小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

ヴァレリー・アファナシエフ ピアノ・リサイタル(11/25)

2019-11-28 03:11:24 | クラシック音楽
紀尾井ホールでのアファナシエフ。直前に知り、ウェブでうまくチケットを買えなかったので売り切りれだと思っていたが、開演30分前にホールに電話をかけたところ、S席のみ当日券が出るという。11000円はお得なチケット代だ。2003年頃、浜離宮で6000円だったが、アファナシエフのようなピアニストにとっては安すぎると思っていた。この夜の紀尾井の客席は比較的若い聴衆が多く、ほぼ満員に見えた。

 客電はとても暗く、ほとんど闇のよう。黒いタートルネックに黒いズボンのアファナシエフは、不愛想に現れて部屋の中で練習を始めるような雰囲気で弾き始めた。最近はほとんど着るものにも気を使わない。前半はハイドンの『ピアノ・ソナタ第20番ハ短調』と『ピアノ・ソナタ第40番 ト短調』。大きな手がカラスの羽のように鍵盤の上でばさばさと動き、深緑色の真珠を連想する憂いを帯びたソナタが繰り広げられた。偽作を除いても60曲近いピアノ・ソナタを書いたハイドンだが、短調の曲はわずか8曲。この夜の2曲のソナタは、バッハのコラールを思わせる、神聖でメランコリックな音楽だった。

 アファナシエフは心から聴衆を求めている…とも思った。暗い客電は胎内のようで、ピアニストと聴衆は闇の中でひとつの呼吸をし、一筋の光明を追っていた。普段着のままで、いちいちお辞儀をしないのも、定型的な「リサイタル」のセレモニーなど不要だと思っているからなのではないか。ステージと客席の心の距離はますます狭まってきている。ハイドンの短調のソナタはアファナシエフの内面を表していると同時に、ホールに吸い寄せられてきた聴き手の心を見透かしているようにも思えた。

 「エキセントリック」と長年評されてきたアファナシエフやポゴレリッチは、コンサート・ピアニストとして厳密で厳格でさえある人で、彼らを正確な言葉で定義することは簡単ではない、と感じる。感傷的であってはいけないが、客体化しすぎても結論は出ない。音楽は人間の傷つきやすさや人生の脆さをも表現する。その内容が、自分も人生を重ねてきたことでいよいよ本質的に感じられるようになった。
 アファナシエフの巨大な才能とは、人間の孤独を率直に表現できることで、かなり若い頃からこの素質があったのではないかと思う。凍えるような孤独感は、2019年の演奏会でいよいよ先鋭化されていた。孤独をつきつめればつきつめるほど、他者との境界がなくなっていく…というのは芸術のミステリーだ。

 その前(2018年5月)に聴いたアファナシエフのブラームスの『ピアノ協奏曲第2番』は独特な世界だった。佐渡裕さん指揮トーンキュンストラー管との共演だったが、そのときのアファナシエフの演奏は、オケとも聴衆ともコミュニケーションを一切拒絶するような印象があり、「生きていて何もいいことなんか、ない」と言っているようだった。いよいよここまで来たか…と思い、彼が抱えている不条理の大きさにため息が出たが、後日あるところから、アファナシエフがそのとき抱えていた大きな悲しみについて聞いた。ずっと彼を応援し、日本での書籍の出版などをサポートしてきた「恩人」が亡くなったばかりで、失意の底に沈んでいたというのだ。

 キャリアの集大成ともいえる6枚組の録音(タイトルは『遺言』)をリリースしたアファナシエフは、死が抽象的なものではなくなり、自分もまたそこに近づいていることを音楽で表現しているようだった。同時に、彼というピアニストが時を超えた存在であることも実感した。後半のムソルグスキー『展覧会の絵』では、アファナシエフの独特の遅いテンポ感と超個性的なフレージングが次から次へと驚きを巻き起こした。通常、軽やかに演奏される曲も、ピアニストによって変形され、鉛のような重みを帯びる。聴いていて痛みに似た感覚があったが、それがこのリサイタルでは、いちいち共感できた。「なぜそのように弾くのか」という説明など要らない。そう弾きたいアファナシエフの心が分かり、次の瞬間に訪れる新しい霊感にも「そうだ、その通りだ」とうなづいてしまった。

 直前まで未定だったラフマニノフは「前奏曲Op.32-12 嬰ト短調」と「幻想的小品集第2曲 前奏曲」(『鐘』)で、二つのラフマニノフではピアニストの「命の賭け」を聴いた。「鐘」の大胆なフォルテシモの連打は、ピアノ演奏という枠を超えていたと思う。彼が人生というものにとうに飽き、ピアニストとしての自分が崩壊すればいい…と思っていることの現れのようだった。この自殺的な鍵盤への落下が失敗すればいい…そうしてピアニストとしての自分など粉々になればいい…しかし演奏は思惑を裏切って毎回うまくいく。危険なロシアン・ルーレットも、アファナシエフを崩壊させない。百の弾丸を胸に打ち込んで、それでも死ねないピアニストの凄い姿があった。芸術家とは、ピアニストの人生とはそのようなものだ…と聴衆は知る必要があるのかも知れない。

 アンコールはショパンの「ワルツOp.64-2」一曲のみ。この上なく甘美で、ゴージャスなショパンは一筆書きの魔法の絵のように美しかった。過ぎ去った思い出か、それとも誰かへ捧げる曲なのか…自らのフィナーレを意識しつつ、アファナシエフはまだ、人生に恋しているのかも知れない。この曲を弾き終えて「聴衆が好きでたまらない」といった微笑みを見せ、たった一度のお辞儀をしてステージを去った。リサイタルはピアニストと聴衆から出来ている…その全体を改めて美しいと思った晩だった。





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