雲のたまてばこ~ゆうすげびとに捧げる詩とひとりごと

窓の雨つぶのような、高原のヒグラシの声のような、青春の日々の大切な箱の中の詩を、ゆうすげびとに捧げます

誕生日とハトシ

2012年11月20日 | ポエム
▲季節は進んでも、霜が降りる日まで、まだ夏の花が残っている熊本。

 誕生日とハトシ

 昨日は私の57回目の誕生日だった。
 身体の機能はあきらかに退化しつつあるが、精神の成熟は40年前の高校生の頃とほとんど変わりがなく、私のようなものを「馬齢を重ねた」と言うのだろうな。
 最近は様々な会合に顔を出した時に、列席者の中でおそらく最年長か2番目あたりかと思うことが多くなってきて、そのことに戸惑う。
 速くなるばかりの時の流れの中で、歳をとっていくのは当たり前のことだが自分のために何か一つでも夢が実現するように、具体的な行動をしたいと誕生日に改めて考えた。
 自分の誕生日はやはり1年の中でも特別な日で、今でも印象に残る誕生日がいくつかある。
 異国の地で、まわりの誰にも告げず、一人で赤ワインを飲んで祝った誕生日。
 出張で訪れた奄美大島で迎えた誕生日。民謡酒場で、歌手の方に今日が誕生日だと伝えると、サンシンの弾き語りで祝いの歌を歌ってくれ感激した夜。
 誕生日に訪ねたピアノバーで、店内にいた皆で歌ってくれた「ハッピーバースディ」。
 それまでに見たことが無かった大きな美しい流星が、赤やオレンジや青や紫に色を変えながら、次々に流れた誕生日。
 従姉に子どもが生まれるというので、女の子の名前ばかりいくつか提案していたら、女の子が私の誕生日に生まれたと連絡が届いた誕生日。後日、私の提案した名前の中から名付けてくれたと聞いた。その従姉の子も考えたら昨日で37歳だ。
 中学校の2年生の頃、クラスにとなりの鹿児島県から転校生がやって来た。ひょろっと背の高い色黒の男子生徒だった。自分達、熊本県民も方言を使い、発音にも訛りがあることを棚に上げて、私達は転入した彼の鹿児島訛りになかなか馴染めなかった。
 美術の授業でポスターを制作した。私は、燃え盛る赤や黄色の炎を全面に、下の方に真っ黒なシルエットで花や木を描き、平和を訴えるポスターを描いた。
 ところが転校生の彼が描いたポスターは、デザインが私の作品にそっくりだった。私自身も明らかに似通っていると驚いたが、そのことを私以外のクラスメートが問題にし、ますます彼は孤立してしまった。
 その転校生の彼から、自分の誕生会をするから家に来て欲しいと申し出があった。あまり気が進まなかったが、断る勇気も無く私は出席した。当日彼の家に行くと、出席者は私一人だった。他に誰か誘われたのか、誘われた人が誘いを断ったのか、私は知らない。彼の誕生会で何をして過ごしたのか、どんな家だったかも忘れたが、一つ覚えていたのは、誕生会のメニューの中にあった食パンにひき肉のタネを挟み油で揚げたハトシのこと。
 その夜から始まった下痢と嘔吐で、無遅刻無欠席だった私は、学校を2日も休むことになった。確かに油臭かったがハトシが原因かどうかは分からない。
 それがまた、クラスメートの中で噂になった。
 私が転校生の彼の誕生会に行き、その夜からお腹の調子が悪くなったことで、彼の家で食べた食事が食あたりの原因であるかのごとく悪意で語られ、3日目に登校した私もそのことを否定しなかった。
 後で考えると、彼は何も悪くない。
 休んだ2日目だったか、転校生の彼が心配してお見舞いに来てくれた。彼はいい奴だった。私に興味を持ってくれ、私と友達になりたかったのだ。ポスターも偶然だったかもしれないし、マネしたとしても、他の人の間でもよくあることだった。
 私に関わる二つの出来事が、彼をますます孤立させたとしたら、私は彼に悪いことをした。ポスターも食あたりも、私は表立って彼を非難した訳ではないが、同時にまた彼をクラスの噂から積極的にかばうことも無かったのだ。
 転校生の彼との思い出はそれだけしかない。
 その後に、彼と私を含めてクラスメートとの関係がどうなったか覚えていない。少なくとも、その後も友達にはなれなかったようだ。
 しかし、誕生日という言葉をキーワードに、40数年も前の彼の姿と声が思い出され、胸の奥が少し痛くなるのだ。
(2012.11.20)
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