「銀河鉄道の夜」は、いうなれば「ある少年が見た夢の話」である。
ジョバンニ少年のとてつもない想像力が創りだした(あくまでも最終形において=それは神秘的な宇宙や、大好きな鉄道への憧れをぎゅっと詰め込んだ)、「飛躍的」な夢である。
・・・つくづく思う。
夢って、なんと無責任で人騒がせな現象なんだろう。
・・・常識では考えられないような状況に陥ったり、自分がそんなことをするだろうかという驚きの行動をしてしまったり、しかもその場なりの必然性、構築性がしっかり確保されていて、最後はいつも唐突な終わり方をする。
どこからそんな設定が出てくる?と、目が覚めてから自問するが、なにもかも夢の中に置いてきてしまって思い出せない。夢が展開するときにはもう自分をとりまく設定がすっかり出来上がっていて、それに疑問ぬきで従っている。突然破れるように目が覚めて、初めて夢だったことに気がつく。夢を夢だと認識しながら見ていることはまず無い(まれに、ある、けど)。
ジョバンニという少年は、銀河ステーション、銀河ステーションという声とともに列車の座席に座っている自分を知覚する。その時、ここどこだ、とはならない。なんでこんなところにいるんだ、とパニックになることもない。濡れたような少年の肩を見ながら落ち着いて座っている。そしてそれが誰だかすっかり判っている。
カムパネルラ(旧仮名のほうが現行「カンパネルラ」より自分は馴染が深い。)という少年は、そこではジョバンニの親しい友だちという事になっている。だがジョバンニがそう信じ込んでいても、実際そのとおりかどうかはわからない。むしろザネリやカトウといった子供たちと遊ぶことのほうが多い子なのかもしれない。またはかつてジョバンニと親しかったけれど交友関係が移ろう時期がきて疎遠になっているのかもしれない。でもジョバンニのなかでカムパネルラは、自分のことをほんとうに解ってくれる親友なのである。これも夢のなせる飛躍であろう。カムパネルラに対する感情は、少し執着的な感じがする。これこそが「銀河鉄道の夜」の主題へと主人公を導く大事な設定だったと思っている。
「銀河鉄道の夜 初期形一」は主題を簡潔にまとめた試作版であった。
それはジョバンニの「嫉妬」を描くところから始まる。カムパネルラが同席した女の子たちと楽しそうに話している。その横でジョバンニはそっぽを向いてひたすら孤独に耐えている。
『カムパネルラ、僕もう行つちまふぞ。僕なんか鯨だつて見たことないや』
それは気後れて会話に乗れなかっただけかもしれない。女の子たちだってジョバンニを避けていたわけではない。ただ、カムパネルラが驚くほどスマートに女の子たちと溶け込んでしまい、ジョバンニは急に自分だけ取り残されたような気持ちになってしまったのだ。だれでもちょっとは経験のある嫉妬。それは親友に対する独占欲であり、裏返せば「そっちじゃなくて、こっちを見て」いてほしいという欲求でもある。ましてやジョバンニはいま同級生と上手くやれず孤独の只中にいる。人に言えば笑われてしまうような恥ずかしい感情を、宮澤賢治という人はよくもここまで正直に表すものだと、子供ながらに感心したことを覚えている。
(このあとジョバンニの心持ちがだんだん晴れてゆく描写が、とても丁寧で美しい)
女の子たちの話は、やがて「蠍の火」へと移行する。
サソリはあるときイタチに追われ、井戸へと転落する。サソリは虫などを捕食する肉食動物。イタチもまた肉食動物だからサソリを捕食しようとしたのだ。
井戸で溺れかけたサソリは自身を悔いて言う。
「あゝ、わたしはいままでいくつのものの命をとつたかわからない、(中略)どうしてわたしはわたしのからだをだまつていたちに呉れてやらなかつたらう。そしたらいたちも一日生きのびたらうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひ下さい。」
物語(初期形一)の終盤、「まことのみんなの幸(幸い)」ってなんだろう、とジョバンニとカムパネルラは話し合う。女の子たちとはすでにサザンクロス駅(=天上)で別れていた。
カムパネルラに対する独占欲とも言える嫉妬に陥っていたジョバンニが「まことのみんなの幸」を口にするまでの成長。これが「銀河鉄道の夜」の主題だろう。
そしてそれは、親友との別れによって一層深い想いになってゆく。
やっと二人きりになれたのに、これから「まことのみんなの幸」についていっぱい話したいことがあったのに、カムパネルラはそこにはもういなかった。眼の前の座席はただ黒いびろうどばかり光っているだけ。
この時『ジョバンニ、カムパネルラの死に遭ふ』の筋書きは、すでにあったのではないか。おそらく初期形から最終形までに混在するあらゆるエピソードは、最初から賢治の中にあったのではないか。
ジョバンニの心の視野が広く開拓されてゆく過程を主題としつつ、それを促すためのエピソードを、取ったりくっつけたりしたのが初期形から最終形への推移ではないか。
これは道徳的な物語であり、明らかに自分より若い世代への普遍的なメッセージを残そうとしている。だから原作者の私事情などというものは、完全に浄化されてから執筆されていると考えてよいと思う。
ジョバンニ少年のとてつもない想像力が創りだした(あくまでも最終形において=それは神秘的な宇宙や、大好きな鉄道への憧れをぎゅっと詰め込んだ)、「飛躍的」な夢である。
・・・つくづく思う。
夢って、なんと無責任で人騒がせな現象なんだろう。
・・・常識では考えられないような状況に陥ったり、自分がそんなことをするだろうかという驚きの行動をしてしまったり、しかもその場なりの必然性、構築性がしっかり確保されていて、最後はいつも唐突な終わり方をする。
どこからそんな設定が出てくる?と、目が覚めてから自問するが、なにもかも夢の中に置いてきてしまって思い出せない。夢が展開するときにはもう自分をとりまく設定がすっかり出来上がっていて、それに疑問ぬきで従っている。突然破れるように目が覚めて、初めて夢だったことに気がつく。夢を夢だと認識しながら見ていることはまず無い(まれに、ある、けど)。
ジョバンニという少年は、銀河ステーション、銀河ステーションという声とともに列車の座席に座っている自分を知覚する。その時、ここどこだ、とはならない。なんでこんなところにいるんだ、とパニックになることもない。濡れたような少年の肩を見ながら落ち着いて座っている。そしてそれが誰だかすっかり判っている。
カムパネルラ(旧仮名のほうが現行「カンパネルラ」より自分は馴染が深い。)という少年は、そこではジョバンニの親しい友だちという事になっている。だがジョバンニがそう信じ込んでいても、実際そのとおりかどうかはわからない。むしろザネリやカトウといった子供たちと遊ぶことのほうが多い子なのかもしれない。またはかつてジョバンニと親しかったけれど交友関係が移ろう時期がきて疎遠になっているのかもしれない。でもジョバンニのなかでカムパネルラは、自分のことをほんとうに解ってくれる親友なのである。これも夢のなせる飛躍であろう。カムパネルラに対する感情は、少し執着的な感じがする。これこそが「銀河鉄道の夜」の主題へと主人公を導く大事な設定だったと思っている。
「銀河鉄道の夜 初期形一」は主題を簡潔にまとめた試作版であった。
それはジョバンニの「嫉妬」を描くところから始まる。カムパネルラが同席した女の子たちと楽しそうに話している。その横でジョバンニはそっぽを向いてひたすら孤独に耐えている。
『カムパネルラ、僕もう行つちまふぞ。僕なんか鯨だつて見たことないや』
それは気後れて会話に乗れなかっただけかもしれない。女の子たちだってジョバンニを避けていたわけではない。ただ、カムパネルラが驚くほどスマートに女の子たちと溶け込んでしまい、ジョバンニは急に自分だけ取り残されたような気持ちになってしまったのだ。だれでもちょっとは経験のある嫉妬。それは親友に対する独占欲であり、裏返せば「そっちじゃなくて、こっちを見て」いてほしいという欲求でもある。ましてやジョバンニはいま同級生と上手くやれず孤独の只中にいる。人に言えば笑われてしまうような恥ずかしい感情を、宮澤賢治という人はよくもここまで正直に表すものだと、子供ながらに感心したことを覚えている。
(このあとジョバンニの心持ちがだんだん晴れてゆく描写が、とても丁寧で美しい)
女の子たちの話は、やがて「蠍の火」へと移行する。
サソリはあるときイタチに追われ、井戸へと転落する。サソリは虫などを捕食する肉食動物。イタチもまた肉食動物だからサソリを捕食しようとしたのだ。
井戸で溺れかけたサソリは自身を悔いて言う。
「あゝ、わたしはいままでいくつのものの命をとつたかわからない、(中略)どうしてわたしはわたしのからだをだまつていたちに呉れてやらなかつたらう。そしたらいたちも一日生きのびたらうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひ下さい。」
物語(初期形一)の終盤、「まことのみんなの幸(幸い)」ってなんだろう、とジョバンニとカムパネルラは話し合う。女の子たちとはすでにサザンクロス駅(=天上)で別れていた。
カムパネルラに対する独占欲とも言える嫉妬に陥っていたジョバンニが「まことのみんなの幸」を口にするまでの成長。これが「銀河鉄道の夜」の主題だろう。
そしてそれは、親友との別れによって一層深い想いになってゆく。
やっと二人きりになれたのに、これから「まことのみんなの幸」についていっぱい話したいことがあったのに、カムパネルラはそこにはもういなかった。眼の前の座席はただ黒いびろうどばかり光っているだけ。
この時『ジョバンニ、カムパネルラの死に遭ふ』の筋書きは、すでにあったのではないか。おそらく初期形から最終形までに混在するあらゆるエピソードは、最初から賢治の中にあったのではないか。
ジョバンニの心の視野が広く開拓されてゆく過程を主題としつつ、それを促すためのエピソードを、取ったりくっつけたりしたのが初期形から最終形への推移ではないか。
これは道徳的な物語であり、明らかに自分より若い世代への普遍的なメッセージを残そうとしている。だから原作者の私事情などというものは、完全に浄化されてから執筆されていると考えてよいと思う。
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