ひろっぺのお針箱

下手だけど手芸が好きです♪

古典文学講座『鼻』

2016-10-07 21:48:54 | 文学

今年度5回目の講座は、芥川龍之介の『
これは宇治拾遺物語の中の『鼻長僧のこと』を解きほぐして、人間の本質をテーマに再構成した小説なのだそうである。

あらすじ
『鼻がソーセイジのように顎の下までぶら下がっている内供(ナイグ)という高僧がいた。
 気にならないふりをしているが、内心では始終苦に病んでいた。
 何とか短くしようと、色々試してみたがどうにもならなかった。

 ある時、京に上った弟子の僧が「長い鼻を短くする法」を教わってきた。
 その法とは、鼻を茹でて人に踏ませるというもの。
 内供はわざと気のないそぶりをし、弟子が説き伏せてくれるように仕向ける。
 弟子にはバレバレなのだが。

 さて、鼻を茹でて弟子に踏んでもらうと、鳥の羽の茎のような脂が出てくる。(宇治拾遺では虫)
 脂を引き抜き再び茹でると鼻は短くなる。
 「これで誰も笑わないだろう」
 内供は満足した。

 ところが出会う人々の反応がおかしい。
 鼻が長かった時よりも一層滑稽だとばかり、あからさまに吹き出したりするのである。
 「これなら前の方がよかった」と、内供はクヨクヨと思い悩む。

 そうこうするうち、ある朝のこと。
 鼻に手をやると元の通りに長くなっていた。

 「これでもう笑われない」
 秋風に鼻をぶらつかせながら、内供は晴れ晴れとするのだった。』

人間の本質はエゴである。
人間は誰も他人の不幸に同情するが、その一方で優越感も抱く。
それゆえ、他人の幸福は妬ましい。

芥川龍之介の『』は、そういう人間の本質をえぐり出した名作であると、今日の先生のお話でした。

悟りを開いてるはずの身分の高い僧が、自分のこととなると、
いちいち他人の言動に左右されてオタオタする。

私はそこが可笑しかった。

←今日は一番乗りでした(^^)/


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宇治拾遺物語(4)鼻長僧の事

2016-09-02 21:13:00 | 文学

古典文学講座4回目の今日は宇治拾遺物語『鼻長僧の事

☆あらすじ
  昔、鼻が顎より長くぶら下がっている僧がいた。
 鼻を熱湯に浸けて人に踏んでもらうと、白い虫が出てきて普通の鼻になるが、
 2~3日で元に戻ってしまう。
 で、食事の時は弟子に板で鼻を持ちあげて貰っていた。

  弟子が変わると荒っぽくされたりするので、決まった弟子にさせていたのだが、
 ある日その弟子が気分が悪くて出てこなかった。
 どうしようか、と言っていると、寺の召使の童が「私がしましょう」と言う。
 
 させてみると、大変上手である。
 僧が機嫌よく粥をすすっていると、この童、くしゃみをしてしまった。
 鼻は板を外れて粥の中にボチャッと落ち、一面に粥が飛び散った。

 僧はカンカンになって、
 「他の偉い人の鼻を持ちあげた時にもこんなことするのか!馬鹿者!出ていけ!」
 と童に悪口雑言を浴びせる。

 すると、童は立ち上がりざま、
 「世の中にこんな鼻を持ってる人が他にいるでしょうか?!馬鹿なことを仰る坊さまだな。」
 と言ったので、弟子たちは物陰に隠れて笑った、ということです。

 ~~~~~~~~~~

この物語は、芥川龍之介の『』のほうが有名かもしれませんね。
芥川龍之介がこの説話を元に、どのように人間の心理を捉えて『』を創作したかのお話は
来月講義して下さるそうで、楽しみです。


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宇治拾遺物語(3)鬼に瘤取らるること、結末

2016-08-06 09:15:10 | 文学

 昨日は今年度の古典文学講座3回目、宇治拾遺物語『鬼に瘤取らるること』の後半でした。

 どなたもご存じの『こぶとりじいさん』 
 話の筋は今更言うまでもありません。
 踊りの上手なおじいさんは鬼にコブを取ってもらい、
 踊りの下手な隣のおじいさんは二つもぶら下げるハメになるという、何とも気の毒な結末ですね。

 で、先生がおっしゃいます。
 「隣のおじいさんは何か悪いことをしましたか?何も悪いことはしてませんね。
  ただ踊りが下手だったというだけで、こんな不幸な目に遭ってしまう。
  太宰治は『お伽草子』という著書の中で、
  『これは性格の悲喜劇といふものです。人間生活の底には、いつも、この問題が流れてゐます。』
  と、述べています。私たちの周りでも、あんないい人が何で不幸な目に遭うのか、と思うようなことがよくあります。
  逆も又あるわけで、つまり、太宰治はこのおとぎ話には、人間世界の不条理が描かれている、と読み取っているんですね。」

 と、『お伽草子』の一節を読んで下さいました。

 ハ~ン。なるほど。
 やっぱり非凡な小説家というものは、洞察が鋭い!
 ただ面白がって読んでいた凡人(ワタクシ)はそこで一撃を食らったのでありました。

 ~~~~~~~~~~

   

 今朝の畑。干からびたバッタが支柱にしがみついていたからビックリしたけど、これは脱皮なんですね。
 白い花はチグリジア。虎のような模様があるのでタイガーリリーとも呼ばれるらしい。
 ゴーヤドイツウリはこぼれ種からの初収穫です。


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宇治拾遺物語(2)鬼に瘤取らるるの巻

2016-07-01 21:51:45 | 文学

 

 今年度二回目の古典文学講座『宇治拾遺物語』です。
 講師は初めにこう言われました。
 「前回の『方丈記』が辛気臭かったから、今年は『宇治拾遺物語』にしました。
  おとぎ話の元ネタになった話も多いので、深く考えないで楽しんでもらいたい。」

 ちょっと笑いが起こります。
 で、早速今日は『鬼に瘤取らるる事』の巻。
 『これも昔、右の顔に大なる瘤ある翁ありけり。と、始まります。

 右頬に瘤のある翁が山で雨にたたられ、木のうろで雨宿りしていると、鬼の集団が現れ酒盛りが始まる。
 翁も浮かれて踊り出すと鬼が大いに喜ぶという、ご存じ『こぶとりじいさん』のお話です。
 今日はここまででした。

 鬼に気に入られた翁は、又来るようにと瘤をカタに取られスッキリして家に帰ります。
 それを見た隣の翁は羨ましがり、自分も瘤を取って貰おうと真似をするが、踊りが下手だったので
 両頬に瘤をぶら下げるハメになるという、お馴染みの結末は来月のお楽しみです。

 先を読んでみると最後の行にはこうあります。
 『物羨みはせまじき事なりとか。』

 (人を羨んだりしてはならない)と、最後は教訓になっているんですね。

 ハ~イ、わたくし小太りばあさんは、人を妬んだり羨んだりいたしませ~ん(笑)
  

    

 グラジオラスとミツバチ

 


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古典講座 宇治拾遺物語(1)

2016-06-03 22:44:15 | 文学

  

 市の、平成28年度古典文学講座が今日から始まりました。
 今月から1月まで全8回で『宇治拾遺物語』を学びます。

 『宇治拾遺物語』は、平安中期に源隆国が編纂した『宇治大納言物語』が、平安末期に増補されて
 『今昔物語』となり、それが又後の人に増補されて鎌倉時代初期に成立したと言われています。

 つまりは、昔から伝わってきた自然発生的な民話などを集めた説話集なわけで、編集者は未詳だそうです。

 「わらしべ長者」や「こぶとりじいさん」「雀の恩返し」と言ったお馴染みの昔話も元ネタはこれらの本だといいます。

 次回7月は早速「こぶとりじいさん(鬼に瘤取らるる事)の巻」ですから、面白そうです。

 又、芥川龍之介が『宇治拾遺物語』を元に「鼻」「芋粥」などの短編をどのように仕上げていったかも
 興味のあるところで、今年度の講座もとても楽しみです。

 


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『方丈記』の無常観

2016-01-08 19:59:10 | 文学

 

  今日午後は27年度最後の古典文学講座。『方丈記』8回目だった。

 出掛ける支度をしていると電話が鳴った。
 娘時代に勤めていた職場の友である。

 退職してから44年になるが、当時の同僚10数人の内5~6人は数年に一度集まって旧交を温めている。

 「お正月からナンだけど・・・」と、口ごもりながら、
 「Kさんが大腸ガンで亡くなったって・・・」と、言う。

 驚いた。
 黄泉の国に旅立った同僚は、これでもう4人目なのだ。

 「Nさんも乳ガンの手術をしたって!」
 「まあ!」

 これにも驚いた。何が起こってもおかしくない年代なんだ、と改めて知らされた。

 『方丈記』の冒頭の章にはこう述べられている。

  《朝(アシタ)に死に 夕(ユウベ)に生まるるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。》
   
  (朝亡くなる人がいる。夕方生まれてくる人がいる。人の命は儚い水の泡と同じではないか。)

 折りしも今日は『方丈記』最後の授業。

 一切のものは変化する運命にある、という仏教的無常観は、
 現代に於いても根っこは同じなのだ、としみじみ感じたことでした。

 

 

 


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古典文学講座『方丈記』庵暮らし

2015-12-04 22:36:54 | 文学

 

 鴨長明「方丈記」7回目の今日は《庵暮らしの楽しさの巻》

 俗事に気ぜわしい世間の暮らしに比べて、世を捨てた庵の暮らしが
 どんなにのどかで平和であるか、事細かに述べている。

 長明にとって出家遁世は真に仏道の修行だったのか?

 『寄居(かむな→やどかり)は小さき貝を好む。これ事知れるによりてなり。
  みさごは荒磯にゐる。すなはち人をおそるるがゆゑなり。われまたかくのごとし。

 (訳→やどかりは小さい貝を選んで住む。そのほうが安全だからである。
   鳥のみさごは波の荒い海岸に居る。それは人間を恐れているからだ。私も又そうである。)

 「当時の人々にとっては、仏道修行して往生を遂げることが人生で最も重要とされていたのだが、
 長明の場合は仏道修行のためというより、世間が怖いから逃げてきたとも言えるのではないか。
 それはこの一文に表れている。」 
 と先生はおっしゃいます。

 すると生徒のひとり(男性)が、
 「自分は長明を尊敬します。ストレスにさらされた社会で長明のように生きることは憧れです。」
 と言ってました。

 う~む。
 その気持ちはよ~く解ります。
 世のしがらみから脱けられたら、そりゃあ楽でしょうな~。

 だけど、孤独に耐えられない私には遁世なんてムリだわ~。


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古典文学講座『方丈記』隠棲

2015-11-07 10:44:04 | 文学

 昨日は『方丈記』6回目の講座だった。

 貴族に生まれながら、作者鴨長明は一族間のトラブルで落ちぶれ、50歳で出家遁世してしまう。
 時代背景が、貴族社会から武家社会に移行する混乱期ということもあって、『方丈記』には無常観が満載である。

 授業の終わりに生徒の一人が先生に話しかけました。
 「長明が何を言いたかったのか、何を読み取ればいいのか、探りながら読んでます。」

 そしたら先生が、
 「いいことを言われましたね。ですが、長明にはあんまり期待せん方がいいです。」
 と、答えたのでちょっと笑いが出ました。

 「世俗の執着を断ち切ろうと隠遁し仏道修行に入ったわけですが、長明とて生身の人間、それは捨てきれない欲望の裏返しであった。」
 と先生はおっしゃいます。

 『捨てきれない 荷物のおもさ まへうしろ』
 という、山頭火の句を思い出しました。

 彼も又煩悩の人だったんでしょうね。
 かく申すワタクシも。。たぶん。。煩悩まみれ。。

   ←シロノセンダングサ


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古典講座『方丈記』世にしたがへば

2015-10-02 22:54:35 | 文学

 本年度5回目の古典文学講座『方丈記』である。

 『世にしたがへば身くるし。したがはねば狂せるに似たり。いづれの所を占めて、いかなるわざをしてか、
  しばしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むべき。』

 →世間の常識に従って生きると束縛されて苦しい。かと言って世間に逆らうと頭がおかしいと思われる。
 どういう場所に住み、何をすれば、ほんの少しでも心を休ませることができるだろうか?

 ここにきて、作者鴨長明の無常観はピークである。人の世は儚く生き辛い、と繰り返しグチっている。
 そして、50歳で出家遁世してしまう。

 「もはや、人間嫌い、世の中否定である。」と先生はおっしゃいます。
 元々貴族であった作者を何がそうさせたか?
 乱世という時代背景があったにしても、他に彼自身の境遇にも何かある。

 ・・・と、今日の講義はここまで。
 続きは又来月のお楽しみでございます。

      

 


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古典文学講座『方丈記』乱世

2015-09-05 01:48:55 | 文学

今年度4回目の古典文学講座『方丈記』である。

『方丈記』には乱世という時代背景があり、根底に仏教的無常観が流れている。

相次いで発生した大火や飢饉、伝染病、大地震など、災害の記録といってもいいくらい人々の混乱ぶりが描かれていて、
コチラもちょっと無常観。

☆今日習ったところ
『人は皆、災害に見舞われたときは、人間の欲望からくる所業のはかなさを反省するが、時が経つと、又、元の欲望に振り回されている。』

う~ん、何か現代にも当てはまるような。。。

徒然草や枕草子を読んでいても同じようなことを感じる。


何百年前も千年前も人の心の有りようは変わってないんだよね。

古典というのは、それだけが切り離された特殊な存在ではなく、脈々と現代に続いているものなんですね。

そう!
文法という厄介なものがなければ、古典はとても面白いのです。

   ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 郵便局の窓口にサギソウが飾られてました。

 クヌギの実がおちてました。これがドングリになるんですよね?

 

 

 

 


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