◆逓信省電務課に勤務して
赤羽 弘道
終戦の翌年、昭和21年1月8日に学徒動員で渡っていた中国から復員、郷里に帰った。休養もそこそこに1月下旬、荒廃した東京中央電信局に勤務。6月、東村山の高等逓信講習所に転勤となり、厚生課で1年半勤務。昭和23年2月、逓信省電務局電信課に転勤命令を受けた。
逓信省は大手町にあったが、戦災で焼け出され、麻布飯倉の貯金局のビルに入っていた。5階建てで、戦災を免れていた。道を隔ててソビエット大使館があり、その先の坂を下りた所は以前に下宿していた森元町で、ここも見事に焼けていた。逓信省の東は芝公園、西は六本木へと続いていた。まだテレビ塔はなく、六本木は寂しい住宅街であった。本省ビルの前を信濃町から飯倉三丁目行きの都電が走っていて、これで通勤した。
★★★★
当時の逓信省は、郵務局・電務局・工務局・資材部・建築部等からなり、貯金局と簡易保険局は外局となっていた。電務局には、電信課・電話課・外信課・庶務課の4課があり、電信課には業務・局所・回線・服務・教養・無線・調査の7係があった。私が配属されたのは調査係で、3階の事務室の一番奥にあった。
電信課長は山下武氏、課付事務官は米田新吉郎氏であり、課員は50名を越える大世帯で、職場は緊張感に包まれていた。調査係には桂仁係長の下に私を含む6人の逓信事務官と、男女4人の事務員がいた。
戦災により全国の電信局の52%と電信回線75%を失い、壊滅状態であった電信事業の復興は、日本復興のために喫緊の急務であった。そしてこの電信事業の復興は、自分達がやるのだという使命感に皆が燃えていた。
当時のわが国の電信事業は、連合軍総司令部民間通信局(GHQ、CCS)の管理下におかれていた。GHQは、日比谷交差点の近くにある第一生命保険会社ビルを接収して入っていた。CCSにはアメリカ電信会社や電話会社出身の専門家が将校として勤務していて、メモランダムという形で次々と司令を出していた。その一つにチェックシステムというものがあった。これはチェック表に基づいて、現場の事業運営全般をチェックし、問題点を明らかにするとともに、予算を重点的に注ぎ込んで改善を進めるものであった。当時としては非常に有効な方法で、業務係を中心に、各係が協力して推進していた。
調査係は、その名のように各種統計調査と事業運営に関する基本的な調査を行っていた。その一つに、GHQの指令に基づく電報の所要時間調査があった。これは、アメリカの電信会社が連邦通信法に基づいて行っているものと同じで、昭和22年6月から四半期ごとに、全国の主要局200局を調査し、電報の受付から配達までの所要時間を調査した。所用時間は、主要局相互間の所要時間と全国平均時間を算出していた。
終戦直後の混乱時代に比べると、かなり改善されてきてはいたが、それでも受付から配達まで1通当たり平均10時間近い時間がかかっていて、至急電報と普通電報の時間の差は小さいという数字が算出されていた。
2回目の調査では、至急電報の方が長くかかるという数字が算出された。これをみたCCSのバンザントという担当官から「至急電報を廃止せよ」というメモランダムが山下課長に渡された。さあ、大変である。明治以来の至急電報を廃止するのはどうしたものかと、関係者は頭を悩ました。
たまたま統計学の本を読んでいた私は、これは統計学でいう「平均の欺瞞性」という事象であることに気づいた。個々の区間別にみると、いずれも至急電報のほうが速い。電報は遠距離ほど時間が長くかかる。至急電報は遠距離程多く利用されている。このため総平均を計算すると至急電報のほうが長大な時間が算出されてしまうのである。(数値による具体的証明は割愛―増田)。
この平均の欺瞞性の証明により、至急電報の廃止論は立ち消えとなった。こんなことがあってから、私は統計学に興味を持つようになり、仕事の合間をみて、当時、渋谷に合った文部省の統計数理研究所に通い、標準偏差、分散分析、検定、標本調査法などを勉強した。
調査係は事務室の一番奥にいたので、午後5時になると書類立ての陰で茶碗酒を酌み交わした。当時、進駐軍放出のトミモールという安ウィスキーが手に入ったが、レッテルにメチルアルコール0.05ミリグラム含有と書かれていた。当時、闇市でメチルアルコールの入った酒を飲んで失明した者がおびただしい数に上っていた。
この時期、GHQの指令で職業軍人の公職からの追放が行われ、その資格審査のため総務局に適格審査室が設けられていた。私は陸軍少尉であったが予備役のため対象外であった。
当時、電話事情は極めて悪かったので、電信課の分室として電信室が設けられ、地方の逓信局電信課との間に直通のモールス通信回線が設けられていた。ここに約10名ほどのオペレーターがいた。中に福岡電信局からの砥板保君が転勤してきたが暫くの間、国立の寮で私と同居した。
◆寄稿者紹介
・出典:赤羽弘道氏「記憶の残像~つつましく傘寿を生きる~」(平成20年11月出版・小倉編集工房)
・著者の経歴:大正12年(1923)~平成29年(享年93歳)、長野県生れ、名古屋逓信講習所普通科昭和14年卒<詳しくは、2016-4-15日「電信の思い出(その1)」の寄稿者紹介参照>
【付記】著者赤羽様のご逝去は奥様からお知せいただいた。本ブログには、これまで上記出典の著書から数多くの電信関係記事を紹介させていただいた。この著書は、赤羽さんの下で若い頃勤務された親友の高田光雄氏(埼玉県在住)にお貸しいただいていたものでした。
はからずも今年の1月、奥様から同書を贈呈いただき、折に触れ繰り返し読ませていただきながら、電信の神様と呼ばれた著者の電信に注いだ情熱に感銘を新たにしているところです。
赤羽 弘道
終戦の翌年、昭和21年1月8日に学徒動員で渡っていた中国から復員、郷里に帰った。休養もそこそこに1月下旬、荒廃した東京中央電信局に勤務。6月、東村山の高等逓信講習所に転勤となり、厚生課で1年半勤務。昭和23年2月、逓信省電務局電信課に転勤命令を受けた。
逓信省は大手町にあったが、戦災で焼け出され、麻布飯倉の貯金局のビルに入っていた。5階建てで、戦災を免れていた。道を隔ててソビエット大使館があり、その先の坂を下りた所は以前に下宿していた森元町で、ここも見事に焼けていた。逓信省の東は芝公園、西は六本木へと続いていた。まだテレビ塔はなく、六本木は寂しい住宅街であった。本省ビルの前を信濃町から飯倉三丁目行きの都電が走っていて、これで通勤した。
★★★★
当時の逓信省は、郵務局・電務局・工務局・資材部・建築部等からなり、貯金局と簡易保険局は外局となっていた。電務局には、電信課・電話課・外信課・庶務課の4課があり、電信課には業務・局所・回線・服務・教養・無線・調査の7係があった。私が配属されたのは調査係で、3階の事務室の一番奥にあった。
電信課長は山下武氏、課付事務官は米田新吉郎氏であり、課員は50名を越える大世帯で、職場は緊張感に包まれていた。調査係には桂仁係長の下に私を含む6人の逓信事務官と、男女4人の事務員がいた。
戦災により全国の電信局の52%と電信回線75%を失い、壊滅状態であった電信事業の復興は、日本復興のために喫緊の急務であった。そしてこの電信事業の復興は、自分達がやるのだという使命感に皆が燃えていた。
当時のわが国の電信事業は、連合軍総司令部民間通信局(GHQ、CCS)の管理下におかれていた。GHQは、日比谷交差点の近くにある第一生命保険会社ビルを接収して入っていた。CCSにはアメリカ電信会社や電話会社出身の専門家が将校として勤務していて、メモランダムという形で次々と司令を出していた。その一つにチェックシステムというものがあった。これはチェック表に基づいて、現場の事業運営全般をチェックし、問題点を明らかにするとともに、予算を重点的に注ぎ込んで改善を進めるものであった。当時としては非常に有効な方法で、業務係を中心に、各係が協力して推進していた。
調査係は、その名のように各種統計調査と事業運営に関する基本的な調査を行っていた。その一つに、GHQの指令に基づく電報の所要時間調査があった。これは、アメリカの電信会社が連邦通信法に基づいて行っているものと同じで、昭和22年6月から四半期ごとに、全国の主要局200局を調査し、電報の受付から配達までの所要時間を調査した。所用時間は、主要局相互間の所要時間と全国平均時間を算出していた。
終戦直後の混乱時代に比べると、かなり改善されてきてはいたが、それでも受付から配達まで1通当たり平均10時間近い時間がかかっていて、至急電報と普通電報の時間の差は小さいという数字が算出されていた。
2回目の調査では、至急電報の方が長くかかるという数字が算出された。これをみたCCSのバンザントという担当官から「至急電報を廃止せよ」というメモランダムが山下課長に渡された。さあ、大変である。明治以来の至急電報を廃止するのはどうしたものかと、関係者は頭を悩ました。
たまたま統計学の本を読んでいた私は、これは統計学でいう「平均の欺瞞性」という事象であることに気づいた。個々の区間別にみると、いずれも至急電報のほうが速い。電報は遠距離ほど時間が長くかかる。至急電報は遠距離程多く利用されている。このため総平均を計算すると至急電報のほうが長大な時間が算出されてしまうのである。(数値による具体的証明は割愛―増田)。
この平均の欺瞞性の証明により、至急電報の廃止論は立ち消えとなった。こんなことがあってから、私は統計学に興味を持つようになり、仕事の合間をみて、当時、渋谷に合った文部省の統計数理研究所に通い、標準偏差、分散分析、検定、標本調査法などを勉強した。
調査係は事務室の一番奥にいたので、午後5時になると書類立ての陰で茶碗酒を酌み交わした。当時、進駐軍放出のトミモールという安ウィスキーが手に入ったが、レッテルにメチルアルコール0.05ミリグラム含有と書かれていた。当時、闇市でメチルアルコールの入った酒を飲んで失明した者がおびただしい数に上っていた。
この時期、GHQの指令で職業軍人の公職からの追放が行われ、その資格審査のため総務局に適格審査室が設けられていた。私は陸軍少尉であったが予備役のため対象外であった。
当時、電話事情は極めて悪かったので、電信課の分室として電信室が設けられ、地方の逓信局電信課との間に直通のモールス通信回線が設けられていた。ここに約10名ほどのオペレーターがいた。中に福岡電信局からの砥板保君が転勤してきたが暫くの間、国立の寮で私と同居した。
◆寄稿者紹介
・出典:赤羽弘道氏「記憶の残像~つつましく傘寿を生きる~」(平成20年11月出版・小倉編集工房)
・著者の経歴:大正12年(1923)~平成29年(享年93歳)、長野県生れ、名古屋逓信講習所普通科昭和14年卒<詳しくは、2016-4-15日「電信の思い出(その1)」の寄稿者紹介参照>
【付記】著者赤羽様のご逝去は奥様からお知せいただいた。本ブログには、これまで上記出典の著書から数多くの電信関係記事を紹介させていただいた。この著書は、赤羽さんの下で若い頃勤務された親友の高田光雄氏(埼玉県在住)にお貸しいただいていたものでした。
はからずも今年の1月、奥様から同書を贈呈いただき、折に触れ繰り返し読ませていただきながら、電信の神様と呼ばれた著者の電信に注いだ情熱に感銘を新たにしているところです。
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