二氏撮影。1952年来日時の写真です。(もっときれいな場所で撮ってあげればいいのに)

Wikipediaによると、翌1953年にも再び来日しており、しかも1954年には「日本交響曲Symphonie japonaise」を作曲しています。

日本のことを気に入ってくださりありがとうございます!

追記:この交響曲は1954年に皇太子殿下(いまの天皇陛下)に献呈されたそうです。