小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

都響×ダニエル・ハーディング(8/9)

2024-08-10 19:14:35 | クラシック音楽
都響とハーディングの待ち望まれた初共演は二日間とも完売。満員のサントリーホールでベルク『7つの初期の歌』とマーラー『交響曲第1番《巨人》』を聴く。何から語ったらいいのか。ハーディングは音楽ライターとしての自分に、永遠の夏休みを与えてくれたという意味で、神のような指揮者である。本人とは話したことはないが、2016年のパリ管来日公演でハーディングが指揮したマーラー5番に「恐怖を感じる」という感想を書き、炎上した。そこから8年の日々。ハーディングが振るマーラーは、私の運命を変えたと思う。
都響の感想の前に、そのあらましを書いてみたい。

2016年秋、パリ管のシェフに就任したばかりのハーディングがオケを率いて振ったマラ5は、直観的に自分に被害者(!)の意識を感じさせるもので、当時もうまく言葉に出来なかったと思うが、内容としては印刷された楽譜を完璧に、迫力をもって再現していた。2016年当時、今よりは多忙な音楽ライターだった自分は、記者懇親会で同席する評論家やSNS上のクラシックファンから「頭の悪いお前にクラシックは語らせまい」というお叱りを立て続けに受け、元々頭脳派でもないので自分なりの批評の軸を必死に探していた。
ハーディングの超理路整然とした指揮と、そこで一致団結したパリのエリートたちの演奏は、「やはり自分には相容れない世界なのか」と打ちのめしてくる音楽で、最終楽章は「ワーテルローの戦い」のような戦争画を想像した。

その同じ年には、新日本フィルとの最後の共演があった。それもマーラーだった。指揮者なら光栄であるはずの《千人》のリハーサルにハーディングが現れず、声楽ソリストの一人から「ハーディングから色々学ぶのを楽しみにしていたが、本人がいない。23歳のアシスタントでは何とも頼りない」とメールが来た。ウィーン・フィルでのガッティの代役を優先したハーディングの気持ちも分かる。傷ついたのは、サントリーホールの公演でほとんどリハをしていないハーディングが、本番で見事な手旗信号をこなしたことだった。すみだの2回の本番は実質ゲネプロで、最後のサントリーだけが本番、という声もあった。
「それなのに完璧に振っているように見える」ことが自分にはショックだった。
本物のエリートで、本物の天才だと思った。

パリ管の来日は件の《千人》の後で、マーラーはBプログラム。Aプログラムでは感じなかった激しい拒絶感がマラ5に走った。マーラーのボヘミア性や男性としての脆弱性を完全に抜き去った「推進力」に満ちたヒロイックな指揮に、世界で最も優秀なオケのひとつであるパリ管が一致団結して応えている。その様子に、違和感がこみ上げた。咄嗟に思い出したのは2015年に起こったシャルリー・エブド襲撃テロだった。イスラム教徒と指導者を戯画化する大衆誌シャルリー・エブドの編集部が襲撃され、多くの死者が出、パリ中が震えた。エキゾチックなものや異教的なもの、マイナーな他者に対して理解を遮断すると、どういうことになるのかということを考えさせる事件だった。

混乱した頭で、しかし自分なりにある程度の節度をもって「パリ管のようなエリート集団にこのような演奏をさせるのは危険だ」という感想を書いた。「軍隊的で白人優位的で、ハーディングの音楽からはマーラーの精神が感じられぬ」とも書いた。このマーラーからはパリのテロのような、異質なもの・少数派の立場にいる者への不寛容からくる暴力事件の萌芽を感じたのだ。それを読んだパリ在住の読者から「パリに住んでいる者としてそのような感想はわれわれの恐怖を煽る。取り消せ」と怒りのメッセージが届き、慌てて謝罪すると、当時のパリ管のセカンド・トップの千々岩さんから「感じたままをお書きになったらいいと思いますよ」と、皮肉とも励ましともつかぬリプライをいただいた。

炎上の後、音楽ライターとしては踏んだり蹴ったりで、新日フィル時代からのハーディングのファンからは唾を吐かれるような態度を取られ、仲良くしていた「オーケストラファン」とも次第に険悪になり、当たり前のように受けていたライナーノーツやインタビューの仕事も激減していった。ハーディングの音楽から感じた恐怖を綴っただけのつもりだったが…永遠の夏休みのような仕事の少ない時間は、「これが今の自分の評論への世界からの答えなのだ」と感じさせるに十分だった。他にも色々書き手として不備な点はあったと思うが、すべては2016年のあの炎上から始まった。

「好きでないのなら、聴きにいかなければいい」と先輩の評論家から諭された。しかし、この仕事をしていてパリ管や都響を聴きたくないわけがない。今年に入ってから、都響は雲の上にいるような凄い演奏を立て続けに聴かせてくれた。アダムズ、インバル、フルシャ、ギルバート…ギルバートの感動的なコンサートからわずかな日しか経っていない。アラン・ギルバートは桁外れの指揮者で、オーケストラのサウンドの「粒子」まで変えてしまう。同時期に聴いたノットが色褪せた。ノットは情熱的でカリスマティックだが、平面的で活劇的な音楽を鳴らしていると感じることがある。

前半のベルクは世紀末の退廃感漂う妖艶な曲で、エメラルド色のドレスを着て登場したソプラノのニカ・ゴリッチは美しく、美声。最初は少し伸びやかさが足りないと感じたが、2曲目から羽根の生えたようなめざましい高音で魅了してきた。R・シュトラウスの「4つの最後の歌」を連想したが、ベルクのこの曲は耳に新鮮で、これなら後半も大丈夫だと思った。

マーラーの1番は魔法のような音楽だと思う。きらびやかで面白く、金管の立奏はいかにもエンターテイメント的だ。
始まって間もなくして、「クリスマスツリーのようなマーラーだ」と思った。強弱やソロの抑揚にこだわり抜いた指揮は、それらの部品が全体としての塊にならないまま、次々と虚空へ消えていく。都響のプレイヤーは見事なのだ。毎秒毎秒行われていることは素晴らしい。しかし、表面を飾り立てられたサウンドは「マーラーは何者か」ということも「指揮者がマーラーをどういう人物としてとらえているか」も伝えてこない。自分は過去に色々ありすぎて、ハーディングの音楽に偏見があるのではないか? と新しい耳で聴こうと努力する。都響は精緻でデラックスな音を出していたと思う。

なぜか突然、2013年のスカラ座来日公演でハーディングがヴェルディの『ファルスタッフ』を振ったときのことを思い出した。もうひとつの演目は『リゴレット』で、こちらはなぜかドゥダメルが指揮をした。『ファルスタッフ』はある意味、ドリブル、パス、シュート、的な運動神経が求められるオペラだから(もちろんそれだけではないが)、ハーディングによく合っていた。目の前の指揮者のきびきびした動きに、電気信号的なものを感じる。「指揮」と「操縦」はどこか似ている。ハーディングが指揮者をやめてエールフランスに就職した「パイロット」であることは、もうなかったことになっているのだろうか。

指揮者に誠実さを見せつつ、2016年のパリ管のように「一致団結して燃え上がる」ことを最後までしなかった都響に、何か信頼感みたいなものを感じた。オーケストラと指揮者との間にあるデリケートなものがあるのだ。ある奏者は「見事な指揮だ」と思い、別の奏者は「そうでもない」と思ったのかも知れない。インバルやギルバートのときと、何が違うのか理屈で説明してみろ、と言われたら「オケの心からひとつになるか否か」と答えたいが、これは「科学的に説明」できない。

個人的に、英国の指揮者に苦手な人が多いのかも知れない。ラトルもさっぱり理解できなかった。どんなにフレンドリーでも、階級社会のエリートとしての限界が見える。才能があれば、社会的に「指揮者」という玉座が、当たり前のように用意されている。我が国指揮者の秋山さん、小泉さん、尾高さんは侍の精神で心を研ぎ澄まして指揮者になった人々で、そういう方たちの音楽には当然、凄味がある。
オーケストラを聴き続けてきて、喜びも多かったが「あまりにも苦しめられたわ!」と果物ナイフを振り上げるトスカのような気持ちになることもある。音楽も人の生き方も、表面を飾っただけの代物は信じられない。



「ワーテルローの戦い」



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