モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

戦争末期の速成モールス通信訓練とその後(その1)

2018年03月30日 | 寄稿・戦時のモールス通信

◆戦争末期の速成モールス通信訓練とその後(その1)
◆宇野 準一

昭和19年2月に熊本逓信講習所(大分分室)を受験し、合格した。
4月初めに講習所のあった大分電報局に行った。電報局の通用門を通って幅90センチの階段を上がると突き当りの左側が電信宿直室、畳20帖程の部屋が熊本逓信講習所大分分室である。生徒数20名男女共学、先生は電信課の事務職の方々で構成されていて、担任は飯倉先生だった。

入所式の日、式が終わるとすぐモールス記号表が配られた。
「今は戦時下で時間がない、本来1年かけてやることを9ヵ月でしなければならない、俺も頑張るからお前たちも必死で取り組め」、そう言って渡された記号の暗記について早くも頭のほうは拒絶反応をしめしている。

だが次の日先生は「ツートントン」、今のは何じゃとくる。もちろん翌日だから記号表は見てもよいことにはなっているが、寸分の油断もできない。ツーとトンの判別もおぼつかないのだ。でも何とかやらないと女性もいることだし恥はかきたくない。目は必死で記号表を追う。先生は容赦なく指名してくる。その日は思い切り恥と汗をかいた。

ときどきニヤッと笑う余裕のある先生の顔が憎い。でもそんなこといっちゃおれん。皆必死だ。必死は不思議な力を生むものである。あんなに拒絶反応を示していた脳も頑張って遅まきながら何とか記号表を見なくても、時間をかければ答えられるようになったのである。そして2日目の午後各自に電鍵が配られた。その電鍵のつまみ方、手の動かし方から教わり、全員で「ツートントントン」と声を出しながら電鍵をたたくことから始まったのである。

3か月後には1分間に30字をたたくことを目標に「手を柔らかく、肩に力をいれず、気持ちを焦らずに」と注意をされながらも徐々に上達していった。隣の電信室から電鍵と音響器の音が一つの流れとなってたえず聞こえてくる中で、文字通り実戦的な訓練が行われたのである。

特に、一緒に入所した長井君は当初から他の人とは違って送信技術は群を抜いていた。手首が柔らかく生まれつき器用さもあって、小刻みに動き送りだされる字のきれいさに、一同羨望の目でいつも見ていたものである。彼は大きな目と笑顔が印象的で誰からも好かれた。その彼が後に長井、松尾組で電信競技会全国大会(2人組)でその名をはせた強者に育ったのである。とにかく3人組用会議机にパイプの椅子、宿直室の畳の上で頑張った9か月であるが、何の悩みもなく楽しいうちに全員卒業したのである。

卒業後は、大分郵便局電信課勤務、月給35円、電信室は電鍵と音響器の音が交差して大きな渦となってあふれていた。宿直室で育った私たちとしてはなじんでいた環境ではあったが、配属されて部屋に入ると不安、恐れ、意気込みなどが入り混じり頭が重く緊張したものである。

最初についた仕事は運信だ。各局から送られてきた電報を取纏め、区分棚で局別に区分けして送信者に配る仕事である。これは新米の私たちにとっては大変な仕事であった。

なにが大変かといえば宛先の局名が何県にあるのか分からない。いい加減にやっていると送信者からどなられる。「何やってんの、学校で地図は習ったか」とくる。そういっても県庁所在地の市くらいなら分かるが、それ以外の市など分らない。モタモタすると間に合わない。

初めのうちは先輩と新米2人がこれに当たるが、先輩殿は大抵黙ってただ座っているだけ、聞くと「分からないか、なら便覧みろや」とくる。新米とはしようのないもので、便覧を引くとこれまた時間がかかる。ある日ウズマサというきょく局名があった。例によって分からないので隣の先輩殿に恐る恐る尋ねると「そりゃバンツマだ」という。思わず「バンツマは何県ですか」と聞いたら、先輩殿は一瞬こりゃたまらんという顔をして「バンツマは俳優だーバンツマさんは京都ウズマサの撮影所で映画を撮っとるよ、しっかりしろや新米さん」ときた。

ちょっと頭にきたが頭とは逆に口が「ありがとさん」と出た。それは軽いノリだった。そのとき思った「イヤミ言われたって、怒られたって、ドジと言われようと先輩とはこれから長いお付き合い、知らぬ私が悪いのさーお給料頂いている身だ,がまん、がまん」と言い聞かせる。その運信も2か月程で慣れてきた。

翌年3月に入ると恐怖と驚きを体験することとなる。それは大分市にアメリカのグラマンが初めて襲ってきた時のことだ。恐らく電信課の歴史は長いだろうが誰も初めての経験だろう。部屋の中一杯に渦巻いていた音の洪水が一瞬止まりすごい静けさ-死んだような静けさー不気味ー主事が緊張しこわばった顔で送信するのは・・・--ー・・・空襲警報だった。続いて「セセクハ」ゆっくりだが確実に全回線に送り出される。※驚き、緊張、恐怖ー耳は相手の名前を確実にと思い体は固くなる。警報用紙に記入された赤い朱色は血の色だった。
   
※「セセクハ」は「・---・ ・---・ ・・・- -・・・」。この符号の意味について、寄稿者をよく知る大分の親友に照会したところ、もう大分にも聞く人もなく、確たることは不明だが、前後の文章の流れから推定し、「一斉警報連絡と受信確認要求の符号だろうと思います。」とのメールをいただいた。(3/31日増田)


相手の名前を警報用紙に記入する頃はもう「退避、退避」と叫ぶ声が聞こえてくる。慌てて階段を駆け降りる頃にはバリバリと機銃掃射の音が響いてくる。

それから大分も防空壕を掘らなければということになった。戦争は必ず勝つことを信じていたが、そのとき日本は敗戦へとその坂道を駆け下っていたのだ。

◆筆者紹介  宇野 準一 大分県
       昭和19年12月 熊本逓信講習所(大分分室)卒     

◆出 典   九州逓友同窓会誌 相親 1994 9・10月号

「付記」本稿掲載にあたり、ご本人に承諾いただくため、大分の親友に調べてもらったところ既に故人となっておられることを知った。ご子息がかつて電電公社に勤められ、退職前の住所なども教えてもらったが移転されたようで、連絡は取れずじまいです。本ブログ訪問者で、宇野さんのご遺族の消息をご存知の方がおられましたら、ご一報いただければ幸いです。

本稿に書かれている長井さんに、私は大分電報勤務時代、通信の技術指導をしていただいた。メリハリの利いた正確な音響の響きは今も耳奥に残っている。親友によれば、電信の神様として名を馳せた氏も、昨年5月、享年88才で逝去されたとのこと。歳月不待人。同期お二人のご冥福を祈ります。(増田)

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