モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

谷口稜曄~二十五年目の回想と証言(2/2)

2016年08月12日 | 原爆

◆長崎原爆投下~二十五年目の回想と証言(2/2)

谷口稜曄(すみてる)氏のこと;

谷口氏に関しでは、氏との長期のインタビューによって書かれた本が2冊出版されている。

1、「ナガサキの郵便配達」早川書房・昭和60年<P・タウンゼンド 間庭恭人訳>(英語、仏語)

この本は絶版となっており、図書館のものを読むしかないが、平成18年の三省堂「新編国語総合」の教科書にもサマリーが取り上げらた。

ちょうど、先日の東京新聞(8月8日夕刊)は、次のように再出版の動きがあることを報じでいる。

絶版とともに忘れられようとしている物語(ナガサキの郵便配達)を東京都内の男性が「読み継いでいくことが平和を考えることになる」と光を当てる、と広く寄付を募り、来春の出版を目指している。 (藤浪繁雄)

この本は、1984年に英国などで出版されたもので、作者のピーター・タウンゼントさん(14~95年)は元英国空軍の戦闘機パイロット。戦後はジャーナリストとして活躍、映画「ローマの休日」でグレゴリー・ペック演じる新聞記者のモデルとなったことでも知られる。

タウンゼントさんは78年から長崎を訪ね、郵便局員だった谷口さんらに取材を重ねた。被爆して生死をさまよい、後遺症に苦しんだ被爆者の体験に加え、原爆を投下した爆撃機内の搭乗兵のやりとりや当時のトルーマン米大統領の思惑、旧日本軍首脳の暴走ぶりなども取材。ドキュメンタリー調の小説に仕立てた。

日本語版は2005年に寄付金を募って復刊したが、書店に置かれることもなく、大きな動きにはならなかった。
今回、再出版に向け奔走しているのは、都内でデザイン事務所や出版業を営む斎藤芳弘さん(69)。知人から本のことを聞き「埋もれさせてはならない」と決意。谷口さんからは「原爆が忘れ去られ、時代が核兵器の肯定に流れていくことを恐れる。長崎が最後の被爆地であってほしい」と願いを託された。また、タウンゼントさんの遺族も「社会的に意義がある」などと再版に賛同しているという。

斎藤さんは1人でも多くの人に読んでもらいたいと、一般社団法人を設立し、1口千円で寄付を募集。全国の小学校などに無償配布するほか、廉価での販売を検討している。 
   問い合わせ先;「ナガサキの郵便配達制作プロジェクト」
   電話03(6821)7702、FAX03(6821)5704>>


この本の中の内容を1カ所だけだが、紹介したい。
>>原爆生存者たちは、見捨てられたと感じ、将来について不安を感じないではいられなかった。自分たちは何をしたため、この恐ろしい運命に突き落とされたのか、納得のゆく説明がほしかった。彼らは必死にこの問題の答えを求めつづけた。

しかしそこから抜け出すことのできた者もあった。稜曄もその一人だった。幸い復職することができ、これが大きな援けになったことは明らかであった。彼は、重傷を負ったにもかかわらず、不断の不安と疲労を意志と勇気の力で克服し、わずかばかり残っていたエネルギーを仕事に振り向けることができた。年とともに稜曄と友人の被爆者たちは、原爆とその影響についての知識を広め、お互いの間に固い結びつきをつくった。彼らの感情も考えも熟したものになっていった。彼らは自分たちの存在理由を見出し、要するに、自分たちの人生は意義あるもの、過去の苦難、現在と将来の苦難もむだではない、と考えるようになった。自分たちは原子爆弾を経験した。そしてこのことによって一挙に約40万人の比類のない人間集団に入ったのだ。事の次第を実際によく知っている自分たちだけが、核攻撃のもたらす結果について語ることができるのであり、本質的に人間的な、道徳的な観点から、そのような兵器の使用に反対して立ち上がることができるのだ。自分たちは一種の選民、一つの使命を担った共同体である、とまで彼らは考えるようになった。P135,136>>

2、谷口稜曄聞き書き「原爆を背負って」西日本新聞社・平成26年<久 知邦>

この本も、谷口氏自身が語る被爆から平成26年までのことが、忠実に書かれている。
本の冒頭には、谷口氏の写真「仲の良かった電報局の同僚たち」や「赤い背中の少年」の写真を手に持ち、国連で核兵器廃絶を訴えた平成22年(2010)の写真など10数枚の写真が掲載されている。

この本の中で、被爆直後に米軍が撮影した「赤い背中の少年」の写真は、夜勤明けで長崎電報局にいた氏は、職場の同僚とTVで見守った(1970年)。それまで、原水爆禁止運動には、初期から関わっていたが、自分のことを外で語ることもなく、運動を陰でささえることが主だった。この「写真が世に出た以上は仕方ない」と彼は徐々に運動の先頭に立つ決心を固めていった、と述べている。

事実、氏が会長をしている長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)の設立(1956年6月)に長崎国際文化会館に千人が集まった日も、第2回原水爆禁止世界大会が長崎で開催されて日も、氏は電報局に出勤し、会場に祝電を届けている。自分の被爆経験を語ったのは、職場などではあったが、外に向けて自分のことに触れたのは、前回紹介した「二十五年目の回想と証言」が最初のものだと述べている。

国内はもちろんだが、海外にも原爆の実相を伝え、非核を訴えるため、体の痛みがあっても23回出かけたこと、年間300回を超えていた修学旅行生への原爆講話は、体調を崩し、めっきり減ったけど(2012年)、もう年20~30回が限度となった、ことなどが語られている。

何より大切にした家庭のこと、奥さんや子供のことも語っている。
「背中の痛みがひどいときは、クリームを塗ってもらいながらつい愚痴がこぼれることもある。そんなとき、栄子は決まって言います。「原爆に文句言え。裸になって米国に見せて来い」って。気持が負けそうになったとき、そうやって何度も励まされてきた。」

氏は電電公社の長崎電報局を昭和61年(1986)に退職した。
この本の中で、氏は20年前の退職当時のことを次のように述懐している(、P177)。
>>1986年、定年退職を前に、長年勤めた電報局を退職しました。電電公社が民営化し、NTTに移行した翌年のことです。

背中の痛みが悪化し、体力的にも限界でした。前にも話しましたが、原爆の熱線で焼き尽くされた私の背中には汗腺も皮脂もない。瘢痕(はんこん)という薄い膜で覆われた背中には石灰が沈着し、大きな塊になると膜を突き破って出てきます。このころは次から次に盛り上がってくる塊を取り除くため、何度も手術をしなければなりませんでした。 

電報局は本当に、私によくしてくれた。局長が代わるときは、私のことが引き継ぎ事項に入っていたほどです。治療のため休んでも何も言われませんでしたが、同僚に迷惑をかけるのは嫌だった。被爆者運動に専念したい気持ちもありました。第2回国連軍縮特別総会を経て、国際世論は核兵器廃絶に向かいつつあったからです。<<


最後に、この本の著者が末尾に書いた「おわり」を抜粋します。
>>原爆に人生を狂わされ、必死に生きてこられた谷口さんの姿をありのままに描いたつもりだ。一生癒えない傷を背負い、一枚の写真によって「被爆者の顔」としての役割も負うことになった谷口さんは、戸惑いながら徐々に運動の矢面に立っていった。その時々の谷口さんの怒りや悲しみ、苦悩だけでなく、頑固で茶目っ気のある姿も伝われば幸いである。 
            2014夏 久 知邦<<




コメントを投稿