かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(38)

2024年12月29日 | 脱原発

2016年8月12日

 伊方原発が再稼働された。「狂気の沙汰だ」とか「正気の沙汰ではない」と言う友人や知人の声が聞こえてくる。私も「狂気の沙汰だ」と思う。この自公政権や電力会社の再稼働の決断、それを歓迎する地方政治家の「狂気」は何に支えられているのか。
 60年以上も前に、この地球には「核アポカリプス不感症」が蔓延している、とギュンター・アンダースが喝破している。ヒロシマ、ナガサキにそれぞれウラニウム型原爆、プルトニウム型原爆が落とされ、ビキニ環礁で水爆実験が行われた後の人類の話である。まだ読み終えていないが、そういうことが『脱原発の哲学』[1]に書かれていた。
 私たちが生き死にする世界、つまり生化学的な生存環境の次元とはまったく異なる物理的レベルで生じる原子核分裂を利用した軍事技術の対象はまちがえようもなく人間であるが、その技術水準は人類殲滅の段階に達してしまっている。しかし、それを現実世界で目の当たりにしても、私たちは黙示録的な世界の終焉を想像することができない。それが「アポカリプス不感症」である。
 ヨハネの黙示録に示された神の目的としての世界観は私たちにはなかなか馴染めないが、『脱原発の哲学』の著者ら(佐藤嘉幸、田口卓臣)は「核カタストロフィ不感症」という言葉も用いている。
 世界の政治権力が「原子力の平和利用」と言い換えても、原子力発電は技術水準としては原爆とほとんど変わらない。スリーマイル島、チェルノブイリ、フクシマで起きたことは、原発の事故が原爆の人類殲滅への道とまったく変わらないことを示している。あと2、3か所で原発事故が起きたら、おそらく日本列島に人間は住めなくなってしまう。理としては、誰でもそんなことはわかる。しかし、リアルな未来の現実として想像することができないのだ。
 それでも原発を止められない人たちがいる。想像力がないのではない。想像することを拒否する「病」に侵されている。その病名を「核アポカリプス不感症」あるいは「核カタストロフィ不感症」と呼び、それが亢進すると「川内原発再稼働」、「伊方原発再稼働」という狂気として発症するのである。

 どのような悲惨な歴史があったにせよ、確かに、人類は人類が生き延びられる条件が満たされた世界でのみ生きてきた。そのような人間たちが世界の終末を想像することは非常に困難だろう。黙示録に示された神の意思を理解することも難しい。
 しかし、人間は人間が生み出した科学技術がもたらす世界なら想像できるのだろうか。ギュンター・アンダースが言おうとしたことは、人間には人間自身の技術でありながらその結果を想像できない技術があり、原爆はそのような技術そのものである、ということだろう。『脱原発の哲学』には、原爆と原発が全く同等のものだということが詳説されている。
 人間を盲目にさせるもう一つの重要な要素は、その人間が帰属する階層(階級、クラス)の利害であろう。『脱原発の哲学』に次のような一文がある。

〔……〕チェルノブイリ原発事故の影響については様々な評価があるが、IAEAなどからなるチェルノブイリ・フォ—ラムは、チェルノブイリ原発事故の被害を受けた三ヵ国(ベラルーシ、ロシア、ウクライナ)のうち、比較的被曝量の多い六〇万人を対象として、ガン死者数を約四〇〇〇人と評価している。また、グリーンピースは全世界を対象に、ガン死者数を九万三〇八〇人と評価している。さらに、ニューヨーク科学学会は、全世界の五〇〇〇以上の論文と現地調査を基に、ガン以外も含めた多様な死因による死者数を九八万五〇〇〇人と評価している。(p. 34)

 IAEA(国際原子力機関)はもともと原発を推進する国々の政府からなる機関であるが、それにしても原発事故による死者数の違いに驚くほかはない。原発を推進しようとする権力イデオロギーにとっては実際に起きた(起きつつある)原発事故の死者の姿も見えないのである。
 そういえば、福島事故に際して「死者は一人もいない」とその盲目ぶりを恥ずかしげもなく顕示した自公政権の閣僚もいる。無知(イデオロギー的盲目)が再稼働の狂気を煽っている図だ。

[1] 佐藤嘉幸、田口卓臣『脱原発の哲学』(人文書院、2016年)。



2016年8月28日

 8月27日に仙台市民活動サポートセンターで開催された「風の会」の公開学習会「原子力のい・ろ・は」の私の話は、ジャン=リュック・ナンシーの次のような言葉 [1] で話を締めくくったのだが、予定時間をだいぶオーバーしてしまったので話しそびれてしまったことがある。

アウシュヴィッツとヒロシマのいずれも、それまでめざされてきた一切の目的とはもはや通約不可能な目的のために技術的合理性を作動させるにいたったのだ。というのも、こうした目的は、単に非人間的な破壊ばかりではなく 、完全に絶滅という尺度にあわせて考案され計算された破壊をも必然的なものとして統合したからである。(原文を部分的に省略している)

 人類は、ソフトウエアとしての人種殲滅のナチズムという思想と人類殲滅のハードウエアとしての原水爆(そして原発)を手にしてしまった(思想的・技術的合理性を作動させてしまった)、という意味のことを話したが、その後に付け加えたかったのは次のようなことだ。
 ナチズムの国、ドイツではいまや徹底的にナチズム批判をしている。ホロコーストはなかったなどという妄言は犯罪として訴追される。加えて、フクシマ以後、ドイツは原発の廃棄へ舵を切った。つまり、人類殲滅に繋がるソフトもハードも敢然と放棄する道を選んだのである。
 ところが、わが日本はどうだろう。南京虐殺はなかった、慰安婦の強制連行はなかった、侵略などしていないなどと歴史を歪曲して、戦争を遂行した戦犯を靖国神社に奉じて閣僚が参拝までしている。その上、フクシマの悲惨にもかかわらず原発を再稼働させたうえ、「プルトニウムは抑止力になる」だとか「憲法は核兵器所有を禁じていない」などと口走る始末である。
 ドイツと日本は真逆の道を進み始めた。その日本で、原発に反対する意思表示をすること、反対しつづけることには、単にどんな技術的手段で発電するか、どういうふうにエネルギー問題を解決するかなどというレベルをはるかに超えた意味がある。ジャン=リュック・ナンシーが言おうとしているのはそういうことではないか。
 原発に反対することは、人類殲滅へ向かう歴史に抗うことに繋がる。日本の政治ばかりではなく、世界の政治へ向かう重要な道筋のはじめに「脱原発デモ」は位置している。
 大げさでもなんでもなく、私はそう付け加えたかったのである。 

[1] ジャン=リュック・ナンシー(渡名喜庸哲訳)『フクシマの後で』(以文社、2012年) pp. 32-33。

 

 

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