モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

広島電信局と原爆(3/3)

2016年08月07日 | 原爆
◆5、広島電信局の復旧

(1)広島電信局の1次応急復旧~中局へ

復旧に当たり最も困ったことは、復旧に必要な工事関係要員が、有線工事局長以下、ほとんど亡くなったことだった。このため工事は、急遽広島へ来た応援者によってなされざるを得なかった。また、緊急用としてかねてより措置局としていた福屋の通信施設は、火災後、水道管破裂により水浸しとなり使用できず、放棄せざるを得なかった。

それでも、生き残った中井搬送工事局長が有線工事局の指揮をも行うことになり、7日、8日のうちに、先ず長距離電話回線を、かねて準備していた緊急措置方針に準じ、呉中継所へ疎開の搬送単局装置を使用する等により、復旧にこぎつけた。8日の午後2時には、逓信局本院間の直接連絡が取れ、被害状況を報告し得ることになった。

長距離回線の連絡が出来るや直ちに、東京大本営との連絡を待ち構えていた軍関係機関〈第2総軍、船舶司令部)は広島中継所跡内に天幕を張り、磁石式電話機をつないで通話を行った。

この後、広島電信局、広島中央電話局の応急復旧については、一先ず、全焼しているが局舎が残っていた広島市中町の電話局で業務を始めることに決定した。

9日には、応援の暁部隊(120名)に中局清掃を依頼し、死体の収容や局内の残骸整理を行った。その後、部隊は市内焼残りのケーブル回収にも活躍した。

広島電信局の復旧は、祇園局より電鍵、集音函を集め、交換台復旧に従事した応援隊により並行的に施工し、8月13日、音単3座席の装置工事を完了し8月13日広島~呉線1回線が収容された。

その後、8月20日 尾道、山口、宇品、8月24日岡山線が復旧し、座席は逐次増設された。

なお、8月12日から8月24日までの発信、着信取扱数宇が掲げられているが、その通数は、発信で1日当たり9通から40通、着信で33通から1500通となっている。
もっとも、8月12日は発着信とも電話利用、着信の多くは郵送によるものとなっている。
配達は近郊は通勤者へ依託している。

回線復旧に市内を張り廻されたゴム線は、一望千里の焼跡に第一番に復旧の息吹を与えたものであるが、何もない焼跡だけに目立ったらしく、やがて各所で盗難にかかり、復旧に張れば盗られるという状況で、障害は回線数の3分の1乃至2分の1であり、当時苦労し、落胆させられていたことである。

被爆後、急遽各地より広島に駆けつけ活躍した応援者のことにふれた謝辞がある。被爆翌日の7日から、広島に来た中国管内の各局所からの応援者は、復旧に必要な資材のほか、治療用具、毛布などのほか、提げられるだけの米、ジャガイモ、梅干し、釜などの救援物資を運んできた。そして、灰燼の中で宿舎、食料等の困難と戦いながら復旧工事に従事し、炊出し、負傷者の看護、死体の火葬等に活躍したとあり、判明した者の氏名が記載されている。痛ましいことに、中には、帰郷後原爆症を呈し、療養したものが多く、死亡した者もある状況だったと、原爆誌には謝辞と共に言及している。

(2)広島電信局の2次応急復旧~船越へ移転

仮復旧局とした中局で電話と電信業務を開始したが、局舎は風雨は受けるし、休憩、宿直、湯沸、洗面、便所はない。75年間人は住めぬ、草木は生えぬといわれて原爆中心地での業務は、出勤者は減り、ある時は交換手は1人しかおらず、電報の男手をかりるという状況で、困難を極めた。

そこで、線路状況より復旧に有利で、業務の運用、保守も至便な地として,広島市東部の安芸郡船越町にあった日本製鋼所第二精心寮を中継所、電信局、電話局の移転先と決めた。8月29日に移転を決め、9月13日に局舎改築が始まった。局舎が完成し、移転完了は20年12月末だった。被爆、終戦を経て、約5カ月目にして、広島市の通信は軌道に乗せることができた。

一方、9月1日には駐留軍が呉に上陸、終戦処理委員会、終戦処理のため中国軍管区などから、期限付きで回線作成の要求が矢継ぎ早に次々に出され、対応する側の辛苦は筆舌し難いものだった。

さらに9月17日夜通し吹き荒れた大台風(枕崎台風)は広島を中心として東西100キロメートルの範囲にわたり、未曽有の大惨事を与えた。これによる通信線の被害は甚大で、9月17日までの広島市内の回線数は、市外、市内共32回線であったが、18日には生きた回線は皆無であった。

20年10月末から通信装置の取付けに着工し、11月中旬には、音響単信23席、音響二重13席が竣工した。
その後、20年12月末には、音響単信15、音響二重7.計22回線が開通している。

(3)広島電信局の本復旧

戦後の広島市復興に伴い、電報の重要が著しく増大し、船越の仮庁舎では、通信装置の増設は行き詰り、市民の不便と配達の不便から市内への復帰が急務となり、基町へ新たに電報局を新設することになった。

新庁舎は、22年9月着工、11月末に竣工、12月6日回線の切り替えを行った。これで苦闘した4カ月余の中町の電話局と約2年間に亘る船越仮庁舎に別れを告げることになった。


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