小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

ヤクブ・フルシャ&バンベルク交響楽団 (6/29)マーラー『交響曲第3番』

2018-07-02 05:57:55 | クラシック音楽
ツアー最終日となったバンベルク交響楽団のサントリーホールでのマーラー『交響曲第3番 ニ短調』を聴いた(6/29)。フルシャは指揮棒なしでこの曲を振り、後ろ姿からは暗譜にも見えたが、小さなスコアを指揮台に置いていたようだった。偶然にも、サントリーホールのほぼ同じ席で、前日に読響と首席客演指揮者のコルネリウス・マイスターによるマーラーの2番『復活』を聴いたばかりだったので、バンベルクのサウンドの特徴がよりはっきりと把握できたような気がする。金管がとても野太く、野趣に溢れているのだが、これはトロンボーン奏者が垢ぬけていないからではなく、指揮者の指示で意図的に鳴らしている音だと思った。
マーラーには、肉体的でどこか即物的な要素が必要…そう考えたのは、マイスターのマーラーがあまりに形而上学的で透明すぎて、サントリーの空間を埋めるほどの質量を持っていなかったからだ。彼はいい指揮者で何かのきっかけで大化けするタイプだと思うが、読響とのマーラーには力の要素が欠けていた。力と美が手を組まなければ、オーケストラは充分に鳴らないのかも知れない。
フルシャの3番は強靭だった。マーラーは長大な3番で天地創造を描こうとしたと言われているが、自然界を描いているようで自分の内面を描いているのだと思った。1楽章は激越なカオス感に溢れていて、今まであまりそう感じたことはなかったのだが、危険な狂気を醸し出していた。「夏の行進」「バッカスの饗宴」とマーラー自身に形容された楽章だが、フルシャの解釈は決して穏やかなものではなかった。生真面目なバンベルクのサウンドが、哲学的苦悩に悶え、反転したり捻じれたりするマーラー独特の時間感覚をハードに表現した。指揮者のテンポ設計は緻密で、「前に進めない」停滞感と、急にヒステリックに激昂する爆発感を交互に組み合わせ、一人の「人格」がその性格の牢獄の中で苦しんでいるかのような描写をした。作曲にとりかかった1895年の2月に、14歳年下の弟オット―がピストル自殺をしている。それより小さな弟たちは、マーラーが世話をして看取ったのだ。フルシャがスコアから読み取った不条理と狂気は間違いがなかったと思う。

この1楽章は非常に濃厚で時間も長いので、聴く側にも相応の体力が求められた。初っ端からスピードを出して長距離マラソンを走るようなものだ。2楽章のメヌエットが始まる前に合唱とソリストが入場したが、もうチェロ奏者がそわそわと笑顔になってこの楽章が始まるのを楽しみにしているのが伝わってきた。10分とかからない長さだが、私自身も大好きな楽章でいつも「終わらないでずっと聴いていたい」と思う。フルシャはだいぶ速いテンポを採用し、ほのぼのとした野の花を思い出すこの楽章が、ジゼルの狂乱の場を思わせるものになった。くるくると拍子が変わり、花々が風になぎ倒されて斜めになっているようなイメージのところも、フルシャは人間の狂気と結び付けていたようだった。1楽章が男性の狂気だとすると、2楽章は女性の狂気に思えてならなかった。「ルチア」の狂乱シーンも思い出された。それでいて官能的で魅力的な旋律が薫るように噴き出すので、件のチェロ奏者たちは恍惚の表情でこれを演奏していた。

7番『夜の歌』を思わせる3楽章の動物たちの音楽は、マーラーの奇想がパノラマのように展開し、各パートが擬態の職人芸を見せた。フルシャはとても丁寧に音楽を作っていて、全パートに細やかな「演出」を行っていたようだった。マーラー3番のような曲は、信頼関係と充分な準備の時間がなければ完成しないのかも知れない。4楽章でニーチェの詩編を歌ったメゾソプラノのステファニー・イラーニは見たところまだ若く、とても緊張していたようで、あの音数の少なさで表現しなければならない歌手の方も大変だろう。普段の自分の豊かさを、何とかここで出そうと真剣に取り組んでいたのが感じられた。この楽章ではもっと熟した重めの声が欲しいとも思ったが、5楽章での少年少女合唱との歌はよく声が通っていた。若いうちにマーラー3番に乗ることが出来るのは、幸運なことなのだ。フルシャもソリストに感謝しながら振っている様子で、好感の持てる演奏だった。

6楽章の眠るような天国のような壮大な音楽は、本当に愛の音楽だった。ジョン・ノイマイヤーがマーラー3番の全楽章に振り付けたバレエの中でも、この6楽章は本当に美しく生命の本質を訴えてくる。この日のフルシャが1楽章から聴かせてくれた世界観の中で、6楽章へとたどり着いたときの感動は凄まじかった。1楽章で「個」の牢獄に閉じ込められて苦悩する魂が、ここでようやく自分と言う呪縛から解き放たれ、他者の愛の中に精神を溶かし込む…すると静寂と安らぎが訪れ、生まれ変わったような時間を生きることが可能になるのだ。それでも、この楽章にも既に永遠の時間への疑惑が描かれていて、すべてが無になるような残酷な予兆がやってくる。マーラーは自分の人生においても預言者であった。
バンベルク響の献身は素晴らしく、1時間45分の中でフルシャが背負ったマーラーの苦悩と救済を克明に生きたサウンドにしてみせた。これこそがオーケストラの本質なのではないか…素晴らしいボディのある音楽で、心臓部にはしっかりと指揮者がいた。
普段はあまりバックステージを訪れない私だが、矢も楯もたまらずこの日はフルシャに挨拶に行った。大勢の人々が祝福に詰めかける中、フルシャの顔が神々しく見えた。巨大な愛の音楽を溢れたさせた青年の顔は、本当に美しかったのである。