モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

長崎電信局と原爆

2016年08月12日 | 原爆



以下は、電電退職者の座談会で語られた原爆投下時の長崎電信局の模様です。
出典は、末尾参照。

 
原爆が、落ちたときには、電報局にいました。
当時は、まだ電信局といっていましたが、仮庁舎の蛍茶屋※にいた訳です。丁度あの頃は、通信回線もろくろく動かないし、さぼっていたのか、休憩時間だったのか知らないが、2階の畳の部屋に上がっていて横になっていた。

すると「ピカーッ!」とするもんだから、これは電車のスパークしたものとばかり思っていた。そしたらいきなり爆風が「バァーッ」とくるし、天井からススがバァーと落ちてきた。私は一番奥の方にいたからそうケガはしなかったが、爆風で飛び散ったガラスの破片が顔とか頭に刺さってケガをした人がずいぶんでた。

4時頃家に帰ったが、おふくろと親父は茂木の方に行商に行っていて、兄貴は全部兵隊の取られていたし、弟達も学校、1人は造船、ばあさん1人畳の部屋にポカーンと座っている訳ですよ。やはり、ひどかったですね。壁は傷んでいなかったが、タンスがペタッと倒れているんです。

当時は町内で警防団というのを作っていたんです。今の町内会の消防団のような奴ですね。それで町内の被害状況はどうだったか調ベて回った。しかし、佐古小学校横の西小島※2だから、直接被害は別になかった。ただ夜になっても2人帰ってきていないということで、翌日から探しに行った。

(以下省略~このとき探しに行って目にした長崎市内の悲惨な光景と、探しに行った2人はとうとう見つからなかったことを語っている。)


◇出典:風化に抗して~全電通長崎県支部被爆者連絡協議会、被爆2世協議会編(1990年)
    電電退職者座談会(P108)における長崎電報局出身・大神和一氏の発言

※1蛍茶屋は、長崎市南部の爆心地から5Km圏にある。路面電車の終点。当時、爆撃を予想し措置局として、市街地から移転していた。どのような建物だったか、不明。
市街地の梅ケ崎町にあった長崎電信局(前長崎郵便局)は、建物自体の倒壊は免れたが、外郭を残すのみで、屋根、窓枠、窓ガラスは飛散、天井、壁、扉など室内は大破して、受配課(1階)は、受付窓口の崩壊により10数名の負傷者が出た。また、隣の同局電信課(前大北電信会社)は、負傷者こそ出なかったが、局舎は同様の被害が出た(九州の電信電話百年誌)。

※2長崎県長崎市西小島一丁目にあった公立国民学校。


            
◆後記
1.広島の原爆投下から間のない昭和20年(1945)8月9日午前11時2分、長崎に広島につぐ原爆が投下された。7万人以上の人が一瞬に命を落とした。71回目の原爆の日の長崎平和記念式展で、長崎市長は、累計犠牲者は17万2230人と述べた。
(なお、広島市原爆死没者名簿は、平成28年(2016年)8月6日奉納時で、30万3,195人。)

2.あの日、長崎電信局の被害はどうだったのか。広島のような整理された公式記録は残ってなく、正確なことを書きあぐねて、長崎在住の元長崎電報局長の川口寿男氏と、熊本電気通信学園の同期生横田五一氏に照会し、何度も電話をいただいたり、資料の送付をいただいた。

聞けば、川口氏は、長崎電報局長時代に谷口さんとよく話したことのある方だった。また横田氏は、熊本学園卒業以来、谷口氏と職場がずっと同じで、谷口氏を大変尊敬しており、谷口氏に関する2冊の本、「25年目の回想と証言」なども所有していたものを、今回提供いただいた。
ご両氏のご協力に心から感謝し、お礼申し上げます。


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