《2016年9月10日》
とても細くしなやかな一本の白髪を摘まみあげたとき、ふっと時間が止まってしまったような感覚に陥った。7センチほどの長さで、鋏で切られた跡がない。女性のものだろう。
さて、この白髪をどうしよう。すこし戸惑っている自分に気づいたが、どうもこうもなく、ゆっくりと屑籠に捨てた。
水曜日の午後、市立図書館から借りだした本の中に『現代短歌全集 第17巻』があった。〈かわたれどきの頁繰り〉として、木曜日の早朝4時ころ、その本の頁を繰っていた。180頁を開いたら、島田修二の歌に付けられたかぼそい付箋のようにその白髪はあった。
歌ひつづけ歩みつづけて来しからに帰りなんいざ無韻の里へ[1]
何の根拠もないのだが、この白髪の女性も長い人生を「歌ひつづけ歩みつづけて来」た歌詠み人だったにちがいないと思ってしまったのだった。私は歌詠みではないので、「無韻の里」へ帰りたいと願う心をそのまますんなりと理解できるわけではないが、必死で生きてきた人生からまた別の人生へと願ったことはある。
ただの偶然にすぎないことを、こんなふうに記してしまうと、なにかそれなりの感傷が生まれたような気分になってしまうが、じっさいはそのあいだ空白の感情のまま過ぎていたようにしか思えない。空白の感情というのは、つまりはうまく表現できる言葉が見つからないということでもある。
白髪によって誘われた短い時間の感傷を離れ、再び頁を繰っていると、冬道麻子の章で次のような歌を見つけた。
此の世にてめぐりあうべき人がまだいる心地して粥すすりおり[2]
もしかしたら、私のなかにもこんな若々しいロマンチシズムがかろうじて生き残っていて、あの一本の白髪を眺めていたのだろうかなどと一度は思い、いや、そんなことはあるはずもないと否定してみたり……。その答えなど打ち捨てるように本を閉じ、犬と散歩に出かけた。窓の外はとっくに明るくなっていて、予定時間を過ぎて犬は1時間以上も待たされていた。
[1] 島田修二「渚の日々」『現代短歌全集 第十七巻』(筑摩書房、2002年) p. 181。
[2] 冬道麻子「杜の向こう」同上、p. 428。
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