◆赤羽 弘道
・暗号訓練
モールス通信術がある程度進むと、暗号の訓練が始まった。
軍隊の暗号は数字暗号で、師団通信隊では3数字暗号が使われていた。暗号の使用は、暗号書・乱数表・使用着規定による。暗号書は赤色の表紙で上質紙が使われ、一連の番号がつけられていた。カナ文字・数字・アルファベットをはじめ、軍隊でよく使われる漢字や熟語が収録され、これに無作為に選ばれた3桁の数字がつけられていた。乱数表は、0から999ページ(1ぺージに2つのページ番号がつき、実質500ページ)で、1ページに縦横各10座表、計100語の3数字乱数が記載されていた。
使用規定は書いたものは渡されず、口で教え、頭で覚えることとされていた。
軍隊の命令文には決まった型があるので、これを崩すため転置といって文章を途中で任意に区切り、そこを電文の頭とした。乱数表は使用したページにレ印をつけ、そのページは2度と使わない。また足し算・引き算の代わりに1枚のカードになった換字表というものが使われた。
暗号の訓練とは、こうした暗号の組立てと、その翻訳である。敵の砲爆撃下や壕の中でも正確に素早く、沈着にできることが必要であった。軍の秘密書類は、「軍事機密」「軍事極秘」「軍事秘密」「極秘」「秘」の区分があり、暗号書は軍事機密として、訓練における取扱いにも注意が払われ、使用済みの電報用紙は焼却処分をしていた。作戦の間、暗号書は小隊長が携行、万一焼却するような事態になったときは、焼却した証拠に表紙1枚を持ち帰ることとされていた。暗号書や乱数表は時々改定され、換字表は頻繁に変更になった。なお、使用規定は部隊により少しずつ異なり、暗号書番号を記入することもあった。
シャ-ロック・ホームズの「踊る人間」ではないが、傍受しただけでは乱数暗号の解読は、理論的に不可能と思われた。
・無線機取扱い訓練
暗号の訓練と並行して無線取扱いの訓練が行われた。
師団通信隊で使用する94式3号甲無線機(昭和9年制定)は、出力15ワット、一つのケースの中に送信機と受信機が組み込まれていた。訓練は、まず名称を覚えることから始まり、簡単な電気学を学び、受信機の電池の接続に進んだ。受信機はスーパーヘロダイン方式で、同調蓄電池のダイヤルを回すと、ラジオをはじめ無数の電波が飛び込んできた。相手の送信波数に合わせると、呼出しをキャッチすることができた。
送信機の電源は手回し発電機で、二人で向き合って転把(てんぱ)を回し、500ボルトを発電した。使用する周波数は、水晶片を使いまたは磁励発信の方式で、訓練では任意に決めていた。
送信調整のやり方は、通信手は送信機の前に腰かけ、送信調整はじめから送信調整終わりまでの8項目の操作を大きな声で呼称をしながら、操作を行った。作業は交替で行い、その他の者は回りで見学していた。
一通り要領が理解されると、次は営庭に出てアンテナを立て、2組の無線機を展開し、通信連絡の訓練をした。アンテナは被覆線を使った逆Lという方式であった。周波数は3、000台の短波が使われ、呼出符号は訓練では適宜つけられていた。例えば、本部を「サクラ」、出先を「アヤメ」というように。
3号甲無線機は確実に電波が届くのは約80キロ程度とされていたが、アンテナと電波の状態がよいときはかなり遠方まで届いた。ある夜、天守閣跡の高台で、宇都宮の師団通信隊との間で電波伝搬状況の実験をしたことがある。このとき私は見事に相手の電波をキャッチすることができた。
・電話通信訓練
有線による電話通信は、1巻500メートルの被覆線をつないで、師団司令部と聯隊本部の間に電話線を架設する。1人が延線器を持って道路の片側に張り、1人が竿でそれを小枝に架けてゆく。1巻が終ると架線の先に電話機を接続し、太地にアース棒を差込んで地気をとり、出発点の電話機と試験通話をする。出発前に導通点検をしているが、張り終わってさて試験通話というときに、断線が起きていて通話不能となることがある。そんなときは前の接続点まで駆け戻って、テストとしてから新しい線でやり直す。予定の架線が終わると直ちに撤収に移る。絡車(らくしゃ)という巻取機を胸に掛けて電話線を巻取って行くが、泥が顔や胸に飛び散り、惨憺たる姿になる。架線も撤収もすべて駆け足で行うので、大変な体力を必要とした。
・その他
師団通信隊は駄馬編成で、3号甲無線機を馬2頭(必要部分は1頭)で運んだ。部隊では約30頭の馬を飼っていた。その世話もした。馬当番になると、不寝番に30分は早く起こしてもらい、駆け足で厩に行き、厩の清掃、馬の手入れをした。仕事を30分で済ませ、内務班に駆け戻り、遅れた朝食をとる。あかぎれに沁み込んだ馬糞の臭いはなかなか取れなかった。
3月10日、上等兵の階級に進んだ。その頃になると、訓練は調整演習(作戦中の通信連絡の訓練)という、兵営の外に出る演習が多くなった。無線機は分担して担いでいった。行き先はそのつど教官が指示し、北は森本、南は野々市から松任周辺が行動範囲であった。多くの場合、2隊に分かれて行軍し、開設し、通信訓練を行った。空中に飛び交う無数の電波の中から、相手の打つ呼出し符号をキャッチするのは、それなりの技量と経験が必要だった。小松市の女学校で数日間泊まり込んだ調整訓練では、そこから山道を演習しながら湯涌まで行き、温泉に入りのんびりした気分に浸った。ところがその直後、整列の号令がかかり、10キロの夜道を駆け足で金沢の部隊まで帰らされた。
4月1日、試験に合格し甲種幹部候補生を命ぜられた。5月1日には伍長の階級に進み、学徒兵68名中34名が陸軍通信学校に入学を命ぜられた。一部の者は経理部幹部候補生となり、陸軍経理学校に入校した。
昭和19年(1944)5月1日、小田急小田原線の相模大野駅で降り、神奈川県高座郡大野村にある陸軍通信学校に入学した。(つづく)
◆寄稿者紹介
・出典:赤羽弘道氏「記憶の残像~つつましく傘寿を生きる~」(平成20年11月出版・小倉編集工房)
・著者の経歴:大正12年(1923)長野県生れ、名古屋逓信講習所普通科昭和14年卒<詳しくは、2016-4-15日「電信の思い出(その1)」の寄稿者紹介参照>
・暗号訓練
モールス通信術がある程度進むと、暗号の訓練が始まった。
軍隊の暗号は数字暗号で、師団通信隊では3数字暗号が使われていた。暗号の使用は、暗号書・乱数表・使用着規定による。暗号書は赤色の表紙で上質紙が使われ、一連の番号がつけられていた。カナ文字・数字・アルファベットをはじめ、軍隊でよく使われる漢字や熟語が収録され、これに無作為に選ばれた3桁の数字がつけられていた。乱数表は、0から999ページ(1ぺージに2つのページ番号がつき、実質500ページ)で、1ページに縦横各10座表、計100語の3数字乱数が記載されていた。
使用規定は書いたものは渡されず、口で教え、頭で覚えることとされていた。
軍隊の命令文には決まった型があるので、これを崩すため転置といって文章を途中で任意に区切り、そこを電文の頭とした。乱数表は使用したページにレ印をつけ、そのページは2度と使わない。また足し算・引き算の代わりに1枚のカードになった換字表というものが使われた。
暗号の訓練とは、こうした暗号の組立てと、その翻訳である。敵の砲爆撃下や壕の中でも正確に素早く、沈着にできることが必要であった。軍の秘密書類は、「軍事機密」「軍事極秘」「軍事秘密」「極秘」「秘」の区分があり、暗号書は軍事機密として、訓練における取扱いにも注意が払われ、使用済みの電報用紙は焼却処分をしていた。作戦の間、暗号書は小隊長が携行、万一焼却するような事態になったときは、焼却した証拠に表紙1枚を持ち帰ることとされていた。暗号書や乱数表は時々改定され、換字表は頻繁に変更になった。なお、使用規定は部隊により少しずつ異なり、暗号書番号を記入することもあった。
シャ-ロック・ホームズの「踊る人間」ではないが、傍受しただけでは乱数暗号の解読は、理論的に不可能と思われた。
・無線機取扱い訓練
暗号の訓練と並行して無線取扱いの訓練が行われた。
師団通信隊で使用する94式3号甲無線機(昭和9年制定)は、出力15ワット、一つのケースの中に送信機と受信機が組み込まれていた。訓練は、まず名称を覚えることから始まり、簡単な電気学を学び、受信機の電池の接続に進んだ。受信機はスーパーヘロダイン方式で、同調蓄電池のダイヤルを回すと、ラジオをはじめ無数の電波が飛び込んできた。相手の送信波数に合わせると、呼出しをキャッチすることができた。
送信機の電源は手回し発電機で、二人で向き合って転把(てんぱ)を回し、500ボルトを発電した。使用する周波数は、水晶片を使いまたは磁励発信の方式で、訓練では任意に決めていた。
送信調整のやり方は、通信手は送信機の前に腰かけ、送信調整はじめから送信調整終わりまでの8項目の操作を大きな声で呼称をしながら、操作を行った。作業は交替で行い、その他の者は回りで見学していた。
一通り要領が理解されると、次は営庭に出てアンテナを立て、2組の無線機を展開し、通信連絡の訓練をした。アンテナは被覆線を使った逆Lという方式であった。周波数は3、000台の短波が使われ、呼出符号は訓練では適宜つけられていた。例えば、本部を「サクラ」、出先を「アヤメ」というように。
3号甲無線機は確実に電波が届くのは約80キロ程度とされていたが、アンテナと電波の状態がよいときはかなり遠方まで届いた。ある夜、天守閣跡の高台で、宇都宮の師団通信隊との間で電波伝搬状況の実験をしたことがある。このとき私は見事に相手の電波をキャッチすることができた。
・電話通信訓練
有線による電話通信は、1巻500メートルの被覆線をつないで、師団司令部と聯隊本部の間に電話線を架設する。1人が延線器を持って道路の片側に張り、1人が竿でそれを小枝に架けてゆく。1巻が終ると架線の先に電話機を接続し、太地にアース棒を差込んで地気をとり、出発点の電話機と試験通話をする。出発前に導通点検をしているが、張り終わってさて試験通話というときに、断線が起きていて通話不能となることがある。そんなときは前の接続点まで駆け戻って、テストとしてから新しい線でやり直す。予定の架線が終わると直ちに撤収に移る。絡車(らくしゃ)という巻取機を胸に掛けて電話線を巻取って行くが、泥が顔や胸に飛び散り、惨憺たる姿になる。架線も撤収もすべて駆け足で行うので、大変な体力を必要とした。
・その他
師団通信隊は駄馬編成で、3号甲無線機を馬2頭(必要部分は1頭)で運んだ。部隊では約30頭の馬を飼っていた。その世話もした。馬当番になると、不寝番に30分は早く起こしてもらい、駆け足で厩に行き、厩の清掃、馬の手入れをした。仕事を30分で済ませ、内務班に駆け戻り、遅れた朝食をとる。あかぎれに沁み込んだ馬糞の臭いはなかなか取れなかった。
3月10日、上等兵の階級に進んだ。その頃になると、訓練は調整演習(作戦中の通信連絡の訓練)という、兵営の外に出る演習が多くなった。無線機は分担して担いでいった。行き先はそのつど教官が指示し、北は森本、南は野々市から松任周辺が行動範囲であった。多くの場合、2隊に分かれて行軍し、開設し、通信訓練を行った。空中に飛び交う無数の電波の中から、相手の打つ呼出し符号をキャッチするのは、それなりの技量と経験が必要だった。小松市の女学校で数日間泊まり込んだ調整訓練では、そこから山道を演習しながら湯涌まで行き、温泉に入りのんびりした気分に浸った。ところがその直後、整列の号令がかかり、10キロの夜道を駆け足で金沢の部隊まで帰らされた。
4月1日、試験に合格し甲種幹部候補生を命ぜられた。5月1日には伍長の階級に進み、学徒兵68名中34名が陸軍通信学校に入学を命ぜられた。一部の者は経理部幹部候補生となり、陸軍経理学校に入校した。
昭和19年(1944)5月1日、小田急小田原線の相模大野駅で降り、神奈川県高座郡大野村にある陸軍通信学校に入学した。(つづく)
◆寄稿者紹介
・出典:赤羽弘道氏「記憶の残像~つつましく傘寿を生きる~」(平成20年11月出版・小倉編集工房)
・著者の経歴:大正12年(1923)長野県生れ、名古屋逓信講習所普通科昭和14年卒<詳しくは、2016-4-15日「電信の思い出(その1)」の寄稿者紹介参照>
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