小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(10/3)

2017-10-05 14:50:50 | クラシック音楽
9月末から来日ツアー中のチェコ・フィルハーモニー管弦楽団のサントリーホールでのコンサートを聴いた。首席指揮者のイルジー・ビエロフラーヴェクが5月末に急逝したため、代役として指揮台に上ったのは、ビエロフラーヴェクが最も信頼を寄せていたというペトル・アルトリヒテル。今年の3月にプラハ交響楽団をともなって来日していたが、そちらは聴けなかったのでこれがアルトリヒテルを聴く初めての機会となった。
3日のプログラムはドヴォルザークの序曲『謝肉祭』Op.92、同じくドヴォルザークの『チェロ協奏曲ロ短調』Op.104、ブラームス『交響曲第4番ホ短調』Op.98。『謝肉祭』の冒頭から、譬えようもない柔らかな光彩がオ―ケストラの頭上に立ち現れた。それは本当に光としか呼びようのないもので、水平にきらめいたかと思うと垂直に飛び跳ねたり、川の水面に反射する陽光のごとしで、派手でギラギラした輝きではない、もっと自然で美しい光だった。
眼前に、プラハの街が立ち現れたような心地がした。とはいえ、私はプラハを訪れたことがない。なぜか、サンクトペテルブルクのネフスキー大通りを連想した。古い建物が向かい合ってたくさんの窓がくすんだ太陽を反射している。その美しい様子が、プラハの連想に結びついた。

ドボコンでは、ソリストにジャン=ギアン・ケラスが登場した。リサイタルでは黒いブラウスを着ていることが多いので、フォーマルな衣裳を身に着けたケラスというのは珍しいような気がする。オーケストラに敬意を表して正装していたのかも知れない。ドボコンといえば、美メロと美ハーモニーの嵐で、マイスキーもヨー・ヨー・マも全身で音楽の悦びを表現してこれを弾くが、ケラスは全然違っていた。神妙な表情でヴィヴラートを抑制し、テクニカルな部分もメロディアスな部分も、きわめて冷静に明晰に弾いた。
「ドヴォルザークの歌は彼ら(オーケストラ)のもの。私はそれを尊敬するがゆえに簡単に触れられないのです」と言っているような気がした。しかし、おそらく心の内側は熱く、2楽章ではひたひたと溢れ出すものがあり、3楽章ではコンマスのヨゼフ・シュパチェクとの掛け合いで情熱が爆発した。あのチェロのヴァイオリンの二重奏のところで、ケラスはずっとシュパチェクを見つめて弾いていた。曲が終わると、アルトリヒテルとひしと抱擁。シュパチェクともこれ以上ないというくらい熱い友情の抱擁を交わしていて、胸が熱くなった。

生前のビエロフラーヴェクのインタビュー映像で「チェコ・フィルの真髄とは?」という質問に、彼は当惑したような微笑みを浮かべながら答えていた。「つねにドヴォルザークに回帰します。我々は子供のころからこれを聴いていて親しんでいて…ドヴォルザーク以外の曲でも、予期しないときにこの回帰は起こるのです」
コンサートでは、その語るところの意味がはっきりと理解できた。信じられないほど正確な金管には温かみがあり、弦には深い呼吸のような安らぎがある。木管には古い東欧の香りがするし、打楽器は切れ味がよく舞踏的なのだ。フォークロア的なものとモダンな知性が同居していて、それはドヴォルザークの音楽に通じていた。響きの中に、ほっとするような善良さがある。先鋭的・戦闘的であることより、歌うことと響き合うことが優先されているオーケストラなのだ。

アルトリヒテルはよく動き、それは「カッコいい」というより一生懸命な感じで親しみが湧いたが、作り出す音楽は凄かった。彼が練り上げてきたブラームスの「交響曲第4番」は透明でイノセントなこのオーケストラの美質を際立て、その始まり方は明晰で繊細だった。冒頭で感じたのはモーツァルトだった。こういう馬鹿正直な自分の感想には気を付けないといけない。「あなたたちのブラームスはモーツァルトのように美しい」と伝えたら「それは残念ですね。ブラームスとモーツァルトの様式はだいぶ違いますから」と言われるのが当然だからだ。しかし、私にとっては肯定的な意味で、こんなにシンプルで明晰で光り輝くブラームスの4番は聴いたことがなかった。
さまざまな色の糸で織られたツイードのように、ブラームスの中にはドヴォルザークを思わせる色彩もあった。アルトリヒテルの音作りは卓越している…同時に、個人を超えた大きな温かいパワーも解き放たれていた。
第2楽章のアンダンテ・モデラートは信じがたい音楽だった。同じ音型がさざ波のように押し寄せて、大きな潮流に発展していく…アンダンテとは本当に肉体的なテンポで、ゆっくり歩くように3つのリズムを刻んでいく段取りは地道に何かを積み重ねていくような心の作業を思わせる。
管楽器の牧歌的なアンサンブルのあと、すべての弦楽器が湧きたち、その瞬間にオーケストラが大きな薔薇の花になったように見えた。聖母マリアの微笑みのような、優しい気配が薫るように立ち込めたので、これは何の徴なのだろうと不思議に思った。アルトリヒテルもオーケストラも、この瞬間に何が起こっていたのか分かっていたのかも知れない。

祝祭的な第4楽章では、音楽家たちの高潔さとオープンな心が次々と押し寄せてきた。シンフォニーの中に息づく呼吸が見事で、それを浴びていると心と身体の病までが癒されていく心地がした。これはどこから来た音楽なのか…コントラバス奏者にブラームスそっくりの方が一人いて、彼はつねに手元ではなく虚空を見つめながら演奏していたのだが、遥かなるところから降り注ぐブラームスの霊感と触れ合っていたのかも知れない。
アンコールではドヴォルザークの『スラヴ舞曲集第2集』第7番と第8番が演奏され、8番はアルトリヒテルのアナウンスで、亡きビエロフラーヴェクの魂に捧げられた。終演は9時半。時間が経っていたことなど全く忘れていた。この世とあの世が通じ合ってしまったかのように、サントリーホールには魔法がかけられていたのだ。





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