◆電信事業の合理化
33年8月には再び本社の電信課業務係長として勤務。そこでの役職は変わったが7年間、電信事業の企画事務に携わった。その間に取り組んだ最大の仕事は、電信事業の合理化問題であった。
35年1月、合理化の中心課題である電報中継機械化に対処するため、運用局に中林正夫調査役をトップとする対策チームが編成され、私もその一員となっとなった。多くの困難を乗り越え、全面的な完了は昭和40年11月だった。合理化により全国で約4千名の電信事業関係の職員が減員され、多くはデータ通信部門や営業部門等へ配置転換され、新しい職場でその能力を発揮していった。
この間、36年11月、本社幹部会議のメンバーを委員とする電信事業改善会議を設立し、39年9月まで電信事業の現状と改善策が討議され、改善の大綱が決定された。また、39年10月には、電報料金の値上げを含む電信事業の改善と、電話の距離別時間差法という料金体系の導入が急務となり、世論の理解を売るため、部外の識者による調査会を設置した。この会の電信関係の主管は電信課であったので、課長補佐だった私には、調査会書記の辞令が交付され、会議へ提出する資料や議事録の作成を担当した。電信関係の改善が先議され、審議は12月に完了した。電報料金の値上げが実現したのは、漸く昭和47のことであった。
36年2月、本社は虎ノ門から日比谷の9階建ての新築ビルへ移転した。このビルには41年1月人事異動で転出するまで勤務した。
あの時代、課員の皆さんと、よく酒能の席で人生を語り仕事を論じた。酔うほどに「赤羽さんは電信の神様だ」などざれ言をいわれたが、悪い気はしなかった。
・その他(1)教科書と電信電話
電信事業改善策に明けくれた毎日ではあったが、その他の思い出を挙げてみる。
その一つは、電報書法の改善に関する研究のため、義務教育に使用されている教科書を調査した。東京都港区の教科書センター(鞆絵(ともえ)小学校)に赴き、小、中学校で使用している国語・社会・商業の全教科書約260冊に目を通した。そこには電報はカタカナで短く、要領よく書け、という教育が行われていたが、国語の用法からみれば歪んでいるとも見られるものがあり、用語の不適切なもの、すでに制度が廃止になっているもの、明らかに誤りの記述も見うけられた。私はこの調査結果をとりまとめ、「教科書と電信電話」と題して関係者に配布するとともに、広報部を介して文部省に働きかけ、教科書検定官に善処をお願いした。
・その他(2)佐久間象山の電信機
39年4月、長野県松代町の佐久間象山ゆかりの電信実験記念式典へ招待された。松代は佐久間象山が幕末、日本で初めて電信機の実験をした地として知られ、象山神社の境内には立派な記念碑が建っている。
電電公社が当地の松代電話局の構内に象山が電信実験をした鐘楼を再建したのを記念して、松代町が地元の画家高橋雪峰氏に依頼して象山実験の図を描き、これを公社に寄贈して頂いたのである。この計画を推進したのは地元の元松代郵便局長斎藤勲氏と元信越通信局副局長の大野季雄氏であった。私は大野氏を介して、斎藤氏から象山実験の電信機の考証を依頼された。
依頼を受けた私は、幕末伝来の電信機に関する国会図書館所蔵の総てのオランダ文献に目を通した。オランダ語の翻訳は三品武夫君を煩わした。山口県萩の名倫館高校や鹿児島の県立図書館にも足を運んだ。その結果、佐久間象山が習得した電信機に関する知識は、蘭書によるものであるが、年代的にみて、「遠西奇器述」に記載の指字電信機、その原本となったオランダ文献であるまいかという推定に達した。その電信機の図を描いて斎藤氏に届けた。高橋雪峰氏は、それを参考にして百号の大作2枚を完成した。
その贈呈式が昭和39年4月13日、鐘楼前の空地で行われた。約100名の関係者が出席して盛大な贈呈式が行われ、その様子は信越テレビでも放映された。なお、私のこの研究は公社内の部内誌「業務研究」に掲載され、同誌は鐘楼内にも展示されていた。
◆寄稿者紹介
・出典:赤羽弘道氏「記憶の残像~つつましく傘寿を生きる~」(平成20年11月出版・小倉編集工房)
・著者の経歴:大正12年(1923)~平成29年(享年93歳)、長野県生れ、名古屋逓信講習所普通科 昭和14年卒
<詳しい経歴は、2016/4/15日「電信の思い出(その1)」の寄稿者紹介参照>
33年8月には再び本社の電信課業務係長として勤務。そこでの役職は変わったが7年間、電信事業の企画事務に携わった。その間に取り組んだ最大の仕事は、電信事業の合理化問題であった。
35年1月、合理化の中心課題である電報中継機械化に対処するため、運用局に中林正夫調査役をトップとする対策チームが編成され、私もその一員となっとなった。多くの困難を乗り越え、全面的な完了は昭和40年11月だった。合理化により全国で約4千名の電信事業関係の職員が減員され、多くはデータ通信部門や営業部門等へ配置転換され、新しい職場でその能力を発揮していった。
この間、36年11月、本社幹部会議のメンバーを委員とする電信事業改善会議を設立し、39年9月まで電信事業の現状と改善策が討議され、改善の大綱が決定された。また、39年10月には、電報料金の値上げを含む電信事業の改善と、電話の距離別時間差法という料金体系の導入が急務となり、世論の理解を売るため、部外の識者による調査会を設置した。この会の電信関係の主管は電信課であったので、課長補佐だった私には、調査会書記の辞令が交付され、会議へ提出する資料や議事録の作成を担当した。電信関係の改善が先議され、審議は12月に完了した。電報料金の値上げが実現したのは、漸く昭和47のことであった。
36年2月、本社は虎ノ門から日比谷の9階建ての新築ビルへ移転した。このビルには41年1月人事異動で転出するまで勤務した。
あの時代、課員の皆さんと、よく酒能の席で人生を語り仕事を論じた。酔うほどに「赤羽さんは電信の神様だ」などざれ言をいわれたが、悪い気はしなかった。
・その他(1)教科書と電信電話
電信事業改善策に明けくれた毎日ではあったが、その他の思い出を挙げてみる。
その一つは、電報書法の改善に関する研究のため、義務教育に使用されている教科書を調査した。東京都港区の教科書センター(鞆絵(ともえ)小学校)に赴き、小、中学校で使用している国語・社会・商業の全教科書約260冊に目を通した。そこには電報はカタカナで短く、要領よく書け、という教育が行われていたが、国語の用法からみれば歪んでいるとも見られるものがあり、用語の不適切なもの、すでに制度が廃止になっているもの、明らかに誤りの記述も見うけられた。私はこの調査結果をとりまとめ、「教科書と電信電話」と題して関係者に配布するとともに、広報部を介して文部省に働きかけ、教科書検定官に善処をお願いした。
・その他(2)佐久間象山の電信機
39年4月、長野県松代町の佐久間象山ゆかりの電信実験記念式典へ招待された。松代は佐久間象山が幕末、日本で初めて電信機の実験をした地として知られ、象山神社の境内には立派な記念碑が建っている。
電電公社が当地の松代電話局の構内に象山が電信実験をした鐘楼を再建したのを記念して、松代町が地元の画家高橋雪峰氏に依頼して象山実験の図を描き、これを公社に寄贈して頂いたのである。この計画を推進したのは地元の元松代郵便局長斎藤勲氏と元信越通信局副局長の大野季雄氏であった。私は大野氏を介して、斎藤氏から象山実験の電信機の考証を依頼された。
依頼を受けた私は、幕末伝来の電信機に関する国会図書館所蔵の総てのオランダ文献に目を通した。オランダ語の翻訳は三品武夫君を煩わした。山口県萩の名倫館高校や鹿児島の県立図書館にも足を運んだ。その結果、佐久間象山が習得した電信機に関する知識は、蘭書によるものであるが、年代的にみて、「遠西奇器述」に記載の指字電信機、その原本となったオランダ文献であるまいかという推定に達した。その電信機の図を描いて斎藤氏に届けた。高橋雪峰氏は、それを参考にして百号の大作2枚を完成した。
その贈呈式が昭和39年4月13日、鐘楼前の空地で行われた。約100名の関係者が出席して盛大な贈呈式が行われ、その様子は信越テレビでも放映された。なお、私のこの研究は公社内の部内誌「業務研究」に掲載され、同誌は鐘楼内にも展示されていた。
◆寄稿者紹介
・出典:赤羽弘道氏「記憶の残像~つつましく傘寿を生きる~」(平成20年11月出版・小倉編集工房)
・著者の経歴:大正12年(1923)~平成29年(享年93歳)、長野県生れ、名古屋逓信講習所普通科 昭和14年卒
<詳しい経歴は、2016/4/15日「電信の思い出(その1)」の寄稿者紹介参照>
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