雲のたまてばこ~ゆうすげびとに捧げる詩とひとりごと

窓の雨つぶのような、高原のヒグラシの声のような、青春の日々の大切な箱の中の詩を、ゆうすげびとに捧げます

ケヤキの葉とセキレイ

2011年10月17日 | ポエム



 ケヤキの葉とセキレイ

 前回、森の中で牡鹿に出会ったお話を書き、自然から私への啓示だと思っている話をしました。誤解が無いようにお断りしておくと、私は自分自身が特に霊感の強い人間だと思っていないし、神様に選ばれた特別な人間だと言いたい訳ではありません。スピリチュアルな世界は嫌いではありませんが、楽しんでいるだけで特にそれを信じ込んでしまう方の人間でもありません。例えば、南阿蘇の山小屋から歩いて行けるところに、「パワースポット」と呼ばれるというか自称している場所がありますが、未だに行ったことがありません。
 ただ、自然現象や植物や生き物との出会いの中から、自分勝手に神様からの意思を感じて、ありがたがったり喜んだりしているだけです。私が神様というものも、宗教で言う神様ではなく、もっと原始的な「山のかみさん」や宇宙的な目に見えない大きな畏れの存在に近いものでしょうか。
 私は、読書が大好きです。同時に小さい頃から文章を書くことも確かに好きでした。でも自分の作った文章を不特定の方に発表することは、通っていた高校の文芸誌に投稿した位で、このブログがほとんど初めてです。それでも書きたいテーマの公募があったりして今までに数度、エッセイや論文、童話などを作って応募したことがあります。
 その時は、童話の公募でした。けっこう長い童話で、その中に重要な存在として森の中のケヤキの老木が登場します。
 その童話を書く時も、南阿蘇の山小屋に一人ででかけ、創作に集中しました。
 そして朝方、童話を書き上げ、「やったあ」と一人バンザイをしたら、その頃使っていたワープロのキーボードの上にひらひらと1枚のケヤキの葉が舞い降りて来たのです。瞬間、鳥肌が立ちました。
 たしかに庭にケヤキの木があります。窓も大きく開け放していました。でも風の無い日で、どうやってそのケヤキの葉が部屋の中まで飛んできたのかとても不思議です。で、能天気な私は「こりゃ山のかみさんが童話の完成を喜んでくれた」と勝手に解釈。入賞間違いなしと密かに喜びました。
 もう一つの例をお話します。
 次の時は、仕事が忙しく、その忙しさに追われて絵や作文などの創作をしていなくて、時の流れに流されているだけの自分に少しだけあせりを感じていた日々でした。私は車で通勤していますが、途中は田んぼや畑や海岸であったりします。そんなのんびりした田舎道から車の往来の激しい国道に出る交差点で長い信号待ちをしていました。
 すると、カツンと音がして、見ると助手席側のサイドミラーに一羽のセキレイが飛びついていました。セキレイはその後、車から離れないまま、フロントガラスの方に羽でバランスを取り乍らバタバタと回り込み、運転席側の私の目の前のガラスまで来るとそこで止まりました。そしてなんとその小さな嘴でコツコツ、コツコツとガラスを叩き始めました。それは信号が青に変わって車を動かすまで続きました。
 ハンドルを握ったまま、私は胸がいっぱいになり、涙があふれて来ました。
「それでいいの?何をしているの?」 
 セキレイは私を叱咤してくれたのです。勝手な思い込みで私はそう感じてしまいました。
 事実はセキレイがミラーやガラスに映った自分の姿を恋敵と勘違いして攻撃しただけかもしれません。
 先日の牡鹿との出会いといい、我ながらご都合の良い解釈ですね。
 でも自分で感じ、解釈し、一人喜んでいるのですから罪は無いとどうかお許しを。
 そしてあの後実際に応募した童話の結果も選外でした。
(2011.10.17)
コメント
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