キャスリーン・バトルの14年ぶりの来日リサイタルをサントリーホールで聴いた(10/19)。バトルといえばまだ田舎の学生だった頃、洋酒のCMで美しい歌声と女神のような姿に魅了された伝説のディーバ。第一線での活動を退いてからだいぶ経ち、再びライヴで彼女の歌声を聴けるとは思わなかった。
遅刻をしてしまったので、楽しみにしていたヘンデルの「オンブラ・マイ・フ」は聴けず。ホールの扉越しにシューベルトの「糸をつむぐグレートヒェン」が聴こえてきたが、ブランクを感じさせない朗々たる美声で、聴衆も熱狂しているのが伝わってきた。
メンデルスゾーン「新しい恋」から中で聴く。69歳(!)のバトルは緋色のドレスに金色のローブをまとい、その表情には少女のような清らかさがあった。姿を見た瞬間「あっ」と思った。醜いしわのひとつもなく、タイトにまとめた髪の毛の額は清々しく乙女のような気配が漂っている。
バトルの声について「声量に欠ける」という評をよく見るが、この夜の彼女の声に「足りない」という思うことはなかった。恐らくサントリーホールのアコースティックも味方につけていたのだろうが…澄み切ったソプラノはホールをのびのびと旋回し、龍のごとく舞い上がって天空へ伸びて行った。若々しく自由自在で、歌手自身、復帰のために万全の準備を重ねてきたことが伝わってきた。
それでも、有名な「歌の翼に」では、祈るようにして高音を出しているのが伝わってきた。メンデルスゾーンは少しばかり苦労をしているようで、やや艶に欠けるところがあったと思う。そのことで、この夜の彼女を悪く言う人がいたらどうしよう…とたちまち心配になった。
しかし心配は無用だった。次のラフマニノフは見事に盛り返し「春の奔流」では歌の神様を味方につけて奇跡のハイトーンを響かせた。こんなに素敵な金色の歌声で前半を終えるなんて、なんというグッド・アイデアだろう。ピアニストのジョエル・マーティンもノリノリで本当にうまい。
プログラムには、NY在住のジャーナリスト小林伸太郎さんが22年ぶりにMETにリサイタルで復帰したバトルの評を書かれていた。小林さんとは2006年のネトレプコのMETでの取材を一緒にさせていただいて以来、何度かお話をしたことがある。とても優しい方で、文章も素晴らしく、こうして自分の感想を書いていても小林さんの言葉とともに考えているような気になる。バトルがMETの大スターの座を降ろされたのは、彼女の少しばかりエキセントリックな性格に起因しているらしい。レヴァインはバトルの才能を高く買っていたが、庇い切ることが出来なかったという。
「すごい歌姫」はなぜか全盛期が短い。マリア・カラスは53歳で亡くなったが、彼女の実際の最盛期はとても短かったという人もいる。
素晴らしすぎることは長続きしない…しかしこれは本当に本人のせいだろうか? アンナ・ネトレプコはこのジンクスに全力で抵抗し、バトルもこの罠から解放された。素晴らしい歌手であることは、罪人であることと同じような意味をもつのかも知れない。
後半のリスト「ローレライ」はやや硬い表情だった。メンデルスゾーンとリストは曲の相性がよくないのかも知れない。高音で少しばかりハラハラした。そこに私にも罠が仕掛けられた。バトルの歌声を生で聴くのが初めてなのに、「全盛期と比べて…」という批評家じみた言葉が頭の中にもやついたのだ。年齢が、ブランクが…ということ以上に、もっと大切なことがあるのに、すぐにそれを忘れそうになる。
本質的に、音楽家というのは受難の存在であり、プロの評論家だけでない、素人の評論家(?)までが憎しみを込めて演奏のジャッジメントを行う。判で押したような役割意識であり、未来のない驕慢で吝嗇な態度で、音楽家はそのことに傷ついても反論しない。
それでも私のもとには、音楽家を大切に思う人たちから「あれには、ああいう事情があったのだ」というメッセージが届く。年若い演奏家の親御さんや、アーティストを大切に育ててきたマネジメントの方々からの言葉だ。私はそれを受け入れることに決めた。
バトルが辛そうだったのは「ローレライ」だけで、次のオブラドルス「一番細い髪の毛で」からみるみるうちに声に豊かさを蓄えて、自信にみなぎる歌を聴かせた。語り掛けるような仕草で、ぶどう畑型のホールの全方位に顔を向け、P席のお客さんにも「私は少数派を大切にするの!」と言わんばかりに歌を届ける。そうしているうちに、ピアニストのジョエル・マーティンが見事なイントロを弾き始めた。ガーシュウィンの「サマータイム」。そこからはもう、バトルの天下である。アメリカン・ミュージカルのレパートリーが繰り広げられ、ロジャース&ハマースタインの「マイ・フェイバリット・シングス」では、天にも昇るようなわくわくした気分を味わわせてくれた。歌姫の勝利だった。
プログラム本編の最後は黒人霊歌が続いた。「ハッシュ」にはじまって、プログラムには載っていない「スウィング・ロウ、スウィート・チャリオット」も歌った。私はこの曲を聴くと即座に涙がでてしまい、大変なことになるのだが…1870年代の黒人たちが、天国について歌った「君がもし先に着いたのなら、僕もすぐに行くよと伝えてくれ」という歌で、黒人のカウンターテナー歌手が歌った素晴らしいヴァージョンを、昔ラジオのパーソナリティをやっていたときによくかけた。
本当に素晴らしいメロディで、黒人歌手は誰一人としてこの歌を同じようには歌わない。一人一人リズムや節回しが違うのだ。「家庭の味」のように、その地域によって別々に歌われてきたのかも知れない。
このリサイタルのテーマは「ルーツ」ということだったのだろう。子供の頃から教会や学校で讃美歌を歌ってきたバトルは、自分自身のすべてを日本の聴衆に見せ、アンコールでは「この道」を日本語で歌った。私たちのルーツにも敬意を向けてくれたのだ。
そこからの彼女は本当に素晴らしく、何度も何度もカーテンコールに応じて数えきれないほどのゴスペルを歌った。「スウィング・ロウ…」もアカペラで再び歌った。大いなる神とつながって巨大なパワーを放出している様子は、奇跡のようだった。
歌姫は、素晴らしければ素晴らしいほど罪人のように憎まれる…。人間の心の闇がそうさせる。音楽家の中でも歌手、とりわけ女性は辛い存在で、女性が女性であることが罪だという人もいるからだ。そうすると歌手で、女性で、黒人である人はどうなるのだろうか。あれほど大きな賞賛を得ながら、バトルはずっと闘ってきたのではないか…。
しかし彼女は逆襲を果たした。アンコールの最後でキャスリーン・バトルは「この世はなんとビューティフルな場所か!」と高らかに歌ったのだ。
遅刻をしてしまったので、楽しみにしていたヘンデルの「オンブラ・マイ・フ」は聴けず。ホールの扉越しにシューベルトの「糸をつむぐグレートヒェン」が聴こえてきたが、ブランクを感じさせない朗々たる美声で、聴衆も熱狂しているのが伝わってきた。
メンデルスゾーン「新しい恋」から中で聴く。69歳(!)のバトルは緋色のドレスに金色のローブをまとい、その表情には少女のような清らかさがあった。姿を見た瞬間「あっ」と思った。醜いしわのひとつもなく、タイトにまとめた髪の毛の額は清々しく乙女のような気配が漂っている。
バトルの声について「声量に欠ける」という評をよく見るが、この夜の彼女の声に「足りない」という思うことはなかった。恐らくサントリーホールのアコースティックも味方につけていたのだろうが…澄み切ったソプラノはホールをのびのびと旋回し、龍のごとく舞い上がって天空へ伸びて行った。若々しく自由自在で、歌手自身、復帰のために万全の準備を重ねてきたことが伝わってきた。
それでも、有名な「歌の翼に」では、祈るようにして高音を出しているのが伝わってきた。メンデルスゾーンは少しばかり苦労をしているようで、やや艶に欠けるところがあったと思う。そのことで、この夜の彼女を悪く言う人がいたらどうしよう…とたちまち心配になった。
しかし心配は無用だった。次のラフマニノフは見事に盛り返し「春の奔流」では歌の神様を味方につけて奇跡のハイトーンを響かせた。こんなに素敵な金色の歌声で前半を終えるなんて、なんというグッド・アイデアだろう。ピアニストのジョエル・マーティンもノリノリで本当にうまい。
プログラムには、NY在住のジャーナリスト小林伸太郎さんが22年ぶりにMETにリサイタルで復帰したバトルの評を書かれていた。小林さんとは2006年のネトレプコのMETでの取材を一緒にさせていただいて以来、何度かお話をしたことがある。とても優しい方で、文章も素晴らしく、こうして自分の感想を書いていても小林さんの言葉とともに考えているような気になる。バトルがMETの大スターの座を降ろされたのは、彼女の少しばかりエキセントリックな性格に起因しているらしい。レヴァインはバトルの才能を高く買っていたが、庇い切ることが出来なかったという。
「すごい歌姫」はなぜか全盛期が短い。マリア・カラスは53歳で亡くなったが、彼女の実際の最盛期はとても短かったという人もいる。
素晴らしすぎることは長続きしない…しかしこれは本当に本人のせいだろうか? アンナ・ネトレプコはこのジンクスに全力で抵抗し、バトルもこの罠から解放された。素晴らしい歌手であることは、罪人であることと同じような意味をもつのかも知れない。
後半のリスト「ローレライ」はやや硬い表情だった。メンデルスゾーンとリストは曲の相性がよくないのかも知れない。高音で少しばかりハラハラした。そこに私にも罠が仕掛けられた。バトルの歌声を生で聴くのが初めてなのに、「全盛期と比べて…」という批評家じみた言葉が頭の中にもやついたのだ。年齢が、ブランクが…ということ以上に、もっと大切なことがあるのに、すぐにそれを忘れそうになる。
本質的に、音楽家というのは受難の存在であり、プロの評論家だけでない、素人の評論家(?)までが憎しみを込めて演奏のジャッジメントを行う。判で押したような役割意識であり、未来のない驕慢で吝嗇な態度で、音楽家はそのことに傷ついても反論しない。
それでも私のもとには、音楽家を大切に思う人たちから「あれには、ああいう事情があったのだ」というメッセージが届く。年若い演奏家の親御さんや、アーティストを大切に育ててきたマネジメントの方々からの言葉だ。私はそれを受け入れることに決めた。
バトルが辛そうだったのは「ローレライ」だけで、次のオブラドルス「一番細い髪の毛で」からみるみるうちに声に豊かさを蓄えて、自信にみなぎる歌を聴かせた。語り掛けるような仕草で、ぶどう畑型のホールの全方位に顔を向け、P席のお客さんにも「私は少数派を大切にするの!」と言わんばかりに歌を届ける。そうしているうちに、ピアニストのジョエル・マーティンが見事なイントロを弾き始めた。ガーシュウィンの「サマータイム」。そこからはもう、バトルの天下である。アメリカン・ミュージカルのレパートリーが繰り広げられ、ロジャース&ハマースタインの「マイ・フェイバリット・シングス」では、天にも昇るようなわくわくした気分を味わわせてくれた。歌姫の勝利だった。
プログラム本編の最後は黒人霊歌が続いた。「ハッシュ」にはじまって、プログラムには載っていない「スウィング・ロウ、スウィート・チャリオット」も歌った。私はこの曲を聴くと即座に涙がでてしまい、大変なことになるのだが…1870年代の黒人たちが、天国について歌った「君がもし先に着いたのなら、僕もすぐに行くよと伝えてくれ」という歌で、黒人のカウンターテナー歌手が歌った素晴らしいヴァージョンを、昔ラジオのパーソナリティをやっていたときによくかけた。
本当に素晴らしいメロディで、黒人歌手は誰一人としてこの歌を同じようには歌わない。一人一人リズムや節回しが違うのだ。「家庭の味」のように、その地域によって別々に歌われてきたのかも知れない。
このリサイタルのテーマは「ルーツ」ということだったのだろう。子供の頃から教会や学校で讃美歌を歌ってきたバトルは、自分自身のすべてを日本の聴衆に見せ、アンコールでは「この道」を日本語で歌った。私たちのルーツにも敬意を向けてくれたのだ。
そこからの彼女は本当に素晴らしく、何度も何度もカーテンコールに応じて数えきれないほどのゴスペルを歌った。「スウィング・ロウ…」もアカペラで再び歌った。大いなる神とつながって巨大なパワーを放出している様子は、奇跡のようだった。
歌姫は、素晴らしければ素晴らしいほど罪人のように憎まれる…。人間の心の闇がそうさせる。音楽家の中でも歌手、とりわけ女性は辛い存在で、女性が女性であることが罪だという人もいるからだ。そうすると歌手で、女性で、黒人である人はどうなるのだろうか。あれほど大きな賞賛を得ながら、バトルはずっと闘ってきたのではないか…。
しかし彼女は逆襲を果たした。アンコールの最後でキャスリーン・バトルは「この世はなんとビューティフルな場所か!」と高らかに歌ったのだ。