モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

無線電信局の開局(その1)

2018年02月20日 | 寄稿・モールス無線通信
◆1)九州の無線電信局開局

わが国最初の無線電信局海岸局は銚子無線局で、明治41年5月16日であった。

それより1か月半遅れの明治41年7月、九州の大瀬崎無線電信局が開局した。大瀬崎無線電信局は長崎から96キロメートル、五島列島中の福江島の最南端、海抜272メートルの断崖の上にあった海軍望楼無線電信所が逓信省に移管されて開局されたもので、長崎県南浦郡玉之浦郷字大瀬崎に所在した、局長は通信属石村五作であった。

開局時の局舎は、木造瓦葺平屋で番舎(33坪7合5勺)、電信室(8坪)、発電機室(4坪5合)の3棟からなっており、海軍省で架設したものを引き継いだものであった。

明治44年1月に局舎建替えがなされたが、大崎無線電信局国有財産台帳には次のように記録されている。

「旧局舎は海軍省より架設したものを引継ぎしものにして、極めて粗雑なる掘立小屋、四面間隙を生じ降雨の場合細雨侵入はなはだしく、しばしば機械に障害をかもし、かつ狭あいなるため執務上不都合ひとかたならず、かつまた板葺なりしをもって降雨暴風の際は雑音を生じ閑静を要する無線通信に障害ありし」とある。

取扱業務は対船舶通信で、本邦西南海上との通信に備えたもので、最初に設置を予定計画された陸上無線電信局(海岸局)の一つであり、開局当時の設備はつぎのとおりである。

1.送信装置  3馬力石油発動機 1台
        7KW直流発電機
        水銀断続器
2.受信装置  36年式無線電信受信印字機
3.空中線   凧型 162尺(49メートル)
4.使用電波長 320メートルおよび600メートル
5.呼出符合  JOS
6.有線回線  福江―玉之浦に接続 モールス印字機使用

注)海軍望楼とは、明治27年6月30日勅令によって、海軍が海上部隊作戦の補助機関として海上の見張と通信を行なうため、わが国沿岸に設置されたるもので、陸上無線電信はまずこの海軍望楼で試用された。
  ※設置は、明治31年、長崎県戦争遺跡・遺構 による。
大瀬崎海軍望楼は、明治38年5月27日、日本海海戦を大勝利に導いたところの哨艦信濃丸が発信した「敵艦見ゆ」の電波をキャッチしたところであるとも伝えられている。

2)大瀬崎ー台湾間の無線連絡、陸地間無線通信のはじめ

明治45年6月、内地と台湾間の海底線が不通になったとき、大瀬崎(長崎)-富貴角(台湾)両無線局間の臨時連絡によって電報をそ通することにした。これがわが国における陸地間の電信利用のはじまりである。

もともと無線電信は、海上の船舶と陸地との間、または船舶相互間の通信機関として、はじめは海上移動業務として利用された。その後、無線技術が進歩発達するにつれて、海上通信に限らず陸地相互間にも有線電信の代用または、補助として、あるいは海底線の敷設されていない島との連絡に、次第に利用されるようになった。

当初の電報の取扱いは、至急官報に限られた(注)。これは当時両局間無線連絡は中波の減幅電波で夜間に限りおこなわれ、その上に空電・混信のため通信は深夜にとどまり、通信量が限られていたためである。
(注)大正12年から和文至急報もそ通するように改正。


内台間の海上は、トロール漁船による障害または波浪その他の障害に原因して、海底線が不通となる場合が少なくなかったので、無線電信の利用がたびたびおこなわれた。このようにして、有線が不通になった時の救済措置として、無線の特色を発揮するようになった。

大正4年には大瀬崎無線局とラサ島、青島無線局が、大正12年には開局した那覇無線局、南大東島無線取扱所などとの無線連絡をおこなうようになった。

 ◆出典 九州の電信電話百年史 日本電信電話公社 九州電気通信局編集 昭和46年10月 〔電気通信共済会九州支部発行〕

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