2024年度全国共同制作オペラ『ラ・ボエーム』を東京芸術劇場で鑑賞。このシリーズの名作『フィガロの結婚』(野田版)でも指揮をされていた井上道義さんが甘美で壮大なプッチーニを振った。今年いっぱいで指揮者を引退される道義先生の最後のオペラで、オーケストラは読響。大好きなボエームが、改めて「超」名作であることに驚き、先日からムーティ『アッティラ』ミョンフン『マクベス』とヴェルディの偉大さに触れる機会が続いていただけに、それとはまったく別のプッチーニの崇高さというものに圧倒された。
1幕のボヘミアンたちの屋根裏での大騒ぎは楽しく、ロドルフォ工藤和真さん、マルチェッロ池内響さん、コッリーネ・スタニスラフ・ヴォロビョフさん、ショナール高橋洋介さんが1830年代のパリの若者たちを演じ、池内マルチェッロは画家の藤田嗣治と同じ風貌をしている。ヘアメイクの効果とはいえ写真のフジタとそっくり過ぎて、ついつい目で追ってしまう。家賃を取り立てに来る大家ベノアは晴雅彦さんで、大きなワイン瓶のオブジェとともに若い衆と喧々諤々やる様子が楽しい。オーケストラは次から次へとやってくるシークエンスを畳み込むように積み重ね、ストラヴィンスキーの『ペトルーシュカ』を思い出した。プッチーニはストラヴィンスキーより24歳年上だからその感覚は奇妙なのだが、オーケストラは明らかにイタリアオペラの枠をはみ出して、ワーグナーやチャイコフスキーに比肩する壮大さを表している。二階のかなり後ろの席だったのでピットのすべてが見えたが、詰め詰めに並んだ管楽器が壮観だった。
ミミのルザン・マンタシャンはアルメニア出身で、今年に入って英国ロイヤルオペラやウィーン国立歌劇場でデビューを飾った新星ソプラノ。はっとしたのは、ロドルフォから蠟燭の火をもらって部屋を出て行こうとし、踵を返してくるときのミミがとても上品だったことで、オーケストラも「優しくて繊細なミミ」をサポートしていた。ここで妙に「ケモノっぽくなるミミ」を何人も見てきて、「鍵をなくした」というのも口実なので確かにうそをついているのだが、過剰にメスっぽくなっては観る側も興ざめになる。
ミミはプッチーニのオペラの中で最も美しい女性で、それは作曲家のノスタルジーの中にいるヒロインで、遠い憧れであり喪失であり、ダンテのベアトリーチェのような理想化された存在なのではないか。プッチーニはミラノ音楽院で学んでいた貧乏学生だった頃の自分を思い出してボエームを書いたという。ミミは寒い部屋の中にともる蠟燭の灯のような女性で、守ってあげたくても守ってあげられない風前の灯火のような儚い存在なのだ。
ロドルフォの「冷たい手を」は引き延ばされたようなスローテンポで、先程まで男同士の馬鹿騒ぎをしていた若者が別人みたいになり、心はすっかり夢の世界に入り込んでいる。歌手にとってはハードなテンポかと思われたが、工藤和真さんは勇敢に歌い切り、ハイCも見事だった。続く「私の名はミミ」もソプラノはゆっくりゆっくり歌う。道義先生にとってこのシーンはこうなのか…と胸が熱くなった。愛の思い出のすべてがオーケストラの夢幻のサウンドになり、二人が静かに袖に消えていく二重唱は、眠りの中へと溶け込んでいくような感じがした。
全国共同制作オペラは毎回アウトローな(?)演出家を起用する伝統があり「奇抜なことをやってこそ」という懐の深さがかなりスリリングな域にまで達していたプロダクションも観せてもらったが、2018年の『ドン・ジョヴァンニ』の演出も手掛けた森山開次さんは、ダンサーや道化を使いながらも逸脱的なことはやらず、結果的に指揮者がリードするプッチーニとなった。ストーリー作りは完全に指揮者が行い、登場人物の性格も指揮者が作っていた。一幕の屋根裏部屋から二幕のカフェモミュスへの場面転換は道化が面白おかしいジェスチャーをし、その背後でカフェの舞台が作られていくというもので、意図的なのかも知れないが、かなり長く感じられた。セッティングが終わると、クリスマスの楽しいシーンが始まる。
今回道義先生は字幕も担当しているが「ムゼッタのワルツ」はかなりぶっ飛んでいて、大笑い。その後も「えっ?」というような字幕がたくさん出てきた。イローナ・レヴォルスカヤが妖艶でコケティッシュなムゼッタを好演。ムゼッタと藤田似のマルチェッロは妙に絵になるカップルで、藤田がパリではモテモテでモデルの西洋女性の柔肌をオリジナルの顔料で表現し、作品が高く売れていたことなども思い出した。世田谷ジュニア合唱団は全員黒猫のコスチュームを着て、元気いっぱい。まだ小さい方もいて、カーテンコールでマリンバのように背丈の順に並ぶ様子も可愛らしかった。
3幕の音楽の美しさは衝撃的だった。ほとんど宗教音楽の美で、隠者のような装束の女声コーラスがレクイエムのような歌を歌い、オーケストラも聖なる響きを奏で、ここではマスカーニを思い出した。マスカーニはプッチーニより少しだけ早く出世したが、音楽が一番素晴らしいのは『カヴァレリア・ルスティカーナ』で、ボエームの3幕はカヴァレリア…を彷彿とさせる。貧しさゆえに別れを決意し、それでも春までは一緒にいようと歌うカップルの重唱が、ミサ曲のようなのだ。ムゼッタのけたたましい声とマルチェッロの罵声がその静けさを切り裂くが、そうでもしないとオペラにならないのだろう。3幕の最初と最後の「ズッ、チャッ」という二音も異化効果っぽい。
ミミが息絶える4幕は伏線となっていたライトモティーフが溢れ出し、客席の涙腺も大いに緩むが、「プッチーニは泣かせるから通俗的」なのではなく、音楽的には3幕の聖なる余韻が4幕につながっている。小さな恋愛物語のようで、「海よりも深くて果てしない(ミミ)」宇宙的な愛のオペラで、ミミは完璧な聖女となって天に召されていく。原作のミミは狡猾なところもあるというが、プッチーニの音楽には描かれていない。現代的な意識をもつ歌手の中には「ミミは死ぬから好きじゃない」という人もいて、それはそれで納得がいく。極度に理想化された女性を女自身はどう歌ったらいいのか、ということなのだろう。死相が現れている女性に「朝焼けのようにきれいだ」と言うのは、愛を美化しているからで、現実ではない。そんなことを問うのはナンセンスだ。指揮者とオーケストラがプッチーニの憧れと郷愁を炙り出し、女性という至上の存在を浮き上がらせた。「道義先生にとって、女性とは女神のような存在だったのだ」と同時に納得し、ここまでオペラで女神を表せるマエストロは凄い、と腰が抜けた。読響も本当に素晴らしい。世界中のどの歌劇場オーケストラより凄いと確信した。
ボエームはセピア色の恋で、過ぎ去りし日の一枚の写真のような恋。若い頃の記憶は最近の出来事より鮮明なのは何故だろうといつも不思議に思う。20年前や30年前のことが、昨日のように思い出される。そうした時間感覚の不思議を味わわせてくれるプッチーニという人についても考えてしまった。時間をつかさどるクロノス神は山羊座の守護神で、プッチーニも道義先生もそういえば山羊座…オペラの幕引きを迎えたマエストロの背中を見て「それじゃあもう本当に、終わりなんだね」とというロドルフォの歌詞が重なった。
全国共同制作オペラ『ラ・ボエーム』はこの後全国6か所を回る。
1幕のボヘミアンたちの屋根裏での大騒ぎは楽しく、ロドルフォ工藤和真さん、マルチェッロ池内響さん、コッリーネ・スタニスラフ・ヴォロビョフさん、ショナール高橋洋介さんが1830年代のパリの若者たちを演じ、池内マルチェッロは画家の藤田嗣治と同じ風貌をしている。ヘアメイクの効果とはいえ写真のフジタとそっくり過ぎて、ついつい目で追ってしまう。家賃を取り立てに来る大家ベノアは晴雅彦さんで、大きなワイン瓶のオブジェとともに若い衆と喧々諤々やる様子が楽しい。オーケストラは次から次へとやってくるシークエンスを畳み込むように積み重ね、ストラヴィンスキーの『ペトルーシュカ』を思い出した。プッチーニはストラヴィンスキーより24歳年上だからその感覚は奇妙なのだが、オーケストラは明らかにイタリアオペラの枠をはみ出して、ワーグナーやチャイコフスキーに比肩する壮大さを表している。二階のかなり後ろの席だったのでピットのすべてが見えたが、詰め詰めに並んだ管楽器が壮観だった。
ミミのルザン・マンタシャンはアルメニア出身で、今年に入って英国ロイヤルオペラやウィーン国立歌劇場でデビューを飾った新星ソプラノ。はっとしたのは、ロドルフォから蠟燭の火をもらって部屋を出て行こうとし、踵を返してくるときのミミがとても上品だったことで、オーケストラも「優しくて繊細なミミ」をサポートしていた。ここで妙に「ケモノっぽくなるミミ」を何人も見てきて、「鍵をなくした」というのも口実なので確かにうそをついているのだが、過剰にメスっぽくなっては観る側も興ざめになる。
ミミはプッチーニのオペラの中で最も美しい女性で、それは作曲家のノスタルジーの中にいるヒロインで、遠い憧れであり喪失であり、ダンテのベアトリーチェのような理想化された存在なのではないか。プッチーニはミラノ音楽院で学んでいた貧乏学生だった頃の自分を思い出してボエームを書いたという。ミミは寒い部屋の中にともる蠟燭の灯のような女性で、守ってあげたくても守ってあげられない風前の灯火のような儚い存在なのだ。
ロドルフォの「冷たい手を」は引き延ばされたようなスローテンポで、先程まで男同士の馬鹿騒ぎをしていた若者が別人みたいになり、心はすっかり夢の世界に入り込んでいる。歌手にとってはハードなテンポかと思われたが、工藤和真さんは勇敢に歌い切り、ハイCも見事だった。続く「私の名はミミ」もソプラノはゆっくりゆっくり歌う。道義先生にとってこのシーンはこうなのか…と胸が熱くなった。愛の思い出のすべてがオーケストラの夢幻のサウンドになり、二人が静かに袖に消えていく二重唱は、眠りの中へと溶け込んでいくような感じがした。
全国共同制作オペラは毎回アウトローな(?)演出家を起用する伝統があり「奇抜なことをやってこそ」という懐の深さがかなりスリリングな域にまで達していたプロダクションも観せてもらったが、2018年の『ドン・ジョヴァンニ』の演出も手掛けた森山開次さんは、ダンサーや道化を使いながらも逸脱的なことはやらず、結果的に指揮者がリードするプッチーニとなった。ストーリー作りは完全に指揮者が行い、登場人物の性格も指揮者が作っていた。一幕の屋根裏部屋から二幕のカフェモミュスへの場面転換は道化が面白おかしいジェスチャーをし、その背後でカフェの舞台が作られていくというもので、意図的なのかも知れないが、かなり長く感じられた。セッティングが終わると、クリスマスの楽しいシーンが始まる。
今回道義先生は字幕も担当しているが「ムゼッタのワルツ」はかなりぶっ飛んでいて、大笑い。その後も「えっ?」というような字幕がたくさん出てきた。イローナ・レヴォルスカヤが妖艶でコケティッシュなムゼッタを好演。ムゼッタと藤田似のマルチェッロは妙に絵になるカップルで、藤田がパリではモテモテでモデルの西洋女性の柔肌をオリジナルの顔料で表現し、作品が高く売れていたことなども思い出した。世田谷ジュニア合唱団は全員黒猫のコスチュームを着て、元気いっぱい。まだ小さい方もいて、カーテンコールでマリンバのように背丈の順に並ぶ様子も可愛らしかった。
3幕の音楽の美しさは衝撃的だった。ほとんど宗教音楽の美で、隠者のような装束の女声コーラスがレクイエムのような歌を歌い、オーケストラも聖なる響きを奏で、ここではマスカーニを思い出した。マスカーニはプッチーニより少しだけ早く出世したが、音楽が一番素晴らしいのは『カヴァレリア・ルスティカーナ』で、ボエームの3幕はカヴァレリア…を彷彿とさせる。貧しさゆえに別れを決意し、それでも春までは一緒にいようと歌うカップルの重唱が、ミサ曲のようなのだ。ムゼッタのけたたましい声とマルチェッロの罵声がその静けさを切り裂くが、そうでもしないとオペラにならないのだろう。3幕の最初と最後の「ズッ、チャッ」という二音も異化効果っぽい。
ミミが息絶える4幕は伏線となっていたライトモティーフが溢れ出し、客席の涙腺も大いに緩むが、「プッチーニは泣かせるから通俗的」なのではなく、音楽的には3幕の聖なる余韻が4幕につながっている。小さな恋愛物語のようで、「海よりも深くて果てしない(ミミ)」宇宙的な愛のオペラで、ミミは完璧な聖女となって天に召されていく。原作のミミは狡猾なところもあるというが、プッチーニの音楽には描かれていない。現代的な意識をもつ歌手の中には「ミミは死ぬから好きじゃない」という人もいて、それはそれで納得がいく。極度に理想化された女性を女自身はどう歌ったらいいのか、ということなのだろう。死相が現れている女性に「朝焼けのようにきれいだ」と言うのは、愛を美化しているからで、現実ではない。そんなことを問うのはナンセンスだ。指揮者とオーケストラがプッチーニの憧れと郷愁を炙り出し、女性という至上の存在を浮き上がらせた。「道義先生にとって、女性とは女神のような存在だったのだ」と同時に納得し、ここまでオペラで女神を表せるマエストロは凄い、と腰が抜けた。読響も本当に素晴らしい。世界中のどの歌劇場オーケストラより凄いと確信した。
ボエームはセピア色の恋で、過ぎ去りし日の一枚の写真のような恋。若い頃の記憶は最近の出来事より鮮明なのは何故だろうといつも不思議に思う。20年前や30年前のことが、昨日のように思い出される。そうした時間感覚の不思議を味わわせてくれるプッチーニという人についても考えてしまった。時間をつかさどるクロノス神は山羊座の守護神で、プッチーニも道義先生もそういえば山羊座…オペラの幕引きを迎えたマエストロの背中を見て「それじゃあもう本当に、終わりなんだね」とというロドルフォの歌詞が重なった。
全国共同制作オペラ『ラ・ボエーム』はこの後全国6か所を回る。