昨日のblogに、餃子パーティーの餃子を作って持たせたと書いたんだけど、
帰宅した娘と孫が、あー重い重いと喘ぎながらドサッと置いたのは、もろぶた一杯の青柚子
それに、新米と栗。お返しの方が多くて驚いた。
今年は青柚子ごしょう作れるっと、一旦喜んだものの、あっ、青唐辛子がないっ
どこからか調達して来ねばっ!
昨日のblogに、餃子パーティーの餃子を作って持たせたと書いたんだけど、
帰宅した娘と孫が、あー重い重いと喘ぎながらドサッと置いたのは、もろぶた一杯の青柚子
それに、新米と栗。お返しの方が多くて驚いた。
今年は青柚子ごしょう作れるっと、一旦喜んだものの、あっ、青唐辛子がないっ
どこからか調達して来ねばっ!
昨日、近所から栗を貰って、夜に鬼皮だけ剥いた。
今朝、渋皮を剥こうとしたら左の親指が痛い。
包丁持った右ではなく、栗を持った左の方に力が入ってたということか!?
それで少し茹でて渋皮を柔らかくしてから剥き、小分けして冷凍した。
これでしばらくは栗ご飯を楽しめる。
タダで美味しいもの食べようと思ったら、まあ、骨の折れますこと!
~~~~~~~
夕方は、娘と孫が友だちの家で餃子パーティーをするというから、3人でせっせと包んだ。
今頃はワイワイ焼いてることだろうね。
今日は血液検査の日で掛かりつけ医に行った。9時前に行ったら待合室はガラ~ンとしてる。
月に一度の医者通いだが、いつもは同じ時間でも10人ほどもひしめいていて、
1時間から2時間も待たされることがザラだったから、へ~、こんな日もあるんだ!とビックリした。
10時前に終わった。
さあ次の用事、役場に行こうとしたら車に乗せたはずの書類がない。
昨晩キチンと揃えて、忘れないようにとバッグに突っ込んでたのになー!
あー!バッグからはみ出してたからちょっと取り出したんだよ、手に持つつもりで。
取りに帰るのも面倒だし、もう明日にしよう!と諦めていると、
「今日出来ることは明日に延ばすな!」と天使がささやく。👼
「いやいや、明日出来ることは今日するな!」と悪魔がささやく。👿
帰宅すると、テーブルの上に書類はあった。
やっぱり行ってこよう!
用事はひとつひとつ片付けていかないと溜まってしまうし。
というワケで、今日は天使のささやきが勝ったのだった。
めでたしめでたし
今日の午後は、市内の福祉センターのお部屋を借りて組内女性部の月例会でした。
7軒の内4人の出席です。
折角だから、先ずは温泉へ。(70才以上100円) 誰もいなかったのでパチリ
風呂から上がり、人数が揃ったところで布ぞうり勉強会です。
みんな素人ですから、ああでもないこうでもないと賑やかに編みました。
お喋りしたりお茶したりで、今日のところは片足しか編めませんでしたが・・・。
皆んなそれぞれ忙しいから、続きは来月の例会かな?
2月に仕込んだ味噌を出してきた。丁度いい具合に熟成している。
今年の味噌はひと味違う・・・はず
というのが、何かの本に『味噌作りの大豆は茹でるより蒸したほうが旨味が逃げない』
とあったから、今年は圧力釜で大豆を蒸したのだ。
いつも茹で汁の殆どを捨てていたから、成る程これは良い方法だと思った。
初めての試みだから出来上がりが気がかりだったが、カビも生えず良い色になっている。
溶けやすいようにフードプロセッサーで“すり味噌”にした。
小さなフードプロセッサーだから何回も何回も入れたり出したりを繰り返し、
午前中いっぱい掛かったが、こういう作業嫌いではない。
使い易いように小分けにした。
夕方大相撲を観ていたら、台所から味噌汁の匂いがする。
ウチは大体朝しか味噌汁作らないから「アレ?」と思ったら、孫が「食べたい」と言ったんだそうだ。
「美味しいねー!去年のよりコクがあるねー!」と娘。
「ふっふっふ、今年は蒸したからねー!美味しいねー!」と私。
孫もウンウン頷いてお代わりしてた。よかったよかった❣️
久し振りに靴下ハギレで布ぞうりを編んだ。
2年前に奈良の靴下工場から初めてハギレを取り寄せた時は、色もカラフルで材質も良く、
バッグや篭やマットなど色々作って楽しんだものだが、
去年届いた材料は、ボロンボロンのクズばっかりで煙草の吸殻まで入っている始末。
元々は産廃物で、送料(2000円ほど)だけで送ってくれるものだから、文句は言えないがちょっと酷過ぎた。
どうにか使えるハギレが五分の一もなく、後は全部捨てた。
私が紹介してハギレ手芸を始めた仲間たちのとこにも、この頃届く品はやはり似たり寄ったりのようだ。
全国的にハギレ手芸の人気が出て、良い品は業者が買い占めているのかも?と疑ってみる。
そんなことで創作意欲が湧かず放っていたが、そろそろ片付けねばと思い、
涼しくなった今日、外に台を出し、ハギレのワッカを輪ゴム繋ぎしてぞうりを編んだ。
(家の中だと糸くずが散乱してあとの掃除が大変です)
2年前に村の長老に編み方を教わっただけで、本格的な作り方は知らない。
布ぞうり教室とかあったら行きたいのだが。
先週生協に注文したイチジクが今日届いた。
早速ひとつをパクッと割ってみた。ザラッとした赤い粒々が並んでいる。
ふ~む、懐かしいねえ・・・。
子供の頃住んでいた家の裏庭に、大きなイチジクの木があって、 毎年、青い実の熟れていくのが楽しみだった。
いや、楽しみというより待ち切れなかった。
おやつなどめったに買ってもらえなかったから、ちょっと色付いたくらいで もいで食べてたなあ〜❗️
数年前にその家の辺りを車で通ったが、更地になっていて思い出すものは何もなかった。
今はどうなってるかな~❓
うまれた家は あとかたもない ほうたる (山頭火)
近代の浪曲師では国本武春師が好きである。4年前に55才で亡くなられたそうで残念なのだが・・・
母がまだ元気だった頃、「最近若手ですごく上手な人が出てるよ、聴いてごらん」という。
その頃は中村富士夫師が好きだったから(今も大好き♡)余り興味はなかったが、母が言うのでCDを買った。
成る程、若手なのに上手い。
というか、私は浪曲はすっかり廃れた芸能だとばかり思っていたから、若手の浪曲師がいることに驚いた。
先ず聴いたのが『南部坂雪の別れ』
吉良邸への討ち入りを控えた大石内蔵助が、浅野内匠頭の奥方瑶泉院に別れを告げようと訪ねるのだが、
お女中の中にスパイがいるのに気付いて、本心を打ち明けることが出来ず、
「仇討ちなんかしませんよ、里に帰って小間物屋を始めます」なんて言うものだから、
瑶泉院が怒って追い返すという、あまたある赤穂義士伝の中のひとつ。
その出だしを聴いたときハッとした。父の節回しとソックリだったからだ。
父の舞台姿は余り記憶にないのだけど、家でしょっちゅう唸っていたので、この一節はよく覚えていた。
〽おなんどらしゃの長合羽ァ~二段はじきの渋蛇の目~ツマガケナシタ高足駄ァ~
父は若い頃は東家燕丸と名乗っていたらしい。
国本武春師の師匠は桃中軒雲右衛門の流れの東家幸楽師だというから同じ系統なのかなあ?!
その辺のことは知らないが、とにかく、節回しが父とソックリだったのである。
それからは余り聴くこともなかったが、最近車にCDプレーヤーを付けてもらったから、
運転しながら、8枚しかない浪曲CDを繰り返し聴くようになった。
〽御納戸羅紗の長合羽ァ~二段はじきの渋蛇の目~ツマガケナシタ高足駄ァ~
これは雪の南部坂を訪れた内蔵助の出で立ちを描写しているのだが、
この、『妻がけなした高足駄』がどうしても理解できない。
似合わないとか言ってけなしたの?だけど奥方のりくさんは、討ち入りのために離縁されて里に帰ってるはずだし?
と引っ掛かりつつもスルーしていた。
最近である。国本武春師の著書があることを知り、取り寄せた。
浪曲師の娘でありながら、私自身は舞台に立ったこともないから素人同然である。
それでも浪曲や三味の音は私の心のふるさと。詳しく知りたくなったのだ。
で、読んでいて『目からウロコ』だったのがこのページ!
『妻がけなした』じゃなくて『爪掛けなした』だったんですよ!!(゚д゚)!
爪掛けとは、雨や雪の時に下駄の先に掛けるカバーのこと。これで納得いった。
しかし、今の今まで『妻がけなした』と思い込んでいたから、可笑しくて堪らない。
父や母が生きてたら、さぞ笑われたことだろうと思う。
←只今勉強中
今日は地区の敬老祝賀会です。招待されるようになって3年目です。
婦人会でお年寄りのお世話していた時分は、
自分が接待される側になるとは思ってもいなかったんですけれど・・・(笑)
市議さんのご挨拶によると、市の人口約46.000人の内、100歳以上が65人でそのうち男性はたった3人ですって!
福岡県では100歳以上が3.088人でそのうち男性は315人だそうです。
ついでに国内の100歳以上を検索したら、今日現在、71.238人でそのうち男性は8.463人。
昭和38年には153人(♂20人♀133人)だったそうですから、グラフにしたら凄い右肩上がりですね。
そういえば最近ギネスに登録された長寿世界一は、福岡市の116才の田中カ子(カネ)さんですよね!
これまでで一番楽しかったことは?と報道陣に問われて、「今」と答えたそうです。
いつも『今』を楽しむのが長寿のコツかも知れませんね
あー、私も今日は楽しかったァ
山芋の蔓にムカゴが成っていて、大きくなるまで採らないつもりでいたが、
何やらポロポロ落ち始めているようだから、今日は草掻き分けてムカゴ採り。
採りながら、母はムカゴご飯好きだったな~!と又思い出してしまった。
そういえば数日前、夫の面会に行ったら、母が生前お世話になった盲人ホームの看護師さんに出会った。
入所者の方の診察に引率されてるようだった。
懐かしくて声を掛けた。まだ覚えていて下さった。
当時の寮母さんもまだ何人かはいらっしゃるそうで、この頃も母の噂をしていたとこだったという。
浪曲師だった母は、70才で盲人ホームに入所してからは、障害者の大会とか町の文化祭とか、
大きな舞台にも何度も出させてもらって、ひと花咲かせたものだった。
ホームの皆さんのお陰で、晩年を生き生きと過ごすことが出来て、感謝しかない。
今でも母が居たら、あれもこれも話したいことがいっぱいなんよー!と喋っていたら
ジワッと涙が滲んできた。
亡くなってもう7年半もなるのに・・・(´;ω;`)ウゥゥ