モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

終戦直後、逓信省で電信事業の復興を目指す(その2)

2018年05月17日 | 寄稿・戦時のモールス通信
◆逓信省電務課に勤務して(その2)

赤羽 弘道

当時(昭和23年)、総務局統計課ではGHQの指令で、逓信事業の事業別収支分計を行っていた。電信事業についても収支が計算されていたが、私はこの資料を分析して、電報の原価計算をすることを思い立ち、係長の了承を得て作業に取りかかった。参考にしたものは、市販の図書の他、物価統制令に基づく製造工業原価計算要綱、かつて満州電信電話会社が行った原価計算報告書等である。電報の原価計算は、一口にいえば工程別総合原価計算の方法である。つまり電報の原価を、受付、通信、配達の3工程に区分して1通当たりの作業原価、通信については文字1字当たりの伝送原価を算出するのである。これを組み合わせると、発信・中継・着信別や、各種の電報種類毎の原価が算出される。

この原価計算から分かったことは、電報は距離による原価の差は小さいこと、また、通信文の調査による原価の差も小さいこと、現在の基本料が安く累加料が高いこと(10字まで30円、以上5字ごとに10円)、電報料の30%の値上げが必要であることなどである。この資料は当時としては初めてのもので、電報料金制度の改正に当って、その後参考にされていった。

当時、特定郵便局における電信電話事業の定員配置の適正化を図るため、その実態調査が行われた。取扱の総数と、1件当たりの作業時間をストップウォッチで調査するのである。数名のグループで調査に当たったが、新米のわれわれは、近いところや辺鄙なところに出張させられた。はじめは埼玉県の岩槻郵便局へ、次は千葉県房総半島の山の中の久留米の郵便へ出かけた。久留米では郵便局長さんの世話で、村に一軒という旅籠に泊まった。出張には配給の米を持参したが、夕食のおかずは生卵と山芋であった。すり下ろして皿に盛った腰の強い山芋を箸で千切って醤油をつけて食べたが、実に美味であった。

福井県の日本海に面した西浦賀の郵便局へ行ったときのこと、大雪に降りこめられバスの不通となった峠道を歩いて越した。3日間滞在したが、日本海のエビ、イカなどを飽きるほど食べた。

昭和24年(1949)6月、逓信省は郵政省と電気通信省に分割され、私は電気通信省業務局運用部電信課勤務となった。なお、このとき国鉄公社と専売公社が発足し、国際電信電話株式会社KDDが分離した。

アメリカの電信電話会社は民営であり、わが国の将来の電信電話事業の発展を見越した組織の一大改革であった。それまで電務局と公務局との2局で管理していた電信電話事業は電気通信大臣(佐藤栄作)の下に電気通信監理官がおかれ、電務局の仕事は新たにできた業務局に引き継がれた。業務局には計画部・営業部・運用部・周知調査部の4部がおかれた。私は運用部で電信課の勤務になった。新電信課長は市川荒次郎氏が着任した。

新しい電信課は約30名で、業務・服務・回線・無線・考査の5係がおかれた。私の勤務した考査係の係長は渡辺立樹氏で、もと満州電信電話株式会社の参事で大連電信局長を務めた大陸的な豪傑で、若者の面倒見がよく、こよなく酒を愛した。私は考査係の次席だった。

新しい陣容で電気通信省は活動を始めた。皆、溌剌として仕事に取り組んだ。運用部は、電話と電信の運営管理に当った。電信については、電信課が電報の受付・通信・配達の運営管理を担当した。

電信課・考査係の仕事は、電報の品質管理、つまり電報のスピードアップと、誤字の防止,不達事故のゼロを図ることであった。このため、それぞれの管理目標値を定め、実績を把握し、成果の測定をすることにした。それまではばらばらであった各種の統計調査の体系をまとめ、1本の統計事務処理要領を制定した。また、従来のチェックシステムを内部監査と位置づけ、管理のあり方の監査と、電報の作業の監査を一つにまとめて、監査事務処理要領を制定した。

管理監査は、全国各地の大局は本省から、その他の局は通信局が現地に出かけ調査した。調査で把握した良好事項は全国に推奨し、改善事項は即刻改善を図った。

電報の誤びゅうを防止するため、労働学園大学(天澤教授他〉に委託して、電報の誤びゅう原因についての労働科学的面からのメスをいれる調査が行われた。昭和25年当時、電報之誤びゅう率は1万字当たり54字にのぼっていた。

昭和25年7月、経理局統計課の主催する原価制度研究会(一橋大、番場教授指導)のメンバーに加えられ参加した。

昭和25年4月、電気通信省は麻布飯倉から虎ノ門へ移転した。もと大蔵省印刷工場の跡で、バラック建の建物の中に3階建のビルがあり、電信課はその2階に入った。目の前にアメリカ大使館があった。(つづく)

◆出典:赤羽弘道氏「記憶の残像~つつましく傘寿を生きる~」(平成20年11月出版・小倉編集工房)
・著者の経歴:大正12年(1923)~平成29年(享年93歳)、長野県生れ、名古屋逓信講習所普通科昭和14年卒

3 コメント

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お元気ですか (nakao)
2018-05-21 19:34:25
ブログ楽しく読ませていた抱いています。お元気の様子、何よりです。
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Unknown (nakao 様)
2018-05-22 08:10:43
コメント有難うございました。
貴兄のご指導で本ブログを始め、いつも感謝しています。現在90本の投稿記事に成長、100本を当面の目標に眼力保持に努めています。貴兄の「毎日が日曜日、でも多忙です」は、ちょくちょく楽しみながら拝見しています。懐かしい熊本の震災からの復興がリアルタイムにわかります。
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Unknown (nakao)
2018-05-22 10:13:26
ブログをゆっくりと読み直していると、「電信競技会の2」に、『昭和29年・和文タイプ二人組電話、和文印刷貼付受信、電報配達、和文中継交換印刷さん孔』追加されたとあります。その年、東京中電で開かれた競技会の「和文タイプ二人組電話」に九州代表として参加し、銀メダルをいただいたことを思い出しました。ありがとうございました。
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