放菴日記抄(ブログ)

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試論「100年の銀河鉄道」#5 まことの完成形を求めて

2024年12月22日 00時16分03秒 | 賢治さん
 「銀河鉄道の夜」は幻想的文学の最高峰だと思う。
 幻想、と簡単に書いたが、「幻想」とは何かと問われても、うまく説明できない。
 「幻想」を言葉で定義しようとすると、たちまちそれは消え失せる。
 「幻想」に条件付けを試みると色褪せる。
 「幻想」とは掴みどころがないもの。「幻想」とは自由な空想のその先にあるもの。
 それでも文学において、幻想性には「感度(純度?)」のようなものがある。そして一定の感度を損なわずにいる幻想文学は魅力的である。感度と言ってしまえば、それは度合いの比較が可能ということにもなるわけで、「こうしたほうがいいんじゃないか」「こうすればもっと感度があがる」といった工夫の余地もあるということだ。
 「銀河鉄道の夜」は、ブルカニロ博士の不純なる実験のおかげでその幻想性が大きく損なわれてしまった。彼はある意味、「幻想」のダークサイドに居るのかもしれない。彼はネクロマンシー(屍人術)や降霊・口寄せの技術をもってジョバンニを騙した嫌疑をもかけられている。
それゆえ最終形において、博士および「黒い大きな帽子をかぶった青白い顔のやせたおとな」に関する文章は、ばっさりと削除された。でもそれはそれで幻想性が損なわれたままだ。いわば大きな傷跡がむき出しのまま、修復もされずに放置された観が、最終形には、ある。原作者の命が尽きたわけだから仕方がない話だが、これだけ多くの研究者たちが作品の構成について議論してきたのだから、ベストな完成形(仮)についても試論があって然るべきと考える。

 やはり銀河鉄道は、大人が意図したまがい物であってほしくない。少年たちと人知を超えた存在との共鳴が織りなす幻想四次元の奇跡であってほしい。
 張り裂けそうな不安と孤独を抱え、少年は夜の林の小道を駆け抜け、牧場のうしろの黒い丘に上って、どかどかするからだを冷たい草原に投げ出した。夜空には、しらしらと天の川が映る。
 同じ頃、街のケンタウル祭ではもう一人の少年が川で溺れた同級生を助けようとして水に呑まれた。黒い水面にもしらしらと天の川が映る。
 少年の声にならない叫び。孤独でちぎれそうな心の闇。いくつかの偶然が重なって、銀河ステーションはまるでダイヤモンド箱をひっくり返したように眩しく出現した。まるで以前から存在していたかのように、列車はごとごと走っていた。そこへあらゆる旅人(霊体)が集まってくる。灯台守や鳥を捕る人はときどきこの列車を利用しているのだろうか。タイタニック号の遭難者たちはどこで列車のことを知ったのだろうか。乗る人も降りる人も目的や考え方はさまざま。生業を成す人、天上を目指す人、巡礼、こういったプリズムのような出会いと別れが「幻想」の感度を無限に上げて、物語はますます透明になってゆく。銀河鉄道の物語は、そのようなものであってほしい。

 いっぽうで気になってしまうのは、ときどき聞こえるやさしいセロのような声。これはやはりブルカニロ博士なのだろうか。それともアバター?
 最終稿ではすっかり亡き者である。しかし正直勿体ない。
 「黒い大きな帽子をかぶった青白い顔のやせたおとな」(以下略して「黒い帽子のおとな」とする)の言葉がとてもすばらしいのだ。

<「おまえのともだちがどこかへ行ったのだろう。あのひとはね、ほんとうにこんや遠くへ行ったのだ。おまえはもうカムパネルラをさがしてもむだだ。」
「ああ、どうしてなんですか。ぼくはカムパネルラといっしょにまっすぐに行こうと言ったんです。」
「ああ、そうだ。みんながそう考える。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまえがあうどんなひとでも、みんな何べんもおまえといっしょに苹果をたべたり汽車に乗ったりしたのだ。だからやっぱりおまえはさっき考えたように、あらゆるひとのいちばんの幸福をさがし、みんなと一しょに早くそこに行くがいい。そこでばかりおまえはほんとうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ。」
「ああぼくはきっとそうします。ぼくはどうしてそれをもとめたらいいでしよう。」
「ああわたくしもそれをもとめている。おまえはおまえの切符をしっかりもっておいで。そして一しんに勉強しなけあいけない。おまえは化学をならったろう。水は酸素と水素からできているということを知っている。いまはだれだってそれを疑やしない。実験して見るとほんとうにそうなんだから。
 けれども昔はそれを水銀と塩でできていると言ったり、水銀と硫黄でできていると言ったりいろいろ議論したのだ。みんながめいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまだというだろう。けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論するだろう。そして勝負がつかないだろう。けれどももし、おまえがほんとうに勉強して、実験でちゃんとほんとうの考えと、うその考えとを分けてしまえば、その実験の方法さえきまれば、もう信仰も化学と同じようになる」>(新潮文庫「銀河鉄道の夜」昭和48年・第21刷より)

 「黒い帽子のおとな」は、初期形一~三において、やさしいセロのような声でさまざまにジョバンニたちに語りかける。彼は、「あの声、ぼくなんべんもどこかできいた。」「ぼくだって、林の中や川で、何べんも聞いた。」と言われるくらいジョバンニやカムパネルラにとって馴染まれている存在となっている。このあたり、いかにも夢の世界らしい勝手すぎる設定なんだけど、彼がファシリテーターとして物語に寄り添っていることで、銀河鉄道はごとごとと走り続けているようにも思う。

<そのときまっくらな地平線の向こうから青じろいのろしが、まるでひるまのようにうちあげられ、汽車の中はすっかり明るくなりました。そしてのろしは高くそらにかかって光りつづけました。
「ああマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのために、みんなのために、ほんとうのほんとうの幸福をさがすぞ」
 ジョバンニは唇を噛んで、そのマジェランの星雲をのぞんで立ちました。そのいちばん幸福なそのひとのために!
「さあ、切符をしっかり持っておいで。お前はもう夢の鉄道の中でなしにほんとうの世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐに歩いて行かなければいけない。天の川のなかでたった一つの、ほんとうのその切符を決っしておまえはなくしてはいけない」>(新潮文庫「銀河鉄道の夜」昭和48年・第21刷より)

 ここが物語の最高潮ではないだろうか。このくだりを踏まえてのち、夢から醒めたジョバンニが牧場でおっかさんの牛乳を受け取り、帰路、川辺で「こどもが水へ落ちたんですよ」と聞かされるラストにたどり着く。夢の世界から現実の悲劇への暗転。最後のシーンがこれで際立ってくる。だから読後感がまるで違う。
 ブルカニロ博士の削除(追放)には賛成する。だが「黒い帽子のおとな」は復活させてほしい。最終形には彼が入る接続点が当然ながら残されているわけで、そこに挿入して物語が壊れることはない。「黒い帽子のおとな」の復活は可能だと思う。これをもって「銀河鉄道の夜」の完成形(仮)と言えはしまいか。

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