北九州八幡から発信
八幡、やはた、やわた、はちまん
北九州大水害写真展
只今、梅雨の真っ只中で、昨日も今日も降っています。
この雨で、特に南九州では災害が出ているようで、
北九州でも、今後の警戒が必要です。
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61年前に北九州を襲った大水害の記憶を伝えようと、
当時の写真や新聞、関係資料を集めた展示会が、
八幡図書館で開かれていて、昨日行ってきました。
2,3日前の新聞で知ったのだが、初日でした。
NHKや新聞社が、取材に来ていました。
会場の2階の集会室です。
災害の様子の写真約60枚と、
当時の新聞記事や大水害について、
書かれた本などが展示されていました。
我が母校(平野小学校)の南校舎が横の平野川の氾濫により、
一階は1m近く、土砂に埋まりました。
この写真は、2,3日後の復旧作業の様子かな?
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北九州地方は昭和28年6月28日、誰もが「経験したことがない」
と語るほどの激しい雨に見舞われました。
ピーク時には市内のあちこちで1時間に100㍉前後の豪雨となりました。
これにより大小の河川が氾濫し、山がけ崩れや土石流が多発。
家屋は全壊、床上浸水し、交通網は寸断され、
工業地帯は大災害に見舞われました。
農村部でも田植えを終えたばかりの水田が土砂に埋まり、
野菜畑、果樹園が流失。 畜舎は倒壊しました。
とりわけ被害の大きかったのが旧5市の門司、小倉、八幡市です。
175人が死亡、行方不明8人、およそ8万3000戸の家屋に被害が出ました。
(北九州大水害・説明文より)
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被災当時の母校の写真がある。
これが見たいが為に行った、のが本音です。
この年から、戦後生まれの団塊の世代が入学した年です。
教室が足りなくて、急慮新築した校舎でした。
それでも、一年生は二部授業(判りますか?)でした。
被害を受けたのは、この校舎だけだったと思う。
不謹慎にも、写真展の趣旨とチョット違うが、
遠い昔の母校や、当時の風景に懐かしさを感じました。
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若松・佐藤公園と紫陽花
これは、15日の「ウォーキング」です。
『高塔山6万本のあじさい鑑賞と歴史・文化の若松ウォーク』
例年なら、この時期、高塔山「若松あじさい祭り」があって、
ウォーキングとタイアップしてるんですが、
今年は、あじさい祭りに何か事情があるようで、
祭りは28~29日です。
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前々から、気になっていた高塔山山麓の「佐藤公園」、
高塔山にロープウェイが架かっていた頃の山麓駅があった所です。
コースマップに載っているのに、何故かパスしていました。
すぐ横に白山神社があり、いつも其方の方だけ行っていた。
今回、じっくりと見てきました。
↓ 佐藤公園です。ここで見つけたのが佐藤慶太郎氏の胸像、
佐藤慶太郎(1868~1940)、生まれは筑前国遠賀郡陣原村(現・八幡西区陣原)、石炭商の仕事、炭鉱経営者として成功を収めた。 東京府美術館(現・東京都美術館)は、彼の寄付100万円(現在の約33億円相当)で建ったとか。 儲けた金は社会奉仕へがモットーで、病院建設等、数々の業績を残しています。 この公園は、生前の1934年(昭和9年)に自邸の土地建物を若松市に寄附し整備された公園だそうです。
郷土が生んだ偉大なる人物です。(初めて知りました。)
(説明看板です。 クリックで大きくなります。)
佐藤公園内です。
昔、高塔山にはロープウェイが架かっていた。
その名称は、「高塔山ロープウェイ」、
この佐藤公園から山頂まで、全長約300メートル。
開業は昭和33年8月、廃止は昭和46年、
1~2回、乗った記憶があります。
何処かに何か、当時の痕跡が残ってないかなあ?
探したけど、全然わかりませんでした。
想像だけど、この辺りにホームがあって山頂へ向かっていた?
上の方を眺めたけど、木々や民家で山頂は見えませんでした。
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佐藤公園を後に、山頂へ向かいます。
山頂の「かっぱ地蔵堂」です。
今年も、地蔵様の後ろの河童封じの釘を確かめました。
ちゃんとありました。 (触りもしました。)
山頂展望台からの眺めです。
多少、曇っていたが、それよりもPM2.5の影響だろう?
皿倉山は霞んでいました。
若松の街も、(カメラのせいじゃないです。)
今年の高塔山の紫陽花です。
若松の町は海岸沿いから山頂まで、紫陽花だらけ、
咲き乱れて、訪れる人を楽しませて、癒してくれています。
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高塔山の紫陽花は里親制度で、
ぐんぐん増えています。
地元の小中学生が主体ですが、
あじさい祭りでは、一般の人でも受け付けています。
自分が一年間育てた紫陽花を、高塔山に移植する。
高塔山が身近に感じられそうですね。
(私はやったこと無いですけど、)
『若松あじさいまつり実行委員会』 のHPです。
今年の「あじさい祭り」に出かけてみませんか?
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とばた菖蒲まつり 2014
梅雨に咲く花と言えば、紫陽花に花菖蒲、
戸畑の「とばた菖蒲まつり」に行ってきました。
会場の夜宮公園に行く前に、
いつも見逃がしていた「まごじ凧」と「ゴリラ」、
今回は、ちゃんと見てきました。
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玄関にあった「セミ凧」は良く知られています。
知事指定特産民工芸品だそうです。
そして、
いつの頃から生息?しているのか?
区役所前のロータリー広場です。
旧区役所(元戸畑市役所)が、
装いも新たに図書館に生まれ変わりました。
ちょっと、中を覗いてきましたが、新品ピッカピッカ!
急いでいたので、感想はそれだけです。
横の広場にあった歌碑、
「新墾のこの坂道のすそとほし
友のすがたの其処ゆ登り来」
若山牧水の歌で、
大正14年、八幡の荒生田の宿から鞘ケ谷を越えて、
知人宅を訪れた時の歌だそうです。
当時の鞘ケ谷は、開墾途上だったのだろう?
(想像はつきます。)
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「とばた菖蒲まつり 2014」の会場です。
夜宮公園池の花菖蒲です。 見頃でした。
(カメラも腕も悪いから、この程度で、ご勘弁を!)
イベント広場、
戸畑のゆるキャラ「よいとくん」かな?
「戸畑名物?皿回し」も人気でした。
(自由にやらせて貰えます。)
こちらは日本庭園会場、
愛好家ご自慢の花菖蒲、品評会かな?
(接近して撮れました。)
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西日本工業倶楽部、
中には入れなかったが、横の公園内の脇道?が開放されていて、
遠くから(近くから?)庭園と建物を見ることが出来ました。
梅雨入りしてから、適当に雨も降っているし、
福岡県主要ダム貯水状況は、
昨日(9日)現在、平年並みの82.0%です。
「梅雨前線は、此方では活発にならなくてもよろしい!」
このままの状態で、適当に降って、
梅雨明けを願いたいですね。
夜宮公園の前の「なんじゃもんじゃ通り」では、
なんじゃもんじゃの実が、生っているのを見つけました。
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隠れキリシタンの里を訪ねて、
(↑ JR長崎駅です。)
『長崎の教会郡とキリスト教関連遺産を世界遺産へ、』
と、長崎では運動が薦められています。
その一部ですが、先日、行く機会があったので見てきました。
長崎駅からシャトルバスで約45分、
西彼杵(にしそのぎ)半島の外海(そとめ)地区と云う所です。
ここには、黒崎教会や出津(しつ)文化村など隠れキリシタンの
深い信仰の歴史を物語る史跡が数多く点在しています。
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最初に訪れたのは、
↓ 枯松(かれまつ)神社、キリシタン神社です。
外海(そとめ)キリシタンの信仰の指導者であり、
日本人伝道師バスチャンの師でもある外国人宣教師サン・ジワン神父を祀った神社です。
キリシタン神社は、日本に3ヵ所しか無いとか。
慶長19年(1614年)に禁教令が出されると、
キリスト教信者への取り締まりは、いっそう厳しさを増しました。だが、外海地区の多くの信徒たちは、枯松の山頂に密かに集まってオラショ(祈り)を伝承してきたそうです。
カトリック黒崎教会、
完成したのは1920年(大正9年)で、1879年(明治12年)に出津町へ赴任してきたフランス人宣教師のド・ロ神父によるものです。
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遠藤周作文学館 平成12年(2000)5月開館。
遠藤周作氏の代表作『沈黙』の舞台は、ここ外海地区だと言われています。
小高い所にあり、眺めは抜群。ここから見る夕日は、青い海を紅色に染め、訪れた人を魅了する景色だとか。一度見たいですね。
出津町(しつちょう)の漁港かな?
向こう岸の右の方に、出津教会が見えます。
フランス人宣教師のド・ロ神父の墓がある場所です。
周りの墓は、日本人のキリスト教徒のものです。
遠くから見ると普通のお墓(墓石)と変わりませんが、
近づいて良く見ると、上に十字架が刻まれていました。
ド・ロ神父のお墓です。
ド・ロ神父とは、ウィキペディア百科事典によれば、
マルク・マリー・ド・ロ(Marc Marie de Rotz, 1840年3月27日 - 1914年11月7日)は、パリ外国宣教会所属のフランス人宣教師(司祭)である。 1868年(明治元年)6月に来日し、長崎県長崎市外海地区(旧西彼杵郡外海町)において、キリスト教(カトリック)の布教活動の傍ら、貧困に苦しむ人達のため、社会福祉活動に尽力した。
と記されています。
出津教会堂と関連遺跡、
国の重要文化財に指定された旧出津救助院、ド・ロ神父記念館、外海歴史民俗資料館などがあり、「出津文化村」と呼ばれています。
この辺りまで歩いて来ると、もうヘトヘトで、横目で見ただけです。写真は、旧出津救助院と出津教会堂です。
もう、お分かりと思いますが、これはJRウォーキングです。
何で?また、長崎の果てまで?
実は、遠藤周作の大ファンで、「沈黙」の舞台を一目見たかった。 ただ、それだけのことです。
狐狸庵先生 遠藤周作、
違いの分かる男の ・・・ 何とか、かんとか。
昔、テレビのコマーシャルで流れていた。
私も違いの分かる男を目差してるんだけど~・・・?。
この日の為に、最近、「沈黙」を2回読み直しました。
小説では、トモギ村(架空の村?)が出てきます。
最初に行った「枯松神社」は、山の中にありました。
説明員のおばさんが、ここが小説の舞台・トモギ村です。
と、自信をもって話していました。
写真に、カトリック黒崎教会をアップしましたが、
この辺りは、旧黒崎村です。 枯松神社がある所もそうです。
地名表示板があったので見ると、黒崎の地名は残っていました。
(八幡の黒崎(旧黒崎村)とは、関係なさそうでけど、)
ウォーキングは約10Kmでしたが、アップダウンの多いコースで、おまけに天気が良すぎて汗ビッショリ、最後はヘトヘトでした。
ゴール(外海歴史民俗資料館)の近くに、
海を見下ろす眺めの良い場所に、遠藤周作・文学碑がありました。大きな二つの岩からなり、(↑上の写真をご覧ください。)
一つには、「沈黙の碑」と刻まれ、もう一つには、
周作先生がこの碑のために特別に著した文章が刻まれていました。
人間が
こんなに哀しいのに
主よ
海があまりに
碧いのです
遠藤周作
駅に戻って気が付いたが、今年は長崎国体なんですね。
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