《2014年9月19日》
安倍政権になってからの政治状況は暗い話題ばかりになってしまった。フランスの哲学者ベルナール・スティグレールが2002年の4月21日のフランス大統領選で極右政党国民戦線のジヤン=マリー・ルペンが票を伸ばしたことに驚いて次のように書いている。
その日恐ろしいほどはっきりとわかったのは、大統領選でジャン=マリー・ルペンに投票した人たちというのは、私が共に感じることのない人たちだということである。それはあたかも、われわれがいかなる共通の感性的体験をも共有していないかのようなのだ。私にわかったのは、それらの男性たち、女性たち、若者たちは今起こっていることを感じとることができない、それゆえ自分たちが社会に属しているとはもう感じていないということである。 [1]
なぜそのようなことが起こるか、ということをスティグレールは『象徴の貧困』で論じている。私たち一人ひとりの「私」は、歴史的経験、思想、芸術などが作り上げた象徴を共有し、交換することで「われわれ」としてこの社会を形成しつつ存在している。樫村愛子は、それを「象徴的なものは、芸術に代表されるように、人の生の固有性を維持するものである。スティグレールは、象徴的なものの生産に参加できなくなると「個体化」の衰退が広まると述べる」 [2] と解説している。スティグレールの「象徴」は、樫村が言う文化がもたらす社会の「恒常性」に近いものだろう。
ハイパーインダストリアル時代に私たちは消費者として画一的な価値観に晒され、「みんなが買ったから、私も買う」というような「みんな」のなかの一人としての「私」でしかなくなっている。しかし、「個体化」が衰退して象徴を交換できなくなった貧困者は「消費者社会の中心であり、彼らこそ「文明」なのだ」 [3] とスティグレールは言う。
象徴の貧困者は、2002年のフランスでは政治的にはマジョリティとは言えないが、日本では石原慎太郎が都知事に圧勝し、橋下維新の会が大阪で圧倒的な支持を受け、いまや安倍自民党政権の支持者として重大な政治結果をもたらしている。日本における彼らの性向については、想田和弘の『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』 [4] が詳しい。
象徴の貧困者が、スティグレールが言うように「消費者社会の中心」なら問題はかなり深刻である。しかし、スティグレールは、次のようにも語っている。
私がここで象徴の貧困と名付けたのは、まずこの極右政党に投票した人たちが苦しみ、投票という証言――その証言がどんなに醜悪なものであり、またそう見えたとしても――をしているその貧困のことである。ただし、その政党そのものと私が話し合うということは当然ながらあり得ない。
しかし、国民戦線との話し合いを拒むからといって、この政党に投票した人たちと話し合わないということでは決してない。それどころか私は誰よりもその人たちに向かって話さなければと考えている。 [5]
そして、「国民戦線へ投票する人たちに異議を申し立てる闘いにおいて、私が彼らに何よりも言いたいのは、私の彼らへの友情なのだ」 [6] とまで断言する。スティグレールは、「ARS INDUSTRIALIS」なる国際運動組織を立ち上げて、消費者社会が席巻する現代文化の問題に立ち向かっているというが、その詳細を私は知らない。
いま、スティグレールを含めて多くの人びとが、友情を持って「彼ら」に話しかける内容、方法を模索しているに違いない。私もまた何かを、と願ってはいるのだが。
[1] ベルナール・スティグレール(ガブルエル・メランベルジェ、メランベルジェ眞紀訳)『象徴の貧困 1 ハイパーインダストリアル時代』(以下、『象徴の貧困』)(新評論、2006年) p. 24。
[2] 樫村愛子『ネオリベラリズムの精神分析――なぜ伝統や文化が求められるか』(光文社、2007年) p. 95。
[3] 『象徴の貧困』 p. 26。
[4] 想田和弘『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』(岩波書店、2013年)。
[5] 『象徴の貧困』 p. 211-2。
[6] 『象徴の貧困』 p. 218-9。
《2014年9月28日》
9月27日午前11時53分に長野、岐阜県境の御嶽山が突然噴火した。今月に入って火山性地震が頻発していたが、これまでの御嶽山の火山性地震が必ずしも噴火に結びつくわけではなかったことや、山腹膨張などそれ以外の予兆がまったくなかったこともあって、噴火の予知は不可能だったという。そのため入山禁止などの措置がとれなかったので、多くの登山者が被害に遭い、28日現在、27人負傷、うち10人意識不明(朝日新聞)とか、7人が意識不明、42人が重軽傷(NHK)、あるいは山頂付近で31人の心肺停止が確認(毎日新聞ニュースメール)と報道されている。火山噴火を予知できないことで、大きな人的被害が出ているのだ。
御嶽山噴火は、川内原発が新規制基準に適合していると判断した原子力規制委員会の結論がきわめて危ういことをあらためて示した。
九州電力は、川内原発の半径160キロ圏内に位置する複数のカルデラが、破局的な噴火を起こす可能性は十分に低いうえ、監視体制を強化すれば、前兆を捉えることができるとの見解で、それを規制委員会は容認した。
しかし、「東大地震研究所の中田節也教授は、カルデラ噴火の前兆は確実に捉えることができるとの見方を否定する。中田教授はロイターの取材に対し「とんでもない変動が一気に来た後に噴火するのか、すでに(十分なマグマが)溜まっていて小さな変動で大きな噴火になるのか、そのへんすら実はわかっていない」と話した」(REUTERS)と報じられているように、火山噴火の専門家は「前兆を捉えられる」とする「素人」の九州電力、原子力規制委員会の判断を否定している。火山噴火予知連絡会の藤井敏嗣会長が、原子力規制委員会に予知する術はないと強く批判したのはまったく当然のことなのだ。
火山噴火の一点を見ても、原子力規制委員は各分野の専門家と称しながら、専門家の学術的な意見に耳を傾けないのである。彼らの判断基準が、もはや学問的、専門的な知見に基づいているとは言い難いということだ。自分の専門分野以外のプロフェッショナルに敬意を払えない科学者というのは、科学者としてのアイデンティティを自ら否定しているに等しい。
他人の専門性を尊重せずに、自分の専門性は尊重してほしいなどとは、合理的な理性の持主なら口が裂けても言えないはずだ、ガキじゃあるまいし。
私たちは、原子力規制委員会の川内原発に関する判断を否定し、安倍政権の原発再稼働の政治的策動に抗い、鹿児島県知事の再稼働推進を拒否するために、今日もデモに出かける。
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