goo

先帝祭




「関の先帝 小倉の祇園 雨が降らなきゃ金が降る」
と云われた下関の先帝祭(3日)に、初めて行ってきました。

昼頃は一時雨の予報。
ちょっと曇っていたが、雨は降らなかった。
それよりも、この日も黄砂、かなり霞んでいました。
さて、金は降ったのだろうか?

☆.。.:*‥° ☆.。.:*‥°.:*‥°☆.。.:*‥ °☆.。.:*‥°☆

 トップの画像は、降りた下関駅です。
数年前、心ない者の放火で焼失しました。

以前あった三角屋根の駅舎は、
1942年に関門トンネル開通に伴い、駅東口に建てられ、
特徴ある駅舎は皆に親しまれていました。
(それだけに、残念です。)

これは仮駅舎で、新駅舎の構想も進んでいるとか。



 寿永4年(1185年)3月24日、
平氏は、壇之浦の合戦で源氏に敗れ、
わずか8歳の安徳幼帝も、祖母二位の尼に抱かれて、
『波の底にも都の候ふぞ』の言葉とともに、
波間に消えていかれました。

(私は、隠蓑の「しび着せ祭」の方を信じていますけど、)

先帝祭とは、
 いつの頃からか、平氏の残党や女たちの一群が安徳幼帝命日に、
御陵に密かにお参りするようになったことが、始まりだそうです。
また女たちは、もともと平氏の女官で、貧しい身なりになりながらも、
誇り高く手厚いお参りに、多くの人々の涙を誘いました。

 女たち(平氏の女官)は遊女となった、とも言われていますが、
貧しい身なりになりながらも、ほそぼそと生活していたようです。
やがて女官たちも絶えた後、江戸時代になって稲荷町に遊郭ができ、
廓の主人がその女官たちの優しい真心と美風を後世まで伝えようと、
お抱えの遊女たちに参拝を続けさせたといわれています。


  「しものせき 海峡まつり」パンフレットより抜粋

↑上と↓下の写真は、
着飾った上臈(じょうろう)一行が市街を行列し、
赤間神宮に向かっています。市内をパレード?
(上臈とは、高級女官のことです。)

途中の4ヶ所で、上臈が外八文字を披露しながら歩きます。
その艶やかな姿は豪華絢欄そのものです。」

と言うことがパンフレットにあったので、頭に入れていた。



 処が、この日は「しものせき 海峡まつり」で、
源平まつり・源平船合戦が目に入った。
100隻近い漁船が紅白の旗を立てて、源平の衣装でパレード?
唐戸市場で買った弁当とビールで、しばし観戦!

 あっれれ、肝心の上臈の外八文字を踏む姿は観そこなった。




赤間神宮です。
勿論、安徳天皇が祀られています。


良く分らないが説明文に依れば、
官女に警固、稚児が従い、上臈に禿(かむろ)の随う美しい列立は、
遠く平安の昔、宮中で行われた五節舞姫の形に基づくとされ、
龍宮造りの御殿に映える絢爛豪華な外八文字・上臈参拝の絵巻は、
遥かな時を越えて、源平の歴史を今に伝え西日本随一の行事と
称えられています。 無形文化財指定
 
(パンフレットより抜粋)










 上臈が赤絨緞を敷きしめた天橋を渡る時、
祭りのクライマックスを迎えます。 (ここで外八文字を披露)
一行は神殿に向かい、拝礼儀式を行います。

後ろから見ていたが、特に印象に残ったのは上臈の参拝方法、
拍手(かしわで)を打つ時、両手を帯の前で止めていたことです。
パンパンと音を出しませんでした。(何か意味があるのかな?)

*:.。..。.:*・゜゜・ *:.。..。.:*・゜ ゜・*:.。. .。.:*

赤間神宮より少し離れた、「みもすそ川公園」です。

  「つわものどもが ゆめの あと」 

御裳川(みもすそがわ)は、
この場所で関門海峡に注ぐ小河川だったが、
現在の河口は公園と国道の下に隠れています。



源平の総大将、源義経と平知盛像
義経は八艘跳び、知盛は錨を担いだ姿



 一度は観ておきたかった先帝祭、一応クリアーです。
人出は多かったが、そんなにビックリするほどでも無かった。
赤間神宮では、水天門を入った辺りは無料で天橋を見られます。
本殿近くに行くには、入場料500円でした。

 上臈が路上で、こっぽり下駄での、
外八文字で歩く姿を見られなかったのは残念だった。
天橋での外八文字は、
狭い場所で、裸足(足袋を履いてたかな?)で、
あまり迫力がなかった。 所謂、無形文化財です。
興味のある方は、見ておく価値は充分ありあます。

コメント ( 14 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする