《2017年8月18日》
前にも何度か書いたが、ギュンター・アンダースという反核の哲学者がいる。アンダースには「核兵器とアポカリブス不感症の根源」という重要な論考を収めた『時代遅れの人間 上・下』(青木隆嘉訳、法政大学出版会、1994年)や『核の脅威――原子力時代についての徹底的考察』(青木隆嘉訳、法政大学出版会、2016年)などの著作がある。
アンダースと広島の原爆投下作戦に加わったパイロット、クロード・イーザリーとの交流も知られているが、石戸諭さんという人があらためて二人の交流についての記事をネットに投稿している。
イーザリー少佐は、1945年8月6日、原爆を積んだ「エノラ・ゲイ」を先導する「ストレート・フラッシュ」に乗っていて天候や敵機の状況を調べ、原爆投下の判断を「エノラ・ゲイ」に伝える役目だった。帰国後、原爆で亡くなった人たちの幻影に怯え、苦しみながら「原爆投下は間違いだった」と話すようになって、精神錯乱を理由に入院させられることになる。
アンダースは、広島や長崎の被爆者を訪ね、イーザリーとの交流を通じて反核の哲学を強化する。彼の哲学は、被害と加害、双方の苦しみをベースにしていると考えてよいだろう。
戦争犯罪の加害者ということに関して、アンダースは、イーザリーの対極としてナチス・ドイツの親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンに言及する。二人とも、軍事システムの一つの歯車として歴史上想像を絶するような戦争犯罪に加わったが、一方はその犯罪に精神を病んでいるとみられるほど苦悩し、一方は何も考えない「凡庸な行動」についてどんな責任も感じていない。アイヒマンの戦争犯罪を「悪の凡庸さ」、「悪の陳腐さ」と形容したのは、ハンナ・アーレントである(アイヒマン裁判を傍聴し、『エルサレムのアイヒマン』を著したアーレントは、イーザリーと交流したアンダースの最初の夫である)。
二人と同じような立場に置かれたら、私たちはイーザリーになるのか、アイヒマンになるのかという困難な問いを立てることも可能だろうが、歴史を知った私たちは同じ立場を拒絶することができる。反軍であれば良いのだ。ただし、これもまた歴史が教えるところだが、反軍の人民は権力の敵であって、イーザリーやアイヒマンの世界のずっと手前で、権力によって抹消される可能性が高いが……。
脱原発は反核に向かい、反核は反軍に向かう。選択可能な正しい凡庸さとはそういうものだろう。
脱原発から反核へ、反核から反軍へと語るのは、私が「七十年も生きた」人間だからであって、仮にいま二十歳の若者だったら、情緒的であれ何であれひたすら右傾化する世間の空気を吸いながら、戦争へのめり込もうとする安倍自公政権の権力システムに搦めとられずに済むだろうか。闘わなくてすむようになった老人のたわ言ではないのか。そんな疑問が残り続ける(いつものことだが)。
靴を使うのをケチったやつの靴は
ぼろぼろになったりはしない。
疲れもせず、悲しくもならないやつは
はねて踊ったことがいちどもない。
ベルトルト・ブレヒト「疲れた蜂起者たちの歌」から [1]
青年期を過ぎてからずっと私が苦しんでいたことは、宮柊二が次のように詠んだそのままである。
ひらめきてわれが身内をはしりたる激しき恥に頸(うなじ)を垂るる
宮柊二 [2]
[1] ベルトルト・ブレヒト(野村修訳)『世界現代詩文庫31 ブレヒト詩集』(土曜美術社出版販売 2000年)p.30。
[2] 『宮柊二歌集』宮英子・高野公彦編(岩波文庫 2002年、ebookjapan電子書籍版)p. 110。
《2017年8月25日》
「ブラック企業」とか「ブラックバイト」という言葉はすっかり定着して、今では「ブラック企業大賞」なども設けられていて、社会からの批判の構造はそれなりにできているように見える。とはいえ、労基法を的確に適用していけば防げていたような事例が後を絶たない。電通の例のように、人の生命が失われてからやっと適用されるのがせいぜいに思える。つまりは、政治のレベルでブラック企業を防ごうという意欲も努力も私には見えないのだ。
最近は、「インパール企業」などという言葉もネットで見かけることがある。先の戦争のインパール作戦のように、無能な指揮官のもとに壊滅に向かう企業のことを指すらしい。さしずめ、東芝や東京電力がその例ではないか。世界では、賢い指揮官を持つ企業の原子力からの撤退が続いている。日本の原子力産業は、自公政権という世界情勢や歴史に盲目な指揮官のもと壊滅へ歩を早めている。政府の「エネルギー基本計画」には、「原子力政策の再構築」という現代版インパール作戦が組み込まれている。
ブラック企業やインパール企業が後を絶たないのは、日本の社会(柳田国男ふうに「世間」と呼んでもいい)がそれを許してしまっているからではないか。『ブラック・デモクラシー』 [1] という本を読みながらそんなことを考えた。仙台市図書館で見つけた本で、藤井聡さん、適菜収さん、中野剛志さん、薬師院仁志さんが論考を寄せ、湯浅誠さんと中野さんの対談も収録されている本だが、まだ読み始めたばかりである。
編著者の藤井さんは大阪維新の会の大阪都構想の欺瞞性を厳しく批判して、橋下前大阪市長や松井大阪府知事から激しい口撃や圧力を受けた経験を書いている。つまり、大阪維新の会が行っていた政治にブラック・デモクラシーの典型を見ることができるということだ。
ブラック・デモクラシーを端的に言えば、「多数決を金科玉条とするデモクラシー」であると藤井さんは言う。学校でのいじめは、みんながやっているからといじめる多数の側に加わることで成り立つブラック・デモクラシーの単純な例である。
ブラック・デモクラシーは、デモクラシーの基本である熟議を否定する。藤井さんは、デモクラシーを「真っ黒に仕立て上げ、邪悪なものであろうとなんであろうと政治的正当性を付与する」ものとして次の4つの振舞いを「ブラック・デモクラシーの四要素」として挙げている。
(1)多数決崇拝:多数決の結果こそ崇高なるものだと主張する。
(2)詭弁:弁証法的議論の全てを遠ざけ、ひたすらに「詭弁」を弄し、「真実」に基づく批判を無力化し、封殺する(したがって、これもまた「言論封殺」の一種である)。
(3)言論封殺:あらゆる権力を駆使して「言論封殺」を図る。
(4)プロパガンダ:あらゆる心理操作を駆使して、自説への贊成を増やすための嘘にまみれたプロパガンダを徹底展開する。
橋下前大阪市長が率いていた大阪維新の会がこの「ブラック・デモクラシーの四要素」を徹底して行っていたことは、この本に詳述されている。橋下前大阪市長とその支持者の言動については、想田和弘さんも『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』[2] という本で論じている。つまり、日本人は「ホワイト・デモクラシー」を捨てて「ブラック・デモクラシー」を選ぼうとしているのではないかと想田さんは問うているのである。
大阪維新の会の手口を学んだかのように「ブラック・デモクラシーの四要素」を盛大に実践しているのが現在の安倍自公政権なのだ。国会における熟議は全面的に否定され、すべての大臣は質問に答えることなく(答えられずに)日本語ならざる言葉をだらだらと流すだけで、最後は強行採決ばかりである。数こそ力だ、という理屈をそのまま実践しているのだ。「自由民主」というのは、〈Freedom and Democracy〉ではなく〈Freedom from Democracy〉ということらしい。民主主義のルールにまったく縛られない自由を標榜している政党なのだろう。
いま、日本の民主主義は暗澹たる状態に陥っている。だが、日本の民主主義は必ずしも日本の国民の歴史的営為で獲得したものだとは言えない。だから、逆様に考えれば、今の情況こそが真正の民主主義を自らの手で勝ち取っていく絶好の機会でもあるのだ。一夜漬けで身につかなかった民主主義から、わが身に沁み込ませるように創り上げていく民主主義のチャンスだと考えることにしよう。半ば悔し紛れには違いないが、そんなことを考えた。
大阪都構想の住民投票前の維新の会のプロパガンダの様子を書いた適菜収さんの「潜入ルポ これぞ戦後最大の詐欺である」まで読み終えた。私たちがいま現在、目の当たりにしている政治のなかにブラック・デモクラシーの例をたくさん見出すことができるので、この本に書かれていることはじつによく理解できる。
ただし、ブラック・デモクラシーを蔓延させる理由の一つとして、マスコミ・ジャーナリズムがそうした不正への批判力を失っているということがある。そのため、テレビや大新聞のニュースばかりではブラック・デモクラシーの本当の様子がよく伝わらないことがある。ネットで流れるニュースはとても役に立つのだが、ネットはネットで「玉石混交」のニュースが無差別で流されるという問題がある。
第3章の中野剛志さんの「どうすれば民主政治から自由を守れるのか」という論考を読み始めたところで時間になった。老犬を散歩に連れ出してから、着替えて錦町公園に向かうのである。
[1] 藤井聡編著『ブラック・デモクラシー――民主主義の罠』(晶文社、2015年)。
[2] 想田和弘『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』(岩波書店、2013年)。