小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

ローマ歌劇場『マノン・レスコー』(9/20)

2018-09-22 10:14:40 | オペラ
神奈川県民ホールでの初日が好評だったローマ歌劇場の『マノン・レスコー』の二日目を上野の東京文化会館で観た。METで大活躍の「新・オペラの女王」クリスティーネ・オポライスの東京初の公演となる。この一週間ほど前にオケつきの歌手の稽古を見学し、巨匠ドナート・レンツェッティの巧みな指揮に驚愕したが、完璧な形で照明が入ったことでキアラ・ムーティの演出の長所も多く発見できた。歌手たちの出来栄えも良く、深く記憶に残る公演となった。

何をおいても作曲家プッチーニの巨大な知性に最初から最後まで驚かされた。個人的にプッチーニといえば「トスカ」「ボエーム」「蝶々さん」と即答するほどこの3つのオペラが好きだったが、この公演で『マノン・レスコー』がマイ・ベストになった。1893年初演(トリノ)でヴェルディはまだ生きていたが、35歳のプッチーニは偉大な先輩と全く違うスタイルの野心作を世に問うたのだ。完成まで9年もリコルディ社に養われていたという。長すぎる年月にも感じられるが、「自分は天才なのだ」という揺るぎない自信があったのだろう。ワーグナーのようなシンフォニックなオーケストレーションにフランス印象派の未来的な和声感が加味され、イタリア的なアリアはポップ・ミュージックを先取りするような親しみやすさがある。

キアラ・ムーティは、絵巻物のようにスピーディに展開するプッチーニの音楽を、巧みな群衆の動きとダンス、芝居で表し、最初から最後まで背景には砂漠があった。照明によってこの砂漠がさまざまに色に変化する。ブルーになったり、グレーになったり、カーテンコールでは初めてチョコレート色になったりもした。心理的な象徴として不毛の地が描かれていたが、それよりも人間関係の描き方のほうが面白く感じられた。オーケストラの些細なきっかけをつかんで、印象的なアクションを起こす。エドモンドとレスコーが「いがみあう仲」として描かれていたのはこのプロダクションで初めて見る。打楽器の面白い音にあわせて、レスコーがエドモンドのお尻に蹴りを入れるのだが、確かにマノンとデ・グリューの駆け落ちを助けるエドモンドは、妹を金持ちに売りつけたいレスコーにとっては不利益な人物で、それを気づかされる面白い演出だ。

グレゴリー・クンデは真っ黒なウィッグで若作りにも見えるデ・グリューだが、演技が本当に初々しい。マノンに一目惚れしたとき「こんなまぶしいものは見ていられない」というように後ろを向き、それでもチラチラと彼女のほうを見る。また後ろを向いて恥じらう。この繰り返しで、ティーンエイジャーそのものなのだ。キアラは記者会見で女性演出家であることのメリットを質問され「強いて言えば、私は女性の初恋の気持ちが分かること」と答えていたが、初恋の初々しさに男も女も関係なく、その言葉はデ・グリューの演技に生かされていた。
元気いっぱいの騒々しい若者群像を描いていたオーケストラは、マノンとデ・グリューの出会いのシーンで急に聖なる教会音楽のようになる。ここからアリア「見たこともない美女」までの流れは格別に美しかった。

ドナート・レンツェッティの音楽作りは非常に大きな呼吸感で、一気呵成にダイナミックな流れを作り、オケはめまぐるしく巨大化したり自在に縮んだりする。弦はふくよかで艶めき、管は機敏で表情豊かで、ハープやきらきらした楽器がダイヤモンドのようにトッピングされる。打楽器のアクセントは雷鳴的で、きっぱりとした読点のように物語の輪郭を浮き立たせる。オペラの物語というのはほとんどが荒唐無稽なものなのだが、そこに説得力を持たせるのは紛れもなくオケなのだ。デ・グリューが恋におちるとき、音楽は一斉に「人が正気を失うような」麻薬的な世界を創り上げる。マノンの美、恋の陶酔…それが善悪の感覚までなくして、人間を狂気の領域に陥れる。
ドナート・レンツェッティは素晴らしい指揮者で、その麻薬的な音楽が「耽溺するような」音ではなく…むしろ徹底して理知的でニュートラルなものであった。プッチーニの音楽の本質にはある厳しさがあって、作曲家はオペラを通じて「これが人間の姿である」という哲学を描こうとする。巨視的な視点から人物を俯瞰し、マノンを妾にして逃げられた老ジェロンテの悔しさや無念さもオケで表す。どの人物にも生きた心があり、矛盾に苛まれる苦しさがある。

キアラ・ムーティ演出では、兄のレスコーの存在感が大きく、これはとても理にかなったものだった。レスコーこそがこの狂った悲劇のシナリオ作者であり、愚かなギャンブラーであり、全部の人間に対する裏切り者なのだった。老いた富豪ジェロンテに妹を売りつける女衒で、デ・グリューの「親友」で、妹を見て「退屈した女の子ほど危険なものはない」とわざわざデ・グリューと妹を再会させる。ハンサムなバリトン歌手のアレッサンドロ・ルオンゴが名演だった。キアラ・ムーティは彼が本当に信用のおけないろくでなしであることを顕すために、ワインでべろべろに酩酊している演技をさせるのだが、勢いあまって椅子ごとひっくり返る芝居には驚いた…彼はゲネプロでも真剣に椅子と一緒に転んでいた。

主役のオポライスは演出家にとって理想の女優だろう。感情表現が巧みで、動きも軽やかでダンスもうまい。声もドラマティックで、21世紀のプッチーニ・ヒロインと呼ぶに相応しい。一昔前の、歌手ののど自慢のような演技はどんどん古臭く感じられる時代になってきている。ネトレプコも演技派というか、一種の憑依的なヒロインの芝居でセンターに出てきた人だが、オポライスはさらに芝居寄りで、共演者と呼吸感を創り上げるセンスに長けている。20日の公演は、飛ばしまくりだった神奈川のゲネプロのときより前半は抑え目だったが、3幕以降は自分を解き放っていた。死にゆくヒロイン役を演じるのが得意なのだ。プッチーニの主人公はほぼ全員死ぬのだから、死ぬのを嫌がっていては演じられない。

『マノン・レスコー』でも、小さな命が死んでいく場面が素晴らしかった。ミミやリューやトスカや蝶々さんが死ぬ場面も好きだが、マノンの死は先日ミキエレット演出の二期会で観た『修道女アンジェリカ』を思い出した。不安でどす黒い音楽が急にサイケデリックで明るくなり、天国の扉が開いたようなサウンドになる。
このオペラには、本当に愚かな人間しか出てこない。蝶々さんにはシャープレスというまともな人が出てくるが、マノンにはお馬鹿さんしかいない。皆が人間の無防備な姿をさらけ出して、間違った道をいく。プッチーニは、そんな凡人たちの人生にも等しく訪れる奇跡の愛の瞬間や、聖なる誓いの瞬間を見逃さなかった。ヴェルディがセレブの悲劇を描いたのとは正反対で、ここにもプッチーニの独自性がある。

イタリアオペラはスカラ、フェニーチェ、トリノが格上でローマは…という批評家の方々は、見聞が広くて素晴らしいと思うが、私はこのローマのマノン・レスコーのプロダクションにはオペラの最良のものが凝縮していたと思う。カーテンコールでは一階席の観客が熱狂して、総立ちになって舞台前方に押し寄せた。オポライスは大喜び。この日はグレゴリー・クンデへの喝采が大きかった。最初から最後まで勇敢で真剣なデ・グリューを演じていた。
オポライスもクンデも、このローマのプロダクションには初参加で、初日のずいぶん前から来日してキアラと稽古をしており、日本のダンサーやエキストラも入念な準備をして本番に備えていた。そうした意味でも、日本と共作の「引っ越し公演」と言える。バックステージにある豊かさや充実感が、本番で炸裂していた。22日にも公演が行われる。



























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