◆3、広島電信局被爆の状況
(1)職場の被害状況
広島電信局は、爆心から約400メートルの近距離であったので、昭和25年(1945)8月6日午前8時15分、原爆炸裂の一瞬、閃光と一大爆音と共に強烈な爆風により、局舎内の設備一切はこっぱ微塵に破壊され尽し、その数秒前まで活発に活動をつづけていた職場は、死の沈黙と暗黒に急転した。窓とおぼしきあたりから、わずかにローソクの光ほどの光線がほのかに闇に射すだけであった。
暫時の沈黙の後、あちこちから「電気をつけろ」「窓をあけろ」と叫ぶ声が起こった。
室内がやや明るさを取り戻したころから、壊れた器物や倒れた壁のあたりから呻く声や助けを求める声が聞こえてきた。
室内が完全に明るくなると朱に染まった重傷者の呻き、倒壊物の下から僅かにそれと知れる無言の手、脚、救助を求める必死の声、何事か大声で喚きながらガラクタの中を駆け回る人等々、今日一日も戦争に勝つために張切っていた職場は、数分後阿鼻叫喚の修羅場となったのである。
放心状態から我に返った人たちによって、重症者の救出が局内出火に至るまでの約2時間に亘って続けられた。
局舎は、堅牢な建物であったため倒壊は免れ得たが、猛烈な爆風に屋上は亀裂を生じて下方にめり込み、バルコニーは落ち、鉄の窓枠は吹飛ばされ、通信室(3階)入口の鉄扉は飴の如く曲がり、天井、壁の上ぬりは全部脱落し、モルタル間仕切りはすべて倒壊、通信機は飛散し、監視員室や受配課室(1階)の床は地下室に落ち込み、地下室の水道パイプは破損漏水する等、およそそ形のあるものはことごとく破壊し尽くされたのであった。
以上の状況は、職員が最も多く勤務していた3階の通信室の状況と1階の受付室・配達室の様子であるが、その他2階の電信試験室、4階の庶務室・無線室宿直室・女子休憩室、5階の男子休憩室等も同じような状況であったと考えられる。ただ、宿泊室があった地下室のみは、被爆の被害はなかったことが、当時宿泊中だった庶務課員高橋匤氏の体験記に記録されている。
電信局の全焼建物の建坪は、727坪(2,400平方m)だった。
なお、広島原爆誌には、被爆前後の広島地区の電信、電話関係機関14機関について、原爆前後の状況を詳細に記録している。原爆犠牲者は、中央電話局216名(職員計610名)、電信局143名(職員207名)等を合わせ600名近くである。
(2)職員の被害状況
職員数297名のうち、死亡者は非在局舎を含め143名、生存者は154名である。
内訳をみると、
在局被災者は117名、うち97名が死亡。死亡者のなかには、勤務外の宿明の者9
名が含まれている。
非在局被災者は180名、うち死亡者は46名。
広島原爆誌は、原爆投下前後の電信電話関係職員の生存者と死亡者の氏名がすべて記録されている。死亡者については、年齢,官職、罹災場所、死亡月日、死亡場所が全員について記録されている。
非在勤者の死亡者には、8月1日に広島電信局発足と同時に局長となった岩田実氏の死亡も含まれている。岩田局長は、当日局長官舎から徒歩出勤の途中、県庁橋中間で被爆し、人事不省に陥った。数刻後救助班により救助され市の西南端にあった陸軍病院江波分院に収容されたが、8月20日に死亡された。入院中、庶務課員の高橋匤氏が面会した際、局の被災状況を聞いた氏は心を痛められ、早く市内の病院に引き取ってほしいと要望されたそうだ。なお、氏の夫人もまた、被爆当日、自宅で死亡したと記録されている。
◆4、広島電信局の被災前後の設備
原爆誌には、被災前後の電信設備について、局内設備(印刷4席、音響二重14席、音響単44座席など)と線路設備(電柱、架空ケーブル、地下ケーブなど)に区分し、記禄している。
電信局に機械装置は爆風により吹き飛ばされ、周辺建物は疎開していたが、市内の火災により類焼し、全部焼失した。措置局の設備も、火災発生後の水道管破裂により水浸しとなり、廃棄せざるを得なかった。」
屋外の線路設備である、電柱(当時は木柱)は爆心付近では、焼失し残存していない、それ以外についての調査結果では、全体の61%が傾斜,転倒、焼失している。
架空線路は、爆心より3Kmの範囲内では、大体焼失区域と一致し、断線または焼失している。その他の区域の架空ケーブルは、48%が被害を受けた。
地下ケーブルは直接の被害は免れたが、架空ケーブル、地下ケーブルの立ち上がり部分の焼失または切断に伴い、その断面より、または管路の破裂などにより浸水し、約80%は絶縁低下し、大修理を要した。
中心地より1Km以内のマンホールは、蓋が飛んで、2m先付近に落下し壊れたりなくなったものもあった。鉄蓋の表面の模様は原形がくづれているものがあった。放射熱により溶解したことを物語る。
(1)職場の被害状況
広島電信局は、爆心から約400メートルの近距離であったので、昭和25年(1945)8月6日午前8時15分、原爆炸裂の一瞬、閃光と一大爆音と共に強烈な爆風により、局舎内の設備一切はこっぱ微塵に破壊され尽し、その数秒前まで活発に活動をつづけていた職場は、死の沈黙と暗黒に急転した。窓とおぼしきあたりから、わずかにローソクの光ほどの光線がほのかに闇に射すだけであった。
暫時の沈黙の後、あちこちから「電気をつけろ」「窓をあけろ」と叫ぶ声が起こった。
室内がやや明るさを取り戻したころから、壊れた器物や倒れた壁のあたりから呻く声や助けを求める声が聞こえてきた。
室内が完全に明るくなると朱に染まった重傷者の呻き、倒壊物の下から僅かにそれと知れる無言の手、脚、救助を求める必死の声、何事か大声で喚きながらガラクタの中を駆け回る人等々、今日一日も戦争に勝つために張切っていた職場は、数分後阿鼻叫喚の修羅場となったのである。
放心状態から我に返った人たちによって、重症者の救出が局内出火に至るまでの約2時間に亘って続けられた。
局舎は、堅牢な建物であったため倒壊は免れ得たが、猛烈な爆風に屋上は亀裂を生じて下方にめり込み、バルコニーは落ち、鉄の窓枠は吹飛ばされ、通信室(3階)入口の鉄扉は飴の如く曲がり、天井、壁の上ぬりは全部脱落し、モルタル間仕切りはすべて倒壊、通信機は飛散し、監視員室や受配課室(1階)の床は地下室に落ち込み、地下室の水道パイプは破損漏水する等、およそそ形のあるものはことごとく破壊し尽くされたのであった。
以上の状況は、職員が最も多く勤務していた3階の通信室の状況と1階の受付室・配達室の様子であるが、その他2階の電信試験室、4階の庶務室・無線室宿直室・女子休憩室、5階の男子休憩室等も同じような状況であったと考えられる。ただ、宿泊室があった地下室のみは、被爆の被害はなかったことが、当時宿泊中だった庶務課員高橋匤氏の体験記に記録されている。
電信局の全焼建物の建坪は、727坪(2,400平方m)だった。
なお、広島原爆誌には、被爆前後の広島地区の電信、電話関係機関14機関について、原爆前後の状況を詳細に記録している。原爆犠牲者は、中央電話局216名(職員計610名)、電信局143名(職員207名)等を合わせ600名近くである。
(2)職員の被害状況
職員数297名のうち、死亡者は非在局舎を含め143名、生存者は154名である。
内訳をみると、
在局被災者は117名、うち97名が死亡。死亡者のなかには、勤務外の宿明の者9
名が含まれている。
非在局被災者は180名、うち死亡者は46名。
広島原爆誌は、原爆投下前後の電信電話関係職員の生存者と死亡者の氏名がすべて記録されている。死亡者については、年齢,官職、罹災場所、死亡月日、死亡場所が全員について記録されている。
非在勤者の死亡者には、8月1日に広島電信局発足と同時に局長となった岩田実氏の死亡も含まれている。岩田局長は、当日局長官舎から徒歩出勤の途中、県庁橋中間で被爆し、人事不省に陥った。数刻後救助班により救助され市の西南端にあった陸軍病院江波分院に収容されたが、8月20日に死亡された。入院中、庶務課員の高橋匤氏が面会した際、局の被災状況を聞いた氏は心を痛められ、早く市内の病院に引き取ってほしいと要望されたそうだ。なお、氏の夫人もまた、被爆当日、自宅で死亡したと記録されている。
◆4、広島電信局の被災前後の設備
原爆誌には、被災前後の電信設備について、局内設備(印刷4席、音響二重14席、音響単44座席など)と線路設備(電柱、架空ケーブル、地下ケーブなど)に区分し、記禄している。
電信局に機械装置は爆風により吹き飛ばされ、周辺建物は疎開していたが、市内の火災により類焼し、全部焼失した。措置局の設備も、火災発生後の水道管破裂により水浸しとなり、廃棄せざるを得なかった。」
屋外の線路設備である、電柱(当時は木柱)は爆心付近では、焼失し残存していない、それ以外についての調査結果では、全体の61%が傾斜,転倒、焼失している。
架空線路は、爆心より3Kmの範囲内では、大体焼失区域と一致し、断線または焼失している。その他の区域の架空ケーブルは、48%が被害を受けた。
地下ケーブルは直接の被害は免れたが、架空ケーブル、地下ケーブルの立ち上がり部分の焼失または切断に伴い、その断面より、または管路の破裂などにより浸水し、約80%は絶縁低下し、大修理を要した。
中心地より1Km以内のマンホールは、蓋が飛んで、2m先付近に落下し壊れたりなくなったものもあった。鉄蓋の表面の模様は原形がくづれているものがあった。放射熱により溶解したことを物語る。
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