小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

闘うオペラ 東京二期会『椿姫』(新制作)

2020-02-21 00:32:49 | オペラ

二期会の『椿姫』の初日(2/19)を東京文化会館で観る。指揮は世界中の一流オペラハウスに次々と登場している若き鬼才ジャコモ・サグリパンティ、新制作の演出は宝塚歌劇団で活躍する演出家・原田諒さん。ヴィオレッタ大村博美さん、アルフレード城宏憲さん、ジェルモン今井俊輔さん。オーケストラは都響。

最も強く印象に残ったのは、指揮者がこの作品で見せたトータルな世界観だった。歌手もオケも合唱もすべて指揮者の緻密な設計図の中に納まっていて、矛盾したところが全くない。圧政的…というのとも違う。古いようで新しい、21世紀の指揮者が現れたのだと思った。

第1幕への前奏曲から、都響の弦が際立った音を出した。まさに散りゆく花、崩れた花芯と壊れた花びらを思わせる、弱弱しく哀れっぽい詩的な音だった。これから繰り広げられるヒロインの悲劇にこれほど相応しい序奏はない。ほつれた感じのヴァイオリンの響きが「過ぎ去りし昔むかしの物語」を語っているようで、移ろいゆく音の面影が走馬灯のように巡り、古びた鏡台に置かれた白粉の香りを薫らせた。
そこから一気に、ヴィオレッタのサロンの喧騒がはじまる。木管が、わざと垢抜けない音で舞踏会に集まった人々のドタドタした雰囲気を醸し出す。音量は大きく、指揮者の指示でてきぱきとテンポを切り替え、勢いよく合唱とソロを乗せていく。チェロの室内楽的な音も、大正ロマン的な(?)レトロムードに満ちていて、この場で起こっていることがすべて「モダンではない」時代遅れなことであると音楽が暗示しているようであった。

 ヴィオレッタ大村博美さんはおおらかな美声で、前田文子さんデザインの白い贅沢なドレスがよく似合っている。ヘアメイクも絵や写真で見る19世紀のクルティザンヌそっくり。1幕でヴィオレッタが歌う歌は針の筵だ。「花から花へ」を歌い切ったところでアレルギーで卒倒してしまう歌手もいるし、歌唱崩壊を恐れて危険なパッセージを安全運転に変えて歌う歌手もいる。大村さんは書かれた音符に敬意を表し、ひとつともこぼさずに勇敢に歌われていた。
アルフレード役の城さんは、ゲネプロから珍しく抑え気味の歌唱だったが、本番では恋する青年貴族のうぶな心を清らかに歌った。サグリパンティは『椿姫』をヴェルディの中でも「ベルカント的」と位置付けているので、それに応えようとすると、感情過多な声や勢いだけの声は出せなくなる。今回のアルフレードは、まるでモーツァルトの延長線上にあるかのような贅肉のない歌唱で、外連味が全く感じられないストイックで透明な声だった。

『椿姫』はどの様式で演奏されるべきか、という選択は指揮者の采配に任せられているのだろう。哲学者のミシェル・セールは『椿姫』を「ヴェリズモ第一作」と名付けていた。サグリパンティは、40代のヴェルディ作品をヴェリズモ的な劇的表現から遥か彼方に置き、ベッリーニと並列させる。彼がトークで語っていた「ジェルモンが歌うバナルな旋律は、当時の古い社会を象徴している」という指摘は面白かった。オケはこのバナルな~垢抜けない凡庸な音をわざと出し、乾いた音や錆びた音、バラエティに富んだアンティークな音を出す。しかしなぜか全体としてその響きはとても新鮮で、斬新でさえあった。

一幕では、オケの音ひとつひとつにサグリパンティの強力なポリシーが埋め込まれていて、正直オケばかり聞いてしまいそうになった。歌手の声量よりオケが大きく聴こえて「煩く」感じられた瞬間もあった。それも含め、指揮者にとっては恐らく計算済みのことなのだ。「オペラのすべてを、自分の理念で動かし完成させる」という、巨匠的な理想を彼は持っている。それを過激なまでに突出させることで、出世街道を驀進しているのだ。

オケが歌手の伴奏ではなく、強い主張を持ったもうひとつの独立した生き物になってしまったとき、歌手は歌手で自分の身を守らなければならなくなるのではないだろうか。調和しているというより、それぞれが闘っていた。大村さんも城さんも、大切な自分の声を守りながら闘っていたし、ジェルモンの今井さんは侍のように闘っていた。今井さんはゲネプロのときから堂々とした美声だったが、本番ではさらにパワーを増し、あの雷神のような圧倒的な声に完全に会場は魅了された。私も心の中で「ジェルモンは、サグリパンティに勝利した(!)」と拍手してしまったほどだ。指揮者が「垢抜けないつまらない歌」と語った「プロヴァンスの海と陸」は、このオペラのハイライトといっていい出来栄えだったのである。

 サグリパンティのような強靭なイデアリストは久々に現れたような気がする。若いオペラ指揮者は皆才気にあふれているが、この人は驚くほど透徹した知性の持ち主で、同時にかなり変わっている。イタリア伝統主義者を自称しつつ、やり方が際立ってアグレッシヴでバンキッシュなのだ。スコアから様式を厳密にあぶり出し、自分にとってのプロトタイプを創る。そこには演劇性もすべて含まれていて、演出家の出番はほとんどないほどだ。

原田諒さんの演出は、ローマ歌劇場の来日公演でも上演されたソフィア・コッポラ演出の『椿姫』を彷彿させた。オーソドックスで衣裳が美しく(コッポラ版の衣装はヴァレンティノ・ガラヴァーニだった)、全体的に古めかしい優美さが勝っている。理念が強い指揮者にとって、あまり物語をいじらない演出家は都合がいい。
 その点でベストなマッチングのプロダクションではあったが、棒立ち正面向きで歌うジェルモンの退屈な演技は我慢できるとして、2幕2場から天井につけられた丸い鏡は、なくてもよかった。45度の傾斜をつけられた鏡は床のさまざまな様子を万華鏡のように映し出すが…オリジナルは92年にデザインされたチェコの作家Josef Svobodaのアイデアで、著作権が切れたのか最近では「椿姫」といえば判で押したように鏡が登場する。
宮本亞門演出から新しくなったのだから、新演出はもっと「闘う演出」であってもよかった。アイデアが新しすぎたとしても、再演のたびに新鮮な表情を見せる演出というものもある。初演がピークで、再演の段階で既に古びた感じになってしまうタイプの演出にならないよう、鏡は使わないで欲しかったのだ。

 メインキャストの歌手の高潔な「闘い」と、指揮者の完全装備に応えた都響の実力にはオペラの明るい未来が見えた。都響とサグリパンティは、仲良しムードではなかったと思うが、新鮮で意義深い共演をしたと思うし、他のヴェルディ作品やプッチーニ作品でも共演してほしい。ルスティオーニとは別のケミカルが生まれると確信する。指揮者とオケのマッチングに関しては、二期会のやることは毎回外れがないのにも驚いた。22.23日にも公演が行われる。




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