モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

わが心の故郷(ふるさと)“JOS”

2018年01月17日 | 寄稿・モールス無線通信

わが心の故郷(ふるさと)“JOS”

◆村上健太郎

日本本土の主要都市のほとんどが空襲や被害のためにその機能が失われ、そして戦局は終えんへの方向を模索していた頃、昭和20年3月末長崎無線電信局勤務の辞令を受けた私は、東京から郷里の熊本を経由して、長崎無線局所在地の諫早市へ向った。

諫早駅に降りると、小高い丘に無線のシンボルの鉄塔や木柱が天高く多数そびえて見えた。新任務に対する意欲も一段と高揚した。

戦時下の市街は静寂なたたずまいで、重苦しい雰囲気が感じられた。

無線のポールを目当にして山手へ上って局舎に辿り着く。前坂局長に着任のあいさつを述べた。すると「召集令状が来たとの連絡を受けております。すぐ自宅へお帰りください」とのこと、一瞬愕然とした。先々月に徴兵検査を受けたばかりであり、しかも「第三乙種」という最低のランクであったので、こんなに早く来るものが来るとは全く予期していなかった。

自炊覚悟で生活用具を荷って到着したばかりのところ、直ちにユーターンしなければならないとは、と運命の非情を恨んだ。入隊して前線に出れば、再び勤務することは出来なくなるかもしれないと思うと、重い荷物はさらに心の負担を加えた。

4月5日には熊本の師団通信隊に入営した。職場の方ではその日付けで「文官分限令により休職」となっていたのである。

沖縄の地は既に米軍に占領されており、部隊は護南兵団を編成し、鹿児島県へ出発した。

南薩一帯を転々とし、4か月後には終戦となった。北薩の大口市に集結し、ここで臨時憲兵を命ぜられた。そして列車で大分駅に着き、市内の少年飛行兵學校に入った。体術等の訓練を受けていたところ、9月18日になって復員解除となった。これでやっと解放されたと生きている喜びをひしひしと感じた。

自宅へ帰り落ち着く間もなく、原局の無線電信局へ赴いた。5か月ぶりに再び諫早駅に降り立つと、すぐそばの海軍病院には原爆で負傷した人達が収容されており、街を歩く米兵の姿も見られた。戦後の様相は変わりつつあり、街も落ち着きをとり戻し平和への一歩を踏み出しているようだった。

再度の初出勤のあいさつをしたところ、局長は異動で後任の平林喜一郎氏に代わっていた。

いよいよ官舎での独身生活がはじまった。

付近は一面の畑で民家や商店は全く見当たらない。当日の食糧等を調達するところも判らずに困っているとき、庶務主事の片岡さんが八ちゃん(甘藷)と薪を持ってこられたので大助かりであった。戦後日浅く、食べ物や日用品は不足しており厳しい生活であった。しかしながら、日常の官舎の生活は家族的な暖かいお付き合いをさせて頂き、とても楽しい日々であった。

ラジオも持たない私達独身者は、ラジオを持っておられる家族官舎にお邪魔して「希望音楽会」等を家族のみなさんと一緒に楽しんだ。

局舎と官舎は同一構内にあったので、職場も生活も家庭的な親睦感で結ばれていた。庶務担当の人が官舎へ回覧版を届けたり,魚類等の配給のおりには局舎の玄関でチリンチリンと鐘の合図が鳴り、容器を持って官舎から集まった。このような出会いも、みんなのコミュニケーションの場であった。

休みの日は、構内のデッキゴルフの施設で円盤型のゴルフに興じた。名人クラスに扇山善蔵さんがおられ、この方に指導していただいたことも忘れられない思い出である。無線の山を下りて諫早市内の映画館に入ったり、またバスで日見トンネルを経由して長崎市内へ出かけた。当時は原爆落下後2か月余で、市内一円は焦土化して褐色のむき出しであった。

残留放射線はあったと思われるが、市街地には進入禁止の措置もないので、自由に市内を往来した。危険意識は全くなく、今思えば無謀であった。最近、原爆認定の対象になったが、申請するような異常は感じられない。

郊外の小野地区に飛行場があり、米軍が駐留していた。ここの強制作業に官舎から当番で出かけたこともあった。米軍との接触にも馴れてきて結構面白かった。

無線局のオペレーターは定員16名で、当時17名いた。こじんまりとしてまとまりもよく、職場の雰囲気はとても良かった。

新米の私には、よく指導頂き楽しい日々であった。海上は浮流機雷が多く、安全通信(TTT)や遭難通信(SOS)の交信があり緊張した。特に復員船との通信は頻繁で興安丸・徳寿丸・-氷川丸・有馬丸等の船名が浮かんでくる。復員兵が多くなるに伴い、これらの船の数では間に合わず、その後は米軍の上陸用船艇が多数使用されるようになった。

外国船との交信で相手のコールサインを忘れ、シップネームで処理してもらう等のミスを発生させ迷惑をかけたこともあった。今思えばよく首がつながったものと恐縮の至りである。

そのうちに復員で出局してくる人や転勤で着任する方が増えてきた。官舎の数が不足してきたために、家族官舎に独身者が複数入り、家族持ちは狭い独身官舎を使用することになった。独身者達ばかりの同居生活も和氣あいあいとして愉快な交遊であった。

無線局の所在地は「輪内名(わうちみょう)」の名称であり、春には櫻花の拡がりを期待していたが、翌年の2月21日に熊本への転任命令があった。これは全国の陸線が戦災で打撃を被っていたので、これをバックアップするため主要局に「国内無線」が新設されたことに伴うものだった。この機会に多くの人が全国へ移動していった。

こうしてJOSでの在籍は、1年足らずで終り、実働の在勤は5か月間に過ぎなかった。短期間の生活ではあったが、充実していて数年間にも相当する密度の高いものであった。

有能な、レベルの高い方々に恵まれて仕事に対する情熱の高まりを覚え、素晴らしい人間関係の日々の生活は、貴重な人生体験であった。私には忘れられない心の故郷である。公私ともにお世話になった皆様方に感謝しながら去り難い気持ちでJOSに別れを告げた。
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熊本にはJOS会というクラブがある。長崎無線に勤務したことのある退職者の集まりである。JOSを出た後のコースは電電、郵政、電波、航空等バラエティにとんでおり、懐かしい方々との語らいは楽しい思い出が一杯で話題も尽きない。
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◆寄稿者紹介
・村上健太郎 大正15年生れ 熊本県 
 熊本逓信講習所普通科 昭和15年12月卒
・出 典 九州逓友同窓会誌・相親 1999年4・5月号、6・7月号

【付記】私ごとですが、私自身かつて九州電気通信局の同一職場にて、村上先輩には大変ご指導いただきました。今回、本ブログ掲載をお願いするため数十年ぶりに、記録していた住居に電話をしました。うまく連絡がつくか、一抹の不安があったのですが、なんと電話に出られたのはご本人でした。ご高齢にもかかわらず、昔と少しも変わることなく快活、お元気なご様子で、久闊を叙し、遠い昔のことに花を咲かせました。ブログ掲載についても、快諾いただきました。(増田)


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