モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

無線電信局の開局(その2)

2018年02月24日 | 寄稿・モールス無線通信
◆敵艦見ゆ!から無線電信実用化へ

日露戦争終結後の明治39年11月、ベルリンにおいて第1回国際無線電信会議が開催された。この会議には、わが国からも全権委員として逓信省電気試験所長浅野応輔博士ほか4名が参加、国際無線電信条約に調印した。かくして41年5月16日、銚子無線電信局と天洋丸無線局が誕生し、無線電信による公衆通信の取扱創始とともに、わが国の無線電信もいよいよ実用化への第一歩をふみだした。

無線電信は、明治28年(1899)、イタリアのグリエルモ・マルコニーが、英仏海峡32浬をへだてて実験をしたのが最初である。当時は無線電信の研究成果については、各国とも互いに秘密にしていたがわが国においても明治29年10月、逓信省内に無線電信研究所を設置、その研究に着手していた。そして早くも翌30年12月には、月島の海岸に置いた送信装置から、約12キロメートルをへだてた品川沖の第5台場に装置した受信機に感受するまでに成功した。

一方、このころから海軍においても軍艦に無線電信を採用しようという機運があり、眼をつけられたのが逓信省の研究であった。当時軍令部の参謀であった海軍少佐外波内臓吉が、浅野研究所長に援助を求めた結果、同研究所電信係・松代松之助主任技師ほか数名が、海軍の無線研究に従事することとなった。この松代技師らの海軍における研究は、やがて日露戦争の日本海大海戦に威力を発揮したのである。

すなわち、明治38年5月27日、夜明けの海にバルチック艦隊を発見した哨艦・信濃丸は、「敵艦見ゆ」の警報第1信を打電した。次いで午前6時21分、東郷司令長官は大本営に対し海戦第1報を打電したのである。

「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動之ヲ撃沈滅セントス本日天気晴朗ナレ共波高シ」

のちに東郷元帥をして「日本海海戦の戦捷の原因は信濃丸の無線電信である。」とまで絶賛せしめたことは、あまりにも有名である。この海軍の無線電信の基礎を築いたものが、実に逓信省の技術陣であった。


さて逓信省の研究実験は更に続けられ、明治33年4月、津田沼―上総八幡間の海上約19キロメートル、同年7月には船橋―相模大津間約63キロメートルと距離をのばし、いずれも実験に成功した。次いで36年12月14日、いよいよ内地―台湾間約1.200キロメートルの夜間通信を実験、これも通信に成功した。そしてこの区間の昼間試験の成功をめざして改良・研究を重ねたのであるが、日露の風雲がいよいよ急を告げるに至り、軍通信への混信妨害などの問題もあって、この実験は中止のやむなきに至った。

この内地―台湾間の試験通信基地建設工事は、約1年の日時をついやした大工事であったばかりでなく、その間暴風季節に当り、折からの台風のため、せっかく建設した空中線が九州、台湾いずれもほとんど崩壊という試練にもあっているのである。こうした苦心の結果、39年の国際無線電信条約調印、41年の銚子・天洋丸両無線電信局誕生へと発展していった。

◆出典
続東京中央電報局沿革史 東京中央電報局編 発行電気通信協会(昭和45年10月)

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