・戦艦「大和」の海上特攻出撃と神風特攻隊
4月5日(昭和20)、連合艦隊は沖縄周辺のアメリカ軍艦船に対する海軍航空部隊の特攻作戦である「菊水1号」作戦を4月6日に発動せよと下令するとともに、戦艦「大和」以下の水上艦隊を海上特攻として沖縄への出撃を命じた。それは沖縄の海岸に乗りあげ、大要塞と化してアメリカ軍撃滅にあたろうという計画であった。
第1遊撃部隊[(大和、信濃、第2水雷戦隊(矢矧及び駆逐艦6隻)]ハ海上特攻トシテ8日黎明沖縄ニ突入ヲ目途トシテ急速出撃ヲ準備スベシ(注・GF=連合艦隊)
第32軍司令部は、戦艦「大和」以下の沖縄西方海岸突入という壮烈な通報に、沖縄方面の制空権の状況からあまりにも危険であると考え、軍司令官名で「ご厚意は感謝するが、時機尚早と考察するので海上特攻の出撃は取りやめられたし」と打電した。
(中略)
「菊水1号」作戦参加の陸海軍機は、鹿屋その他南九州の各基地を6日午前10時15分からつぎつぎに発進し、神風特攻機は午後3時10分、」沖縄海面のアメリカ軍艦船軍に突っ込んで特攻攻撃を行ない、駆逐艦3、LST1、弾薬船2、軽空母「サンハシント」を撃沈し、駆逐艦15、掃海艇4を撃破するという戦果を上げた。
戦艦「大和」以下の水上特攻隊は6日午後3時20分、徳山から出撃し、豊後水道を南下した。7日正午すぎからアメリカ軍機200機以上の攻撃を受け、全員必死に戦ったが、「大和」には魚雷10本、爆弾多数が命中し、午後2時すぎ沈没した。「大和」撃沈で2740名が戦死したが、水雷戦隊を合わせると3721名がこの作戦に殉じた。
4月5日、北方正面は全線にわたってアメリカ軍の攻撃を受け、アメリカ軍艦隊の主力は嘉手納西方海面にあって陸揚を続行した。艦砲射撃は浦添の3000発、首里に150発、与那原に200発と熾烈をきわめた。
このような激戦中の沖縄にあって逓信従業員は職場を死守し、次のような電報を打電している。
当局送信機故障本日復旧セリ(注・4月2日夜以降連絡途絶中)ソノ昼間ハ艦戦機、昼夜間共艦砲射撃猛烈ナルモ無線吏員異常ナク元気旺盛敢闘中、目下○○○○洞窟内ニアリテ今後トモ益々健闘御期待ニ添ウベク一同奮励努力センコトヲ誓ウ
(前略)全員20名洞窟内ニテ健闘中ナリ
・敵ニ最後ノ出血ヲ強要スルニ決ス
4月中旬、天1号作戦部隊に宛て第3次総攻撃を命じる暗号電報が発信された。(4月14日発信、攻撃は16日と予定)
4月の下旬になると戦局の悪化はもはや覆うべくもなかった。4月29日は天長節(天皇誕生日)である。軍参謀長の長勇中将は八原主任参謀らを集めて幕僚会議を開き、「現状をもって推移すれば、軍の戦力はローソクのごとく消磨し、軍の運命の尽きるところは明白である。攻撃力を保有している時機に攻撃を採り、運命の打開を策すべきである」と攻撃を提案した。
八原参謀は「攻撃は失敗必定であり、失敗すれば戦略持久はできなくなり、本土決戦のための戦略持久日数も短小となる」と反対したが、他の参謀は攻撃を支持し、牛島司令官は29日、5月4日を期して再度の総反撃をなすことに決定した。
5月4日、午前2時頃から攻撃を開始したが、午前中は攻撃成功の快報がしきりに到着したものの正午頃からは各隊の攻撃が進展せず、午後3時頃、第32軍司令部は次のように打電した。
5月5日、攻撃を再開したが戦況は不利なものが多く、牛島軍司令官は午後6時をもって攻撃を中止し、戦略持久に変更したために各部隊は原態勢に復帰を命じらた。
軍司令官は5月5日夜、攻撃中止を関係方面に打電した。
軍ハ4日夜攻撃続行、5日朝迄ニ更ニ一部ヲ以テ棚原北側154・9高地に進出セルモ同戦ノ損耗甚ダシク現戦力ヲ以テ5日1800攻撃中止、旧陣地帯ニヨリ敵ニ最後ノ出血ヲ強要スルニ決ス、各方面ノ絶大ナル御協力ヘ誠ニ申訳ナク遺憾ニ堪エス
5月11日、アメリカ軍は全戦線にわたって猛攻してきた。12日、第32軍司令部は「勝敗の岐路は今明日中にあり」と関係方面に打電した。
(以下電文略)
・義烈空挺隊
第32軍司令部は16日、航空作戦等について第10方面軍及び大本営陸軍部に対しておよそ実行不可能と思われる次のような要請電を発している。
1 軍は最後ノ予備ヲ投入シツツ敢闘中ナルモ現兵力ノ保持逐次至難トナリ、組織的戦略持久ハ終焉トス
2 此ノ重大転機ニ於テ左ノ如ク策残サレアリト存セラレ至急方面軍及中央ノ作戦方針率直ニ披歴サレ度
(1)武器ナキ2万5千ノ戦闘員ニ対スル急速兵器ノ輸送
(2)日航、満航、中華其ノ他動員可能ノ全空輸機ヲ以テスル精鋭歩数個大隊ノ緊急落下降下
(3)連合艦隊、第8飛行団ノミニ依ルコトナク速ヤカニ国軍全航空兵力ヲ本島周辺ノ戦艦船撃破ニ(以下不明)
大本営陸軍部は、この要請電報について研究したが、兵力増援の実施は沖縄方面の制空の可能性がなく、また空挺作戦は戦略的持久の要素にはならないと判断され、「兵力増援はしない。義号作戦だけ決行」との決定をみた。
5月23日夜、熊本健軍飛行場から「義烈空挺隊」が進発した。「義号」作戦である。
奥山道郎の指揮する陸海挺身隊120人が爆撃機12機に分乗し、夜間にアメリカ軍が占領する沖縄の飛行場に強行着陸し、アメリカ軍機や施設を破壊するという「殴り込み戦法」である。24日未明、中飛行場に6機、北飛行場に2機が胴体着陸(4機は途中不時着または反転)した。決死隊は八方に走り、アメリカ軍機8機を焼き、26機を破壊した。またドラムカン集積所を炎上させるなど、27日まで奮戦して基地を制圧した後、全員が玉砕した。
第32軍は23日夜、「義号」作戦への感謝の電報を発した。
[あとがき]
義烈空挺隊については、NET上のウィキペディア、「義烈空挺隊」、その他に多くの記事があります。それらの内容は、出典記載の記述と必ずしも一致していない。北(読谷)飛行場に健軍飛行場から到着したのは5機で、胴体着陸の1機を除き4機は撃墜されたようだ。5機の乗組員70人は全員の死亡が確認されている。このときの日本軍の攻撃による米兵の戦死者は2人、負傷者は13人。
なお、作戦に参加した12機は、1機が胴体着陸成功、7機は撃墜され、4機は故障で途中不時着または引き返した。1機に14人乗った乗組員合計は168人で、うち戦死者は99人。中(嘉手納)飛行場の攻撃に触れた記述を読むことはできなかった。(生き残られた68人と戦死者ご家族の心中を偲びつつ 2017/8/10増田記)
(その3へつづく)
◆出典
日本電信情報史 極秘電報に見る戦争と平和 大塚虎之助著/増田民男監修
熊本出版文化会館発行(2002年5月20日)
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