かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(22)

2024年10月16日 | 脱原発

2015年4月17日


 〔原子力規制委員会が〕この設置変更許可をするためには,申請に係る原子炉施設が新規制基準に適合するとの専門技術的な見地からする合理的な審査を経なければならないし,新規制基準自体も合理的なものでなければならないが,その趣旨は,当該原子炉施設の周辺住民の生命,身体に重大な危害を及ぼす等の深刻な災害が万が一にも起こらないようにするため,原発設備の安全性につき十分な審査を行わせることにある(最高裁判所平成4年10月2 9日第一小法廷判决,伊方最高裁判決)。そうすると,新規制基準に求められるべき合理性とは,原発の設備が基準に適合すれば深刻な災害を引き起こすおそれが万が一にもないといえるような厳格な内容を備えていることであると解すべきことになる。しかるに,新規制基準は上記のとおり,緩やかにすぎ,これに適合しても本件原発の安全性は確保されていない。…(中略)… 新規制基準は合理性を欠くものである。そうである以上,その新規制基準に本件原発施設が適合するか否かについて判断するまでもなく,債権者らの人格権侵害の具体的危険性が肯定できるということになる。これを要するに,具体的危険性の有無を直接審理の対象とする場合であっても,規制基準の合理性と適合性に係る判断を通じて間接的に具体的危険性の有無を審理する場合のいずれにおいても,具体的危険性即ち被保全債権の存在が肯定できるといえる。
  「高浜原発3,4号機運転差止仮処分命令申立事件 決定」pp. 44-45

 期待通りの福井地裁の決定が出た。具体的な審査によっても高浜原発3、4号機の安全性は証明できないし、ましてや「緩やかにすぎ」る新規制基準による適合判定も何ら安全性を証明するものではない、と断言している。
 「電気を生み出すための一手段にすぎない原発の稼動は経済活動の自由に属するが、憲法上は人格権の中核部分よりも劣位に置かれるべきもの」とした大飯原発3、4号機運転差し止め判決に加えて、政府が再稼働の要件とした規制委員会による新規制基準適合判定もその基準がいい加減で原発の安全性を担保しないことを明言した。
 この二つの判決、決定は、政府、電力会社には原発を再稼働するいかなる合理的理由が存在しないことを意味している。
 この決定に対して、規制委員会の田中委員長は、「科学的でない」旨の発言をしている。いまさら,何を言っているのか。田中委員長を初めとする原子力工学者は、原発が「絶対安全」だという科学的虚偽をばらまきながら原発を推進してきて、福島の事故を防げなかったではないか。その時点で原子力工学者の考える「科学」は敗北したのではないか。
 しかも事故から4年経た現在でも根本的な事故処理においても手を拱いているばかりで、どんな「科学」的な対処もできていないではないか。この点でも原子力工学者の「科学」はまったく無力であるのは明らかである。(誤解がないように付け加えておくが、ここで言われているのは言葉の正しい意味で「科学」などではない。原子力工学由来の「工学技術」である。)
 原子力工学者の「科学」は福島の(じつはもっと広い地域の)人々を危険にさらした。将来の安全性を担保する力もない。そのような状況では、人々の生命を脅かす工業技術しか持たない「科学」者が何と言おうとも、いまや司法が判断を下すことしか国民の安全を保証する手立てがないではないか。
 政府のお先棒を担ぐ御用マスコミが「専門的なことを裁判所が判断するのは間違っている」という趣旨のキャンペーンを張っているが、福島の事故を防げず、起きてしまった事故の処理もできない専門家に判断を任せることは国民の自殺行為に等しい。そんな愚かなことを私(たち)は絶対にしたくないし、しない。
 さて、この22日には九州電力川内原発1、2号機の再稼働差し止めを求める仮処分申請に対する決定が鹿児島地裁から出される。必ずしも福井地裁のようには楽観視できないにしても、高浜原発と同じような決定を強く願わずにはいられない。



2015年5月15日

 青葉通り曲った頃から雨足が強まった。デモの列の前に出るために、カメラを前抱きにして傘を低くして縮こまるような姿勢で歩道を歩きながら、ふと人間性善説とか性悪説などという言葉が頭をよぎった。
 集会のスピーチを聞きながら、極めつきの悲惨な結果をもたらした福島の原発事故の後でも、原発の安全点検結果をでっち上げて恬然として恥じない東北電力の反倫理的な企業行動の悪辣さに腹を立てていたせいであろう。
 しかし、性善説とか性悪説で人間を考えるというのはあまりにも単純で愚かである。東北電力の人間が集団的に性悪説で説明できる人間たちであるわけがない。いわば、日本の社会に特徴的な「立場主義」のもたらす結果だろう。企業の人間は、いつのまにか「企業の論理」を「個人の倫理」としてしまう。自らが生きるために拠って立つべき論理と企業の論理をすり替えてしまうのである。そこには「個人の責任」という視点が欠落する。
 思えば遠く、日本の近代は未完のまま出発し、日本人の精神はときとして中世に行きつ戻りつしながら彷徨っているようだ。「近代の自我」が未発達のまま現代を生きているのだと思う。「法を遵守し、個の責任を自覚し、社会に参画する」と言えば、多くの日本人は大いに賛同するだろうが、実際にはそれを実行できるだけの精神・思想的な基盤がない。
 「近代の自我」の問題が端的に表れているのは、第二次世界大戦の戦後処理としての責任の取り方だろう。日本では、全員に責任があるという言い方で誤魔化して、誰一人自ら進んで責任を取ろうとはしなかった。それどころか、戦勝国によって戦争犯罪者として処罰された人間を国家神殿とまがうような手段で顕彰している。挙げ句の果てに、安倍自公政権が誕生したこのごろでは、どんなささやかな事柄においても日本は間違っていなかったと言って憚らない人間がたくさん公的な場に登場している有様だ。
 日本の現状から見れば、ドイツの戦後処理はまったく対照的だ。反対称なのである。国家として責任を果たそうとするばかりではなく、つい最近に至っても、大統領がギリシャ国民に対して「個人としても強く責任を感じる」と発言してドイツの戦争犯罪を謝罪している。政治家ばかりではない。政治家を批判する立場にある哲学者・思想家としてカール・ヤスパースは、こう述べている。

われわれはドイツ人としての罪の問題を明らかにしなければならない。これはわれわれ自身の問題である。外部から来る非難をどれほど聞かされ、この非難を問題として、かつはまた自分を映す鏡としてどれほど活用するとしても、このような外部からの非難とは無関係に、ドイツ人としての問題を明らかにするのである。 [1]

 近隣諸国からの非難に青筋建てて反論している日本の政治家のあれやこれ、評論家のあれやこれの顔を思い浮かべては、彼我の差、深いギャップに愕然とする(私だけではないだろうが)。自らの責任を深く考えようとする人間たちに「自虐史観」だとか「反日左翼」のような「レッテル貼り」だけで批判したつもりになっている。「われわれの罪の問題」にまったく無自覚な、典型的な前近代的な日本人像ではある。
 国家であろうが企業であろうが、組織の犯罪はそこに組みする人間によって遂行される。その個人個人が自己責任を自覚し、形あるやり方で責任を負うことの積み重ねで、近代民主主義社会の正義や倫理が確立されていくのである。個人責任に盲目であったり、意識的に回避したりすることを見逃してしまう社会では、企業の正義や社会的責任はもとより、国家の正義・倫理が育ち、確立されるはずがない。
 日本は、国家の一部を滅亡の危機にさらした東京電力ですらその責任が問われない社会なのである。日本には「近代」が成立していない。「未完の近代」のままである。私にはそうとしか思えないし、ずっとそう思っている。どう考えたって「後進国」なのだ。たぶん日本人にはそういう(無自覚の)自覚があるからこそ、最近、マスコミでは「日本はスゴイ」論的なことがらが多く発信されている。ほんとうにスゴイ人間は、自分はスゴイなどとチンピラやくざのようにはスゴまないものなのに、まるで虚勢を張ってキャンキャン吠えまくる臆病犬のようだ。 

 [1] カール・ヤスパース(橋本文夫訳)『戦争の罪を問う』(平凡社、1998年) p. 75。



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